聖遺物(パーカー)と密航の力学
湊がパッキングのためにリビングを去り、静寂が訪れてわずか数分。理央は机に突っ伏したまま、シャーペンを握る手をごく小刻みに震わせていた。
「……だめ。お兄ちゃんが壁一枚向こうに行っただけで、私の脳細胞が次々とログアウトしていく……。空気が薄いよぉ、知的な成分が足りなくて、私のニューロンが餓死しそう……」
勉強など手につくはずもなかった。理央にとって、湊のいない空間で物理を解くのは、燃料のないロケットで木星を目指すような「非論理的な苦行」でしかない。彼女の脳内メモリは、既に「お兄ちゃん不足」によるエラーメッセージで埋め尽くされていた。
絶望の淵に沈む理央の視界に、一筋の光が差し込んだ。湊が先ほど、静香にレッドカードを突きつけた際に椅子へと脱ぎ捨てていったパーカーだ。それは、湊の体温をまだ微かに保持している、鮮度の高い「聖遺物」だった。
理央はそれをひったくるように抱きしめ、深く顔を埋めた。
「……はふぅ。お兄ちゃんの匂い……。ウッディな柔軟剤の清潔感と、お兄ちゃん自身の体温が混ざった究極のフレグランス……。これだよ、これが私の脳を再起動させる唯一のエネルギー源……!」
深く、肺の奥までその香りを吸い込む。すると、活動を停止していた理央の思考回路が、異常な方向へと急速に加速し始めた。
「……わかる。お兄ちゃんの位置が、数式みたいに見えるよぉ……」
パーカーに残る香りの分子の揺らぎが、理央の野生の勘を刺激する。隣の部屋から聞こえる衣類の擦れる音、スーツケースのジッパーが開く音。それらが香りの記憶とリンクし、湊のパッキング進捗がリアルタイムで脳内に投影されていく。
理央はチラリと静香を盗み見た。管理メイドは管理メイドで、手元の端末を漆黒の瞳で凝視し、湊のGPS同期や「南国強襲計画」のデータ処理に没頭している。こちらへの監視は、明らかに疎かになっていた。
「今だ。お兄ちゃんが家を出て、この香りが春風に流されて蒸発しちゃう前に……私が、香りの源流(お兄ちゃん)になればいいんだ!」
理央は抱きしめていたパーカーを、マントのように頭から被った。自分自身をパーカーの香りでコーティングし、気配を物理的に遮断する作戦だ。
湊と直道がパッキングに集中し、議論している隙を突く。理央は床に這いつくばり、物音を立てない「静止摩擦係数無視」の隠密行動で、リビングからの脱出を敢行した。目指すは、湊の部屋のクローゼット、あるいは荷物を詰め込んでいる最中の巨大なスーツケースの死角。
(待っててお兄ちゃん。このパーカーの匂いに溶けて、私はお前の『一番重い荷物(愛)』として、南国まで密航しちゃうんだから……!)
物理のテストでは決して見せない神速の判断力と行動力。理央は、兄のパッキングエリアという名の「聖域」へと、音もなく忍び寄っていった。
(続く)




