嘘と迷い
「もうちょっと知りたいなって思って。キスってその人のことが良く分かる気がするから」
倭子は温真からの言葉を何度も反芻した。あの突然のキスから3日。4人でいるときに交換した連絡先からは何の言葉もなく、いい加減、倭子の方がしびれを切らしてメッセージを送ったのだ。
『別れ際のあれ、何だったのでしょうか』
あの日から温真があの夜の再現で夢に出てきたり、気づくと温真との会話を思い返している自分がいて、いよいよ明日には夕来との約束があるというときに、もう迷っている場合ではないとストレートにぶつけてみた。
仕事帰りの電車の中、朝から何度も添削した文面をもう一度見直していよいよ送信ボタンに指を置いた。
すると、息つく間もなく電話がかかってきて、表示を見ると「伊勢温真」となっている。
改めて見ると仰々しい字面だなとわざと思考をそらしてから指をスライドさせた。
「何、もしかして怒ってる?」
温真の声に、倭子は周囲にそっと目を配り、口元を手で覆った。
「別に、そんなことありません」
囁くように言うと、
「なぁに、怒ってるじゃん」
温真のバックからカチカチとウィンカーの音が流れてきた。
「車、ですか?」
「路肩に止めてるから大丈夫だよ」
「切ります、こっちは電車なので」
「ちょっと待って」
変わらないトーンで温真が囁く。
「倭子ちゃんいい子だから、ちょっと心配になっちゃって。彼氏にちゃんと甘えてないんじゃないかって」
周囲の音がすっと消えて、倭子の脳内に温真の声が響く。
「そんなこと」
「それに倭子ちゃんのこと、もうちょっと知りたいなって思って。キスってその人のことが良く分かる気がするから、それでつい。傷ついたならごめん。でも反省はしてないよ」
じゃあね、そう言って電話は切れた。携帯電話を握りしめる倭子の顔が向かいのガラスに映っている。なぜか少しホッとしていた。あんな風に自分に関心を寄せてくれる男が、夕来の他にいるという事実は、倭子の気持ちを不思議と穏やかにさせたのだ。
不倫などしたくもないし、これ以上温真に深入りすることはないけれど、こんな風にちょっと気のあるムードを楽しむぐらいの余裕が、今の自分には必要なのではないか。固苦しく考えることなく、友達という感覚で。
いや、それでもあのキスは何なのか。倭子の思考はついそこに行き着いてしまう。ただ、温真にとってキスなど挨拶代わりかもしれない。自分のように、深くねっとりと思いを巡らせているなんて、彼から見たら気持ち悪いだけだろう。
倭子は雑念を追い払った。明日になって夕来に会えば、ケロッと忘れるだろう。彼から抱きしめられ、求められることを思うと、自然と気持ちが高まってくる。ただその高まりのタネは彼の突然のキスから来ているかもしれない。
そして、実際にこうして夕来に会って、彼の前に座ると、あの日のことが夢のように普段どおりの自分でいられた。
そこにメッセージの到着を知らせるメロディが鳴る。倭子がかすかに震える指で確認すると、送り主は美紅だった。
なぁんだ。全身の力が抜けて、「美紅からだ」と何の気無しに指をスライドさせると、そこには写真の添付があり、「この前の写真渡すの忘れてた」と4人の顔が並んでいた。
倭子の隣で顔を寄せているのは、紛れもなく温真だ。上品に微笑んだ口元につい意識がそれてしまう。
「何?嬉しそうだね、美紅ちゃん何だって?」
ハッと顔を上げると、夕来がニコニコとこちらを見返していた。
「ん、この前一緒にご飯食べた時の写真」
「へぇ、見せて」
一瞬隠そうと思ったけれど、それも変だとやや遠慮がちに画面を向けた。パッと本体を取られて思わず声にならない声が漏れる。
「どういう集まり?会社の同期?」
「美紅の旦那さんと旦那さんの同僚の人」
「へぇ」と戻してきた夕来の顔からは何の感情も読み取れなくて、倭子はホッとする。
「なんか奥さんと喧嘩したんだって、その同僚の人。みんなで相談に乗ってたの」
「そんなの他人に聞いても仕方ないのにな」
夕来の言葉に実感がこもっていて、倭子は何も言えなくなる。
つい進んでしまったワインが脳内を鈍く包んでいた。とにかく今は、夕来に抱かれて何もかも忘れたい。