喪失とプライド
夕来の目標でもある男、島田が突然意識を失って倒れ、そのまま入院することになった。脳の問題で、もしかしたら意識が戻ることはないかもしれないと言う。
倭子が夕来とともに病院に行ってみると、おろおろとする奥さんに出迎えられ、厳しい状況であることが告げられた。
夕来は呆然と立ち尽くしていたけれど、自分の後に入ったというアシスタントを見つけると、奥さんから離れて話をし始めた。
「何があったか、自分もよくわからなくて。仕事中じゃなかったもんですから」
「どこで倒れたの」
「ここに来た時にはあの人が一緒でした。前のスタッフだっていう、粒来さんとか言う人」
夕来は呆れた。まさかとは思ったけれど、まだ続いていたのか。円花は本当に仕事を諦めただけだったのだ。何てタフな女だろう。
「今、その粒来さんは?」
「あ、奥さんと自分がここに着いた時にはいたんですけど、奥さんがもうここはいいから帰れって言って」
アシスタントの言い淀む様子で、どんな剣幕で追い払ったのか想像はつく。夕来はスマートフォンを操作して、円花の連絡先を表示するけれど「あ、ここ携帯ダメですよ」とたしなめられ、慌ててバッグにしまった。
それからアシスタントは島田の妻に「もうぼく帰ります」と言い置いて、その場を立ち去った。その前に「まいったな、無職か。明日から」と呟いたのを夕来は羨ましい思いで聞き流す。
誰しも当事者ではないと願う。図らずもそうなってしまったら、みっともなく苦しむしか方法はないのだろう。
「あの、桑田さん。こんなこと頼めた義理じゃないけど、明日からのあの人の予定、すべてキャンセルの手続きとってもらえないかしら。他のアシスタントには予定通り出勤してもらって、当日の客さばきをお願いしてほしいの。私はまだしばらく動けないし、他のスタッフは短期の人が多いし」
彼女の瞳は、夕来以上にスタッフ業務を熟知しているだろう円花の介入を一切許さない決意に満ちていた。
「今引き受けている仕事があるので、パソコン持ち込んでもいいでしょうか。あと、アシスタントとして自分の恋人、渚井倭子というものですが、明日の日曜日だけでも一緒に作業させてもらえませんか」
「今のアシスタントとあなたたち二人、それだけでお願いね」
念押しする島田の妻のプライドを痛いほど感じて、夕来はゆっくり頷く。
「もちろんです、約束します」
円花はどうしているだろう。夕来の脳裏にはいつか交わした円花とのキスが浮かぶ。「ひどいキス」、彼女はそう言っていた。
倭子は少し高揚していた。もちろんそれどころではないことは承知しているけれど、非常時の混乱の中、夕来がキビキビと対応している姿が見られるのは頼もしいし、その中に自分もいるということは誇らしかった。
島田の状況は思う以上に悪く、今アシスタント業務をしている奥さんは病院に貼り付いて離れられない。島田の弟という人物の家族が入れ替わりで病院に立ち寄るのだけれど、奥さんはあまり眠っていないらしい。
「あの、島田さんと一緒にいたっていう粒来さんという人、長くアシスタントだったんですよね。ここには奥さんもいないことだし、手伝ってもらった方がいいんじゃないですか」
今のアシスタントにそう言われた時、夕来は即却下していた。薄々気づいてはいたけれど、島田とその粒来さんという人は愛人関係にあったらしい。それも5年以上も。
正式な立場でないということは、あまりにも危うい。倭子は改めてそう感じる。もし夕来に何かあった場合、連絡が行くのは元妻の方だろう。家族になったこともない自分にはその権利はない。
倭子は急に足元が冷えてくる。自分は何もなしえていない。妻であることも、母であることも、すべてを放棄して夕来が聞きたくないだろうことを、勝手にセーブしている。それが、「待っている」ということになるのなら、奥底にある本心はなぜ黙って現状に従っているのだろう。理解していると思った。けれど、それが曖昧な決意だったのがわかる。
「その粒来さんって人には連絡したの。厳しい状況なんだって」
「しないよ、メッセージ送ったけど返信ないし、奥さんがあまりいい顔しないし」
「そりゃ自業自得かもしれないけど、でも知りたいよ、絶対に。怖くて怖くて仕方ないと思う、今」
暗い部屋で一人、丸くなって一夜を明かす粒来という人の姿が倭子にはくっきり感じられる。




