管理者権限のオーバーライド
深夜の大学寮。湊は防犯カメラの死角を完璧に把握し、一人の足音も立てずに自室「三〇一号室」の前に立った。
指紋認証、そして自ら書き換えた二重の電子ロック。この扉を閉めれば、私の「勝利」は確定する。そう確信してドアを開け、明かりを点けた瞬間、湊の全能感は粉砕された。
「……おかえり、お兄ちゃん。……遅かったね。フェリー、揺れなかった?」
自分のベッドに腰掛け、寛いでいたのは、いるはずのない妹――理央だった。
「……な、ぜだ。君は北海道にいたはずだ。それに、この部屋のセキュリティはどうした!」
湊の戦慄を、理央はふふっと笑い飛ばした。その手の中で、銀色の鍵がチリンと音を立てて遊んでいる。
「お母さんがね、『湊はよく鍵を失くすから、理央ちゃんが予備を持ってなさい』って。北海道を出る時に渡してくれたんだよ?」
湊の膝から力が抜けた。どれだけ高度な暗号を組み、デコイをばら撒こうとも、「母親から合鍵を渡された妹」という、あまりにも原始的な『管理者権限』の前には、すべての論理が無効化される。
さらにその時、理央のスマホが震えた。画面には「母」の文字。
『理央、お兄ちゃんを確保したようね。……でも、あなた。お兄ちゃんを追うために今週の学校を一度も登校していないそうじゃない』
理央の顔から血の気が引く。母の制裁は、逃亡者の湊だけでなく、追跡者の理央にも等しく「規律」という名の鉄槌を下した。
『同じ寮に住むことを許可したのは、学業を優先するという約束があったからよ。明日から一分でも遅刻したら、即刻北海道へ強制送還します。いいわね?』
翌朝、午前七時三十分。
理央は泣きながら制服に着替え、しかし「兄への執着」だけは一歩も引かずに兄の部屋のドアを蹴破った。
「お兄ちゃん! 起きて! 私が学校っていう名の『監禁所』にログアウトしてる間、これを十二時に正確に摂取して!」
ベッドで数式を反芻していた湊の胸元に、ずっしりと重い布包みが叩きつけられた。
「……理央。以前も言ったはずだ。お前の『隠し味』という名の非論理的な脂質は、私の演算効率を低下させるノイズだ」
「うるさーい! 今日のは特別! 『分離不安解消・超高密度スタミナ弁当』だよ!」
理央は湊の眼鏡をクイッと乱暴に押し上げると、制服のスカートを翻して去っていった。廊下ではすでに静香が「お嬢様、登校完了まであと十二分です」と冷淡にカウントダウンを開始している。
理央が去った後の静寂。
本来なら「高濃度糖分ケーキ」を投下するはずの静香だが、今日は一歩引いた位置で立ち止まっていた。
「湊様。私は主人の不登校を監督できなかった責任として、本日は積極的な給仕を『自粛』するよう命じられております。……ですが、理央様の弁当の塩分濃度を中和するための『特殊電解質飲料』を冷蔵庫にセットしました。これは維持管理です」
静香は懃懃無礼に一礼し、退室した。
部屋に残されたのは、左右逆に靴下を履いた天才研究員と、机の上に鎮座する「三段重ねの執着(弁当)」。
湊は溜息をつき、箸を取った。理央の弁当は、相変わらず「九条家秘伝」の味がした。
「……呆れるな。学校という外部システムに強制接続されてもなお、彼女たちの干渉係数は密度を増している……」
一方その頃、デコイに踊らされ続けた玲奈は、ホテルのスイートで深い眠りに落ちていた。
「……お弁当? あんな子供だましで……。静香、……私、あと一日だけ寝かせて……」
理央が学校で兄の幻影を追い、玲奈が夢の中で湊を呪い、静香が秒単位の監視を続ける中。
湊は一人、理央の弁当という「アナログな権限」に胃袋を支配されながら、再び量子力学の深淵へと潜っていった。




