本音と寄り道
「渚井さんって、ちょっとミステリアスですね。なかなか出さない方でしょう?自分の本音」
伊勢温真のこの言葉を聞いたとき、倭子はハッとした。
本当なら、金澤美紅と2人で食事をするはずだったけれど、「旦那さんが来たいって言うんだけどいいかな」と言われたときに断ればよかった。待ち合わせたレストランで、美紅の旦那さんに連れがいたとき、もしかして美紅の入れ知恵かもしれない、と倭子は一気に気分を害した。
確かに、長年付き合っている彼がなかなか結婚という言葉を言ってくれない、と言ったことはある。あのときは真剣に悩んでいたのだ。ただ、今はどん底からちょっと抜けて、結婚ばかりが恋愛のゴールではないと思い始めていた。
「ちょっとヤキモチ妬かせた方が、焦って結婚って言いだすかもよ、その彼」
あの時の美紅はそんな風に言ってくれたと思う。けれど、なぜ今頃になって男を紹介する気になったのだろうか。
「すみません、渚井さん。こいつ、会社の同僚なんですけど、今奥さんと喧嘩中で気分がくさくさしてるって言うもんだから」
なぁんだ。倭子は全身の力が一気に抜ける。既婚者か。勘違いしてバカみたい。
「申し訳ありません。女同士の楽しい宴に無理やり割り込んじゃって。自分、思春期に海外生活してたからか、どうも特に人間関係の考え方が違うみたいですぐ喧嘩になるんです」
親の仕事の関係で、一時期アメリカに住んでいたのだと言う。美紅の旦那さんは外資系の会社だから仕事では重宝されるのだろうけれど、上司からは「ガイジンはやりづらい」とはっきり揶揄されることもあるらしい。
「レディファーストってやつ?女性には人気あるけど、おっさんらにはダメだね。いや、奥さんにもか」
「自分が思うようにやって悪目立ちすると、周りがざわつくんだよなぁ。まぁ言いたいやつには言わせておくけど」
「そういうとこだよ、ウケが悪いのはさぁ」
新鮮だった。倭子の周りの会社人たちはそれなりに常識の中で窮屈に頑張っていて、他人の言動には皆ひどく敏感だ。こんな風に「言いたいやつはほっとく」と平気な顔ができる者は少数派だろう。
「伊勢さんの奥さんってどういうタイプの人なんですか」
サラダを取り分けながら、美紅が聞く。
「ん、美人でね、気が強いタイプだな。仕事もできたし、サバサバしてて上司にもはっきり物言うタイプだったな。でも全然それが嫌味じゃなくて」
本人ではなく、美紅の旦那が答えた。
「そうか、同じ会社にいたんだもんね」
「そー、職場恋愛」
夫婦の間で進む会話に割って入り、
「おいそこの夫婦。こっちの家庭の事情まで暴露するつもりじゃないよな」
伊勢温真が笑ってワインを飲み干す。
「ごめんなさいね、倭子さん。一通りご飯食べたら、自分たちは消えますんで」
倭子さん、と呼ばれて一瞬心臓が踊った。
「いえいえ、楽しいです」
「いや、楽しまないでー。こっちは喧嘩中なんですから」
笑いに包まれて、思いの外話が弾んだ。そつなく嫌味なく、男2人が場を盛り上げて4人で話せるように話題に気を回す。倭子は久しぶりにワインが進み、美紅はぶどうジュースではしゃいで、しまいにはウトウトして旦那さんの肩にもたれかかっている。
「渚井さん、このまま2人で帰ります。伊勢、送ってってくれな、頼んだぞ」
店の前に2人で残されて、店が呼んだタクシーに乗り込む金澤夫妻を見送る。
「いいなぁ、仲良しだもんなぁ。あの2人は」
自嘲気味に笑う温真がおかしくて、倭子は思わず微笑んでしまう。
「じゃあ送っていきますよ。家どこですか?」
「もう遅いし、タクシーにしようかな」
じゃあ拾えるところまで行きましょうか、と2人で大通りまでを並んで歩いた。
「渚井さんって彼氏いるんですか」
「はい、まぁ」
「結婚、しないんですか。その人と」
いきなり聞かれて足が止まった。
「今日ちょっと話しただけでアレですけど、渚井さんってちょっとミステリアスですよね。なかなか出さないでしょう?自分の本音。もしかしてその彼氏にもそうなんじゃないですか」
何をわかったようなことを、と顔を上げたら、ふっと温真に抱き寄せられていた。息のかかるほど近くに顔があり、そのままゆっくりキスをされる。
倭子の時間が、瞬間止まった。