エピローグ
【2026年9月12日土曜日 夜】
「母さん、死ななかった!」
ユウヤが叫んだ。
泣いてるのか笑ってるのかわからない。
まだレイナの血の匂いが残る、誰もいないリビングに駆け込んできて、ユウヤは叫んだ。
じいさんとおれは寝室にいた。じいさんはいつものクッションに寝そべって、おれは窓辺で外を見ていた。
あのあとすぐに救急車が来て、少し遅れて警察も来た。ユウヤはずっと泣いていたが、救急隊や警察官の質問にはひとつずつ答え、指示されたことにも「はい」と返事をして、じいさんとおれを寝室に閉じ込め、レイナの体と一緒に救急車で病院へ向かった。
おれもじいさんも、寝室のドアは飛びつけば開けられた。だがどっちもそうしなかった。
トイレも水もじいさんのがあったし、腹は減ってなかった。じいさんは何も言わずにクッションで寝てしまい、おれはただ外を眺めていた。いつもとなんら変わらない、マンション裏の駐車場。街並み。晴れた空は、青から黄色、そして群青へと変わっていった。
「ユメ!こころ!母さん、助かったよ!」
ユウヤはベッドに仰向けに倒れて、話し続けた。
「お医者さんが助けてくれた……救急車の隊員さんも、一生懸命助けてくれた……母さんは喋れなかったけど……でも……でも、死ななかった……」
震えて、涙声。見ると、腕で目を擦りながら泣いていた。
「……うぅ……ぐすっ……病院では泣かなかったんだよ?我慢してた……ぐすっ……僕が泣いてたって、内緒だからね?母さんにも——」
言葉が途切れ、また大泣き。
窓の外はもう真っ暗で、星がたくさん見えた。星の名前とかはわからない。だが、目を閉じても星が見える。
X字の星。
切れ長の眼の中に光る星。
あの時おれに見えたのは、星だけじゃなかった。
狐野郎はもう来ない。
あいつが捕まえたから。
ユウヤはそのまま寝てしまった。
おれはその顔のすぐ横に降り、そこで寝ることにした。しばらくして、あのハンバーグ婆さんが寝室に来た。ユウヤを連れてきたのは婆さんらしい。ベッドの足元に腰掛けユウヤの寝顔を見ていたが、やがて婆さんも寝落ちした。朝まで。
【9月13日日曜日】
「ICUっていうんだ。アイ、スィー、ユゥ。死にそうな人が入るとこ。母さんは大丈夫だよ?たくさん輸血したからって、お医者さんが言ってた。ICUで治すんだって!すぐ出れるって!」
ユウヤは一時的に施設に保護されることになったが、おれたちの世話をするという理由で毎日帰ってきた。ハンバーグ婆さんと一緒に。
ユウヤは戻るたびにおれたちに報告した。日曜はずっと病院にいたようだ。
ICUが何かは知っている。
【9月14日月曜日】
「今日、母さん歩いたんだ!看護師さんに支えられてたけど。僕も手伝ったんだ……ケガしたのは手だけど、まだ1人で歩いちゃダメなんだって」
月曜からは学校、病院、そしておれたちの世話。ユウヤはそれを毎日続けた。
「でもなんか変……病院の人も、先生や、母さんのお店の人とかも、みんな僕のこと心配するんだ……僕はケガしてないから大丈夫って言ったらみんな泣くんだよ?あ、僕は泣いてないからね!」
そう言って、きれいに磨かれた白い歯を見せた。
【9月16日水曜日 朝】
「……嫌だなあ……行きたくない。今日、宿泊学習なんだ。母さんのそばにいたいよ……でも、みんなには言わない。宿泊学習、楽しみって嘘ついた。そうしないとまたみんな、僕のこと心配するからさ……内緒だからね?ユメ、こころ」
ユウヤは空のバックパックと学校のプリントを見ながら、ボソボソと呟いた。バックパックの中に入りたかったが、やめておいた。
【9月17日木曜日 夜】
「……ただいま……疲れちゃった。今日病院に、ハルカお姉ちゃんが来たんだけどさ……」
ハルカか。またなにか余計なことをしたのか?悪気がないのはわかってるが。たぶん違うだろう。
「……宿泊学習どうだった?って聞かれて、母さんにたくさんお話したんだ。カレー作って美味しかったとか、夜の森、みんなで手を繋いで歩いたとか。あ、ハルカお姉ちゃんの手は大丈夫だって」
やっぱり。ユウヤが悲しそうな顔をしてるのは、ハルカのせいじゃない。
「それでさ。キャンプファイヤーの火、僕がつけたんだよって言ったら、ハルカお姉ちゃんが大声で、すごーいとかえらーいとか言ってさ。でも母さんは何も言ってくれなくて……母さんに、褒めて欲しかったのに。だから……恥ずかしかったけど……頭撫でて!って……お願いした。そしたら……」
俯いて、口ごもった。少しの間、何かを考えるように。
「……撫でてくれたんだけどさ……いつもと違った。こうやって、ユメやこころを撫でるみたいな撫で方で……」
