論理の枠組みのパージ
新函館北斗駅の喧騒を背に、湊は直道の運転するレンタカーの助手席で、手元の端末に最後の一撃を打ち込んでいた。静香の監視網には今頃、新幹線改札を通過した湊のIDが、時速320kmで東京へ向かっているという「確実な嘘」が刻み込まれているはずだ。
「……よし。これで、彼女たちの演算リソースは数時間、都内の主要駅で空回りを続けることになる」
湊は満足げに笑い、通信機能を完全にオフにした。彼が選んだのは、ハイテクな追跡を無効化する「情報の墓場」――苫小牧発、大洗行きの深夜フェリーだった。
フェリーの特等客室。湊は、圏外を示すスマホを放り出した。窓の外には漆黒の太平洋が広がっている。この大海原こそが、世界で唯一、追跡者の論理が干渉できない「情報の真空地帯」だった。
「……ここだ。この空白こそが、私の聖域だ」
湊はノートPCを叩き、自身の論理を極限まで磨き上げていく。外部からのパケットが一切届かないこの数時間は、彼にとって真の自由であり、全能感の極致だった。
だが、その横でカップ麺を啜る直道は、どこか冷ややかな視線を送っていた。湊が論理の海に深く潜れば潜るほど、その水面が「家族」という底知れぬ日常に繋がっていることを忘れているのを、彼は知っていたからだ。
深夜の大学寮。湊は防犯カメラの死角を完璧に把握し、一人の足音も立てずに自室「三〇一号室」の前に立った。
指紋認証、そして自ら書き換えた二重の電子ロック。この扉を閉めれば、私の「勝利」は確定する。そう確信してドアを開け、明かりを点けた瞬間、湊の全能感は粉砕された。
「……おかえり、お兄ちゃん。……遅かったね。フェリー、揺れなかった?」
自分のベッドに腰掛け、寛いでいたのは、いるはずのない妹――理央だった。
「……な、ぜだ。君は北海道にいたはずだ。それに、この部屋のセキュリティはどうした!」
湊の戦慄を、理央はふふっと笑い飛ばした。その手の中で、銀色の鍵がチリンと音を立てて遊んでいる。
「お母さんがね、『湊はよく鍵を失くすから、理央ちゃんが予備を持ってなさい』って。北海道を出る時に渡してくれたんだよ?」
湊の膝から力が抜けた。どれだけ高度な暗号を組み、デコイをばら撒こうとも、「母親から合鍵を渡された妹」という、あまりにも原始的な『管理者権限』の前には、すべての論理が無効化される。
さらにその時、理央のスマホが震えた。画面には「母」の文字。
『理央、お兄ちゃんを確保したようね。……でも、あなた。お兄ちゃんを追うために最近学校を一度も登校していないそうじゃない』
理央の顔から血の気が引く。母の制裁は、逃亡者の湊だけでなく、追跡者の理央にも等しく「規律」という名の鉄槌を下した。
『同じ寮に住むことを許可したのは、学業を優先するという約束があったからよ。明日から一分でも遅刻したら、即刻二人とも北海道へ強制送還します。いいわね?』
翌朝、午前七時三十分。
理央は泣きながら制服に着替え、しかし「兄への執着」だけは一歩も引かずに兄の部屋のドアを蹴破った。
「お兄ちゃん! 起きて! 私が学校っていう名の『監禁所』にログアウトしてる間、これを十二時に正確に摂取して!」
ベッドで数式を反芻していた湊の胸元に、ずっしりと重い布包みが叩きつけられた。
「……理央。以前も言ったはずだ。お前の『隠し味』という名の非論理的な脂質は、私の演算効率を低下させるノイズだ」
「うるさーい! 今日のは特別! 『分離不安解消・超高密度スタミナ弁当』だよ!」
理央は湊の眼鏡をクイッと乱暴に押し上げると、制服のスカートを翻して去っていった。廊下ではすでに静香が「お嬢様、登校完了まであと十二分です」と冷淡にカウントダウンを開始している。
理央が去った後の静寂。
今日は一歩引いた位置で立ち止まっていた。
「湊様。私は主人の不登校を監督できなかった責任として、本日は積極的な給仕を『自粛』するよう命じられております。……ですが、理央様の弁当の塩分濃度を中和するための『特殊電解質飲料』を冷蔵庫にセットしました。これは維持管理です」
静香は懃懃無礼に一礼し、退室した。……かに見えた。
部屋に残されたのは、天才研究員と、机の上に鎮座する「三段重ねの執着(弁当)」。
湊は溜息をつき、箸を取った。理央の弁当は、相変わらず「九条家秘伝」の味がした。
「……呆れるな。学校という外部システムに強制接続されてもなお、彼女たちの干渉係数は密度を増している……」
一方その頃。
都内の高級ホテルのスイートでは、湊のばら撒いた偽の足取りを追って私財と体力を使い果たした玲奈が、泥のように眠り続けていた。枕元では、静香からの「理央が弁当による兄の管理を再開した」という報告が虚しく響く。
「……お弁当? あんな子供だましで、湊を繋ぎ止めようなんて……」
玲奈は、掠れた声で呟いた。
自分は最新鋭の技術を駆使してなお湊の影を逃したというのに、理央は「学校をサボって怒られる」というあまりに幼い失敗の末に、弁当一つで湊の日常に食い込んでいる。その屈辱的な格差と、動くことすらできない自分への苛立ち。
「静香。……私、あと一日だけ寝かせて。……あの子の名前、今は一文字も聞きたくないの……」
理央が学校で兄の幻影を追い、玲奈が深い眠りの中で敗北感に浸り、静香が「自粛」という名の不気味な静寂を保つ中。
湊は一人、理央の弁当に胃袋を支配されながら、再び量子力学の深淵へと潜っていった。
だが、理央がいなくなった途端、静香の手によって部屋の衣類は色彩ごとにグラデーション管理され、本棚は湊の思考のクセを先読みした順序に並び替えられ――効率という美名の下に、彼女の私情をはさみ込んだ「囲い込み」へと部屋が変貌し始めていることに、彼はまだ気づいていない。




