06.悪夢の終わり
屋敷の地下へ続く螺旋階段を降りきった佳奈恵は、正面に続く通路を進み始めた。
何やら濃い霧が出ており、先はよく見えないが、灯りは奥へと続いている。
足元はぬかるんでいるものの、足が沈むということはない。
転ばないようにしっかりと踏みしめながら、佳奈恵は歩いていた。
進めば進むほど、空気は湿り気を帯びていく。
それに、水の流れる音も聞こえ始めた。
(下水道でもあるのかな?)
通路のつきあたりを曲がって先を見ると、浅い水の流れる水路があった。
その水路にそって、まだ灯りは続いている。
ここにいる『誰か』は、水の流れ出る源の方へ進んでいったようだ。
佳奈恵は水路に足を踏み入れたが、不思議なことに足は濡れていない。
ちゃんと飛沫や冷たい感覚はあるのだが、見せかけだけの水のようだ。
歩きながら、佳奈恵は自分の追っている『誰か』のことをずっと考えていた。
なぜ自分から逃げ続けているのだろう。
会いたくない理由でもあるのだろうか。
いじめられていた現実から逃げ続けて、心の中の自分に全てをおしつけた。
今となっては、それは紛れもない事実だ。
会って謝りたい。
佳奈恵はそれだけを考えて、『誰か』を追っていた。
水路を真っ直ぐ進んでいると、直感だろうか、誰かが近くにいることを感じた。
冷たい水の他に、体温のような熱がある。
水路には、脇道があった。
そこへ入って進んでいくと、小さな女の子が背中を向けて丸まっていた。
両手で必死に耳を抑え、音を聞かないようにしているようだ。
「見つけた!」
佳奈恵の声に、少女は体を震わせる。
「あなたは誰なの?」
少女は、怯えるような様子で、佳奈恵の方を見た。
そしてすぐに、また顔を伏せて、耳を塞いだ。
小さな声で何かつぶやいているようで、佳奈恵は耳をすませる。
「消えろ、消えろ、消えろ消えろ消えろ消えろ」
彼女は目も合わせずに、一心不乱にそうつぶやいていた。
佳奈恵は震える彼女の肩に触れようとして、気がついた。
手が、鉄のような金属の塊になっていることに。
慌てて体を見ると、胴から下が、黄金色のヘビのようになっている。
顔を触ると、よく知る自分の顔がどこにもない。
佳奈恵の体は、ヘビになっていた。
そう自覚した途端、耐え難い食欲が、佳奈恵を襲った。
目の前にいる少女を食べたい。
骨の砕ける音を聞きながら、ゆっくりと咀嚼したい。
丸飲みなんてもったいないことはできない。
久しぶりの食事なのだから。
「ダメ、そんなことしたら、ダメ!」
本能の波に抗いながら、佳奈恵は暴れる自分の体を必死に抑え込んだ。
「逃げて、佳奈恵!」
目の前にいる少女が、幼い日の自分だと分かった佳奈恵は、そう叫んだ。
自分がもう自分ではないことを、認めたのだ。
少女は、小さくうなずいて、転びそうになりながらも、灯りのついている道を走っていく。
その後ろ姿を見ながら、彼女がなぜ逃げていたか理解すると同時に、佳奈恵はその解決法も思いついていた。
「わ、悪いけど、もう、逃がさないから」
佳奈恵がそう呟いて、自分の中にある悪意を睨むと、水路の中の壁が、一斉に針の壁と床に変わった。
水は絶えず針の間を流れており、佳奈恵はそれをたどって、さらに上流へと進む。
すでに、上下も左右もなくなった針の筒の中で、佳奈恵はひたすら這って行った。
これは、罰だ。
抱えた問題を受け入れたふりをして、逃げ続けていた、自分への罰。
残った佳奈恵は、この問題と向き合ってくれるだろうか。
何者でもなくなった自分が、そんなことを願うのは、おこがましいだろうか。
どれくらい進んだのか、針の空間を抜けて、巨大な貯水槽のある場所に出た。
水はそこから流れ出ていたらしい。
佳奈恵はその貯水槽の淵で、しばらく水面を眺めたあと、頭からゆっくりと、水底を目指して潜っていった。
ヘビの体といっても、呼吸のできない水中は、やっぱり苦しい。
でも、あの子はもっと苦しい思いをしてきたはずだ。
ひとりぼっちの屋敷で、為す術もないまま、思いの丈をノートにぶつけていた。
(あの子を怖がらせる存在が私なら、ここでこの怪物と共に、死んでやる)
そうすれば、少なくとも、ひとつの障害を取り除けるはずだ。
貯水槽の底にたどりつき、佳奈恵は体を丸めた。
死ぬ決意をすると、ヘビの本能の部分が暴れて、水面へ上がろうとする。
それを抑えるようにして、全身に力を入れて、ぎゅっと身を硬くした。
(これくらい、我慢できる。学校でのことに比べたら、これくらい、なんてことない)
意識が段々薄くなっていく。
うまく道連れにできたみたいだ、と安心しかけたその時だった。
「これは驚いた。悪霊の意識を抑え込むなんて」
水中だというのに、目の前に、松葉づえをついた男が立っていて、その声ははっきりと佳奈恵の耳に届いた。
「最近の子供は、随分と我慢強いんだな」
彼がひとたび指を鳴らすと、周囲の水も貯水槽も消え、ただただ真っ白な空間がどこまでも広がった。
佳奈恵が朦朧とする意識のなか固まっていると、彼はそっと体に触れた。
「なるほど、これは珍しい。ケモノツキだな。祓ってしまうには惜しい……」
小さな声で呟く彼が『祓う』と言ったことだけ、佳奈恵は認識できた。
だから、残った力を振り絞って、言った。
「殺して……」
喋ると、金物同士のぶつかるキンキンとした音が混じった。
自分自身が怪物になってしまっていることはわかっている。
この怪物をどうにかしてくれるなら、死んでもかまわない。
しかし彼は、佳奈恵と視線の高さを合わせると、微笑んで言った。
「経過観察、だね。悪いけどさ、おれに人は殺せないんだよ」
彼は人さし指と中指を揃えて佳奈恵に向けた。
すると、佳奈恵の周囲に、半透明で灰色の箱が出現して、大きなヘビの体をまるっと囲んでしまった。
「これは、悪霊だけを封じ込める結界だ。君の意識だけなら、ここから抜け出せる。こういうことも、まったく前例がないわけじゃない。君が原因を解決してしまえば、いずれはそいつも意識を保てなくなる。そうなれば、こいつはきっと君の力になる」
箱の中で、佳奈恵は彼を見つめていた。
どことなく胡散臭く、信じていいものかどうかわからない。
だが、もうひとりの自分は、これで守れるだろう。
「それじゃあ、しばらくおやすみ。目が覚めたら、悪霊の影響はなくなっているよ」
彼が指で空を切るように動かすと、佳奈恵は張り詰めた糸が切れるように、すとん、と意識を失った。