特異点と、深夜のバグ
深夜二時。
301号室の空気は、サーバーの排熱と、俺自身の脳が発する熱量で飽和していた。
「……くっ、数式が噛み合わない。……何なんだ?」
ディスプレイに並ぶ文字列が、不意に意味を失った。
霧の向こうへ消えてしまったかのように見えない。
「一時的なリソースの枯渇か。あるいは……」
俺は眼鏡を外し、熱を持った目蓋を押さえた。
完璧に管理された室温。
最適化された栄養。
静香と理央という二人の天才に支えられ、俺の「執筆効率」は理論上の最高値を叩き出していたはずだった。
「湊様。脳波の波形に『混濁』を確認。……糖分とカフェインによる強制覚醒は、現在の湊様の神経系に不可逆なダメージを与えるリスクがあります」
暗闇から、静香の声が響く。
彼女は「ステルスモード」のまま、俺の背後でずっと私のバイタルを監視し続けていたのだ。
「お兄ちゃん、手が止まってるよ。……これ、お兄ちゃんの論理が壊れたんじゃなくて、単なる『オーバーヒート』だよ。冷却が必要」
理央がソファから起き上がり、音もなく俺の隣に歩み寄ってきた。
彼女は俺のデスクの端に腰掛け、覗き込むように顔を近づける。
「……冷却だと? 私はすでに、静香の管理によって最適な休息スケジュールをこなしている。これ以上の効率化は……」
「違うよ、お兄ちゃん。お兄ちゃんが足りないのは『余白』。……計算できないノイズだよ」
理央が、俺の冷たくなった指先に、自分の温かい手を重ねた。
その熱は、静香が用意するハーブティーのような「計算された温度」ではなく、脈動を伴った、生々しい人間の体温だった。
「湊様。理央様の提案には一理あります。現在の湊様の思考回路は、自己完結したループに陥っています。外部からの予測不能な刺激――すなわち『バグ』の導入を推奨します」
静香が、暗闇の中から姿を現した。
彼女の手には、いつもの栄養剤ではなく、一枚の「古い映画のディスク」が握られていた。
「……何なんだ? 執筆リソースが不足しているこの状況で、娯楽に時間を割けと言うのか? それは論理的に……」
「論理なんて、今はゴミ箱に捨てちゃえ。……ねえ、お兄ちゃん。夜の散歩に行こう? きっと部屋の外に落ちてるよ」
理央が、俺の手を強引に引いた。
静香は無言で、俺の厚手のコートをクローゼットから取り出し、広げている。
「…………」
俺は、二人の天才を見つめた。
精密な管理を行う者と、カオスを撒き散らす者。
その二人が同時に、俺の「論理」を否定しようとしている。
「……勝手にしろ。ただし、移動時間は最大15分。それ以上のロスは……」
「了解です、湊様。……夜の闇における、湊様の脳の『再起動』をサポートします」
「やったぁ! じゃあ、一番星が見える場所まで、競争ね!」
俺は、二人の天才に導かれるように、熱の籠もった301号室を後にした。
だが、凍てつく夜の空気の中で、俺の脳は、新しい変数の存在を予感し始めていた。




