本性と醜聞
倭子は混乱した。
「奥さんには離婚してって言われてる。あいつは浮気したんだ。別に本気じゃないんだろうって何度も問いただしたけど、曖昧にしか答えない。女ってみんな冷酷で自分勝手だ」
倭子は肩を震わせて顔を覆う温真を、まるで他人事のように見下ろしていた。そんなつもりなどなかった。倭子はただ自分の気が済めばこの関係は泡となる、という非常に身勝手なことを考えていただけで、そこには他の登場人物など一切なかったはずだったのに。
温真の発した「依存」という言葉の威力にすっかり怯えた倭子はもっとそのことを聞きたかった。だから運命の場所とも言えるあのスーパーで、毎日ゆっくり買い物をした。
そして8日粘った末に、見つけたのだ。温真の姿を。
施設内にあるコーヒースタンドは、ガラス張りになっているせいで、夜道には場違いなほどそこだけ明るい空間がぽっかり浮かんで見える。
その窓際で、コーヒーを手にした温真を見つけた時には、倭子にはもう首筋から香る温真の香りに鼻腔をくすぐられていた。
自分がいかに乾いていたかがわかる。
早足になるのを抑えきれず、そのまま自動ドアを通過しそうになるのをこらえて、買い物かごを腕に通した。
コーヒースタンドの飲食エリアに行き、そっと温真に近づく。背中ごしに見る彼の眼の前には、茶封筒から覗く束ねた白い紙があった。
「あの、温真さん?」
なるべく自然を装おうと口をついて出た言葉が弱弱しく響く。
温真はゆっくりと振り返った。けれどその顔には表情というものがすっかり抜け落ちている。
「どうしたん、ですか?」
ゴクリと唾を飲み込む音がして、温真は何度かスーツの下にあるワイシャツの首元をひっかく。
「わかってたんだけどなぁ。やっぱきついわ」
独り言なのか、もしや倭子への言葉なのか、一瞬何を言っているのだろうと思う。
「君ってさ、罪の重さって何グラムくらいだと思う?」
会話のピントが合わない。
「は?」
「重さ。重力の具体的な根拠というか、数値の精査っていうか」
何と言って良いか分からず、押し黙っていると、ふっと温真が息を吐いた。
「ごめん。多分今ちょっと混乱しててさ、実は奥さんに離婚してって言われてて。知ってたんだ。あいつ、好きなやついるんだ。浮気だって遊びだって思ってて、これまで見ないふりしてたけど、こんなのって」
温真が髪をかきむしる。手元の書類の封筒を見ると、探偵事務所のものだった。
「きついよなぁ、知ってるやつだったし。知りたくなかったのに、自分は。あいつが誤魔化すから」
温真は倭子を見ていなかった。そこにいるのに遠かった。
「自分の罪の重さは軽い。あいつとは比べものにならない」
軽い、自分の罪は。女を誘うことも、倭子との関係も。
「軽いって」
「本気だから重いんだ」
温真の背中が丸くて、倭子は哀しくなる。自分は、この人の本気に入る権利すらなかったのだ。急速に心が冷えて、倭子はあとずさった。
「今からホテル行こう。気分転換したい、今無性に」
掴まれた手首があまりにも痛くて倭子は声も出なかった。身をよじって抵抗するけれど、温真はそのまま立ち上がってどんどん進んでいく。
「ちょっと待って!こんなの嫌だ」
声を殺して温真の耳元で懇願した。ごめん、夕来。倭子は悔しくてたまらない。
「何だよ、自分の望みが叶えばそれでいいのかよ。お互いに気楽な関係のはずでしょう」
温真は格好つけないで、素の自分をさらけ出しているのだ。その姿があまりにも醜くて倭子は恐ろしくなる。
「嫌だ、離して」
強く振った手首がようやく解放されて、倭子は足早にその場から逃げ出す。もう二度と振り返ることはない。
「別居中だったみたいだよ。喧嘩中とか嘘ついて、本当信じられないね。いい加減な男だとは思ったけどさ、旦那さんにも釘さしといた。あんな男とはあんまり付き合うなって」
美紅はわかっていた。偽りの優しさにのぼせていたのは自分だけだったのだ。だから誰の選択肢にも入らないのかもしれない。