44話 無我夢中
「う……うわあああぁぁっ!」
釣竿を手放そうとしたが、遅かった。あっという間に俺の体は宙へ投げ出されていて、一回転してまもなく湖へと落ちてしまった。
「――……ごぽっ……!?」
水面まで浮かび上がったときには、巨大な黒い何かが顔を出してきた。人の頭部ほどの巨大な双眸が俺を捉え、幾多もの牙を閃かせるのがわかる。
『ギョギョギョオオォッ……』
「……あ、あ、あ……」
も、もうダメだ。まさかこんなところで正体不明の化け物に食い殺されるとは……。
「――はっ……?」
あれ……? いつの間にか、食われる寸前だったはずの俺は湖の前にいて、普通に釣りをしていた。服は濡れてないし釣り糸も微動だにしていない。
……どうやら、釣りをしたまま寝てしまって夢を見ていたというわけらしい。しかし、立て続けに奇妙な夢を見ることになろうとはな……。夢の内容がどっちも釣り関係なせいか、夢の中にいるということにまったく気付けなかった。
「くうぅ……」
「……」
コレットは相変わらず寝てる。それも見てるとこっちまで蕩けそうになるくらい幸せそうに。
「カレルさん……大好き……」
「お、おいおい……」
「……ダメです……。ファリムさんにも……ルーネさんにも……カレルさんは絶対に渡しませんよ……。私だけのものです……クククッ……」
「……」
まあ光と影は表裏一体だと思うから聞かなかったことにしておくとしよう……。
「……あ……」
思わず声が出る。何か今、後ろのほうから物音がしたような。タタタッと、小走りするような音だった。動物か何かが通ったんだろうか……?
「はっ……」
思わず声が出た。人影が物凄い勢いで近くを通り過ぎていくのが見えたからだ。
「コ、コレット! 起きろっ!」
もしかしたら山賊か何かかもしれない。俺は彼女の肩を掴んで激しく揺さぶった。
「……あ、カレルさん……? 私いつの間にか寝てしまってたんですね、ごめんなさ――」
「――そんなことはいい! コレット、早くここから逃げるんだ! 誰かが近くにいて、山賊かもしれない!」
「え……ええっ!?」
俺たちは猛然と宿舎へと向かって走る。興奮のあまりか眠気は完全に吹き飛び、あれほどあったはずの体の痛みもほとんど感じなかった。よし、この調子ならいける。今だけは怪我のことを忘れるんだ……。
「……うっ……?」
不思議と怪我について意識し始めると痛みが出てくる。
「カレルさん!? 私が背負っていきます!」
「大丈夫、もうすぐだから……!」
それに、今はただ走るしかなかった。例の人影の主であろう何者かが俺たちのすぐ間近まで迫ってきているのが足音でもわかって、振り返る暇もなかったんだ。
「――つ、着いた……はぁ、はぁ……」
「ふぅ、ふうぅ……つ、着きましたね……」
宿舎の玄関前まで到着し、俺たちは倒れ込んだ。人影は途中で消えたし、ここまで来れば大丈夫のはず……。
「……あっ……」
「……コ……コレット……?」
宿舎の玄関前、こっちに振り返ってきたコレットが恐怖の表情を浮かべるのがわかった。ま、まさか……。
「……」
恐る恐る視線を後ろのほうにやると、人影は俺のすぐ後ろまで来ているのがわかった。もう、しばらくは動けそうもないし万事休すなのか……。
「あら」
「「えっ……」」
俺とコレットの拍子抜けした声が被る。人影が月明かりに照らされて正体をさらけ出したわけだが、誰かと思えばマブカだった……。
「……て、てっきり山賊か何かかと……」
「私もです……」
「そうでしたか。どうやら驚かせてしまったようですね。わたくしはお散歩してただけなんです。夜風に当たりたかったので。それではおやすみなさい」
マブカは飄々とした様子で宿舎の中へと入っていった。
「「……あはは……」」
俺たちはその場で力なく笑うしかなかった……。