ユウヤの手がおれたちを交互に撫でる。毛並みに沿って、静かに、優しく。
「……違ったんだ。母さんはいつも、えらいぞって言って、僕の髪をくしゃくしゃにするんだ……」
自分で自分の髪をくしゃくしゃにした。何かを吹っ切るかのように。
「うん、でも、母さんだいぶ元気になったんだよ!もう1人で歩けるし。だからいいや!明日は学校休みだし、あさってからシルバーウィークだ!毎日ずっと母さんのそばにいられるし!」
そう言って、ユウヤは顔をおれの腹に埋めた。
毛が少し濡れた。
【9月18日金曜日】
「こころ!これ見て!ダリアの瓶、色紙できれいにした!どう?母さん、これなら喜ぶよね?!」
この日、ユウヤは朝から来て、昼飯も食べずにずっと牛乳瓶の飾りつけをしていた。
牛乳瓶は、とても派手な花瓶になった。銀紙やいろんな色の折り紙で、ユウヤなりに。飾り付けに満足すると、太いマジックで何か書き始めた。
「……はやく……なおると……いいね」
書いたメモを眺めて考え、また新しいメモに書き始める。
「……早く……元気に……なってね……!」
前におれがひっくり返した小箱からカラークリップを取り出して、メモを瓶の飾りに留めた。
ユウヤはそれを丁寧にコンビニ袋に入れると、ハンバーグ婆さんを急かして出掛けた。病院に。
【9月19日土曜日】
「母さん……なんか怒ってるみたいだった……やっぱりダリアが嫌いなのかな……僕の飾り付けが下手くそだからかな……わかんないよ……」
ユウヤはその日、またベッドで泣いた。布団を頭から被って。ハンバーグ婆さんは気づかないフリをしてるのか、何も言わなかった。
おれは、あの日からずっと考えている。
あいつとユウヤ、そしておれのことを。
【9月21日祝日】
「ユメ!こころ!明日、母さん、病院引っ越すよ!すぐ近くの病院!それでさ……いいこと考えた!引越しの時、こころも一緒に行こう!今度こそぜーっったい喜ぶ!うれしいでしょ!?」
ユウヤはしばらくぶりに笑い、はしゃいで、おれをベッドの上に仰向けにひっくり返した。腹をわしゃわしゃされる。普段ならマシンガンキックの餌食だが、今はやらせてやるか。
だがユウヤの手は、すぐに止まった。
「母さん……ケガしてから、一度も笑わないんだ……母さんに笑って欲しいなあ……すごく……すっごく、笑って欲しい……だから、こころ!母さんに会ったら、笑ってって言ってね!」
【9月22日祝日】
そして、今日。
あいつが、ユウヤとハンバーグ婆さんと並んで病院から出てくるのを、おれは透明ドームから見ていた。アルファードの車内で。
10日ぶりだ。
生きている。自分の脚で歩いてる。ユウヤが支えてるけど、脚も身体も動いてる。
生きて、動いて、歩いてる。
『遥!じゃ゙ま゙に゙な゙ん゙な゙い゙よ゙うに゙な゙!あ゙ん゙たも゙ケガ人な゙ん゙だから゙』
助手席にはハルカが座っていた。スマホから、カレンの声が漏れてくる。
「花恋さんの方がケガひどいじゃないですかぁ。早く治してください!ケガ人だらけで、お店、大変なんですから……もー」
『……。あ゙たしの゙ことはい゙い゙から゙。あ゙たしの゙分ま゙でね゙え゙さん゙の゙世話たの゙む゙っ゙す!ハル゙カパイ゙セン゙!』
カレンは退院したが、まだ外出できる顔ではないらしい。ハルカは今も、本当のことは知らないようだ。ハルカだけじゃない。誰も知らない。誰にもわからない。
カレンは元気そうだ。
ハルカは能天気。
婆さんは笑みを浮かべて。
ユウヤは真剣な表情。
あいつは……辛そうだ。
高橋が電動スライドドアを開け、車を降りてあいつが乗るのを見守ってる。みんな、手のケガを心配してる。
ユウヤの話では、入院は最短でもひと月。
退院してもリハビリはずっと続くし、指は治らないかも知れないらしい。神経が切れてしまって、小指以外は何も感じなくて、曲げることもできないそうだ。
でも、あいつが辛そうなのはそのせいだけじゃない。
リアシートに座って、切れ長の目がおれを見た。透明ドーム越しに。隣で、ユウヤがじっと見ている。
「ァオン」
出せ。
通じたわけじゃないだろうが、ユウヤがファスナーを開けてくれた。掬い上げられ、あいつの膝に乗せられた。
顔を見上げて鳴く。
「ンナァーン」
おれを見ろ。
(シャムもどき……私を助けて……)
目を合わせてないのに、いきなりあいつの声が聞こえた。頭の中に。
(……シッポ。おれの言う通りにしろ)
切れ長の眼が、大きく見開いた。茶色い瞳に、小さな小さなX字の星。ちょっと間を置いて、その眼がおれを睨んだ。睨み返して、ひと声鳴く。
「ニャアン」
(あーし、と言え。まずそれからだ)
【完】




