閉鎖空間の飽和点と、逃避の数式
「……いい加減にしろ。私のパーソナルスペースは、すでに限界容量を超えている」
深夜。俺は自室のデスクで、手元に迫る「二つの影」に筆を止めた。
部屋を二分していたはずの赤と青のテープは、今やその機能を失いつつある。
静香は「湊様の睡眠導入を補助する」という名目で、俺の椅子のすぐ右側で加湿器の蒸気をミリ単位で調整している。
理央は「お兄ちゃんが寂しくないように」と、左側で教科書を広げ、事あるごとに肘を俺の腕にぶつけてくる。
「湊様。室温が0.2度低下しました。私の体熱を用いて、湊様の右半身を保温することを提案します」
「ちょっと静香さん、それじゃお兄ちゃんの右側が重くなっちゃうでしょ! 左右のバランスを摂るために、私が左側から抱き着……じゃなくて、密着サポートするから!」
二人の天才が、俺という「中心点」を奪い合おうとして、物理的な距離をゼロに近づけてくる。
狭い寮の部屋。三人の人間が放つ熱量と二酸化炭素で、空気は粘り気を帯びているようにさえ感じた。
「……静香。お前の加湿器の音で、私の思考回路の周波数が乱れている。理央。お前がさっきから私の肩に置いているその顎をどかせ。重力加速度を計算に入れずとも、私の肩凝りが悪化するのは明白だ」
俺は眼鏡をクイと押し上げ、二人を突き放すように椅子を引いた。
だが、椅子が下がる隙間さえ、すでに彼女たちが持ち込んだ「世話焼き用備品」で埋まっている。
「……呆れるな。この部屋は、私の思考を深化させるための研究拠点のはずだ。なぜ、二十四時間体制で『監視』されなければならない」
「監視じゃなくて、見守りだよ、お兄ちゃん! ほら、お兄ちゃんって放っておくと自分の限界超えて計算し続けちゃうでしょ? だから私が、こうして物理的にブレーキを……」
理央が、いかにも「私は正しいことをしている」と言わんばかりの顔で胸を張った。
実際、彼女の瞳には一切の悪気はなく、ただ純粋な、そして重すぎる献身だけが宿っている。
「……理央。お前の言う『ブレーキ』は、今の私にとっては『足枷』と同義だ」
俺は再び眼鏡を外し、目頭を強く押さえた。
視界が白くぼやける。その瞬間、部屋の空気が一変したのを肌で感じた。
二人が、俺の「沈黙」の意味を計りかねて、一瞬だけ動きを止めたのだ。
「……二人とも、外へ出ろ。今すぐだ」
「湊様、それは排斥プロトコルの発動ですか?」
「お兄ちゃん……怒ってる?」
「怒っているのではない。……計算が、終わらないんだ」
俺は、デスクの上に広げられた膨大な数式と、二人の存在によって生じる「非論理的な変数」を交互に見つめた。
愛、執着、献身。それらは、俺がこれまで扱ってきたどのアルゴリズムよりも複雑で、解の見えないノイズだった。
「このままでは、私は私自身をメンテナンスできなくなる。……頭を冷やしてくる。お前たちは、その間にこの部屋の『密度』を30%削減しておけ」
俺は上着を掴み、二人の制止を振り切って部屋を飛び出した。
背後で理央が「あ、待ってよ、お兄ちゃん! 外は寒いから……!」と声を上げるのが聞こえたが、俺は振り返らなかった。
夜の廊下。冷たい空気が、熱を持った脳を物理的に冷却していく。
この二人の「天才」という名のバグを完全に修正することなど、おそらく不可能だということを。
俺は夜の大学構内へと続く道を歩きながら、自分の中に残った、あの狭い部屋の「不快ではない熱」の正体について、再び無益な計算を始めた。




