学術的聖域の侵食と、予期せぬ訪問者
……湊。お前、最近の出席率と提出物のクオリティが、論理的な予測値から逸脱しているぞ」
大学の講義室。
ゼミの休憩時間、親友であり悪友でもある直道が、俺の隣にドカリと座り込んだ。
俺は眼鏡をクイと押し上げ、ディスプレイから目を離さずに応える。
「逸脱ではなく、最適化の結果だ。無駄な移動時間を削り、執筆と研究に全リソースを投下している。20万字という目標に対する、当然の帰結だ」
「いや、そうじゃなくてさ。お前、前より『健康そう』なんだよ。あの偏屈で不健康な湊が、肌艶もいいし、コーヒーの摂取量まで減ってる。……何か隠してるだろ?」
直道の鋭い、しかし下世話な視線が俺を刺す。
俺は内心で、自宅(301号室)で待機している二人の天才のことを思い浮かべた。
徹底したバイタル管理を行うメイド。
精神的バフを自称する妹。
その存在を論理的に説明するのは、シュレディンガーの猫を証明するより困難だ。
「……気のせいだ。生活環境を少しアップデートしただけだ」
「へぇー。そのアップデート、俺にも見せてくれよ。今日、お前の寮に寄っていいか? 借りてた資料も返したいしな」
「断る。私の部屋は現在、高度な情報処理とセキュリティの観点から、外部の立ち入りを一切禁じている」
「硬いこと言うなよ。お前のことだから、また部屋中を数式のメモだらけにしてるんだろ? 懐かしいな、一年の頃のあの汚部屋」
直道はニヤニヤしながら俺の肩を叩く。
まずい。この男は、一度言い出したら聞かないタチだ。
そして、現在の301号室は、別の意味で「汚部屋(概念的な混沌)」と化している。
俺は即座に、二人にメッセージを送ろうとした。
『緊急事態。外部変数が一名、部屋に接近する。直ちに隠蔽プロトコルを発動しろ』
だが、俺がスマートフォンを取り出すより早く、背後から聞き覚えのある、そして絶望的に場違いな声が響いた。
「湊様。本日の講義終了時刻を3分12秒超過しています。脳の疲労度から推測し、速やかな帰宅と栄養補給を推奨します」
講義室の入り口。
そこには、大学の地味な風景の中で、一際異彩を放つ「完璧な装い」の静香が立っていた。
彼女の背後からは、理央がひょっこりと顔を出している。
「お兄ちゃん! 遅いから迎えに来ちゃった。……あ、そっちの人は? お兄ちゃんの数少ないお友達?」
理央が、興味津々といった様子で直道を凝視する。
直道は、口を半開きにしたまま固まっていた。
俺の脳内では、現在進行形で「社会的信用の失墜確率」と「説明の不可能性」が指数関数的に増大していく。
「……理央。静香。なぜここに来た」
「湊様のバイタルが、一時的なストレス反応を示したためです。直接の管理が必要と判断しました」
「だってお兄ちゃん、直道さんと話してると、脳の波形が『面倒くさい』って色になってたんだもん。私がハッキングして、お兄ちゃんのスマホのGPSから場所を特定したの!」
理央がいかにも「名案だったでしょ?」と言わんばかりの顔で胸を張る。
直道は、ゆっくりと俺に顔を向けた。
「……おい、湊。アップデートって、これか? 『高度なセキュリティ』って、この可愛い妹さんと、美人すぎるメイドさんのことか?」
「……ぐ、ぐぬぬぬぬ」
俺は、直道ではなく、自分自身の不徳に対してその声を漏らした。
「聖域」は、今、外部という名の強大な変数の介入によって、音を立てて崩壊しようとしていた。
俺は眼鏡を外し、深く、長く目頭を押さえた。
もはや、隠蔽は不可能だ。
この非論理的な日常を、俺は学問の府においてどう正当化すべきか。
新たな数式が必要だった。




