07.日が落ちて
目が覚めると、病院のベッドだった。
隣には母がいて、目を覚ました佳奈恵に抱きついた。
「何が……あったの……?」
なんだか、喉がちくちくと痛む。
まるで、風邪を引いた時のような感覚だ。
「佳奈恵、診察中に貧血で倒れたんだって。やっぱり、疲れがたまってたみたい」
「貧血……」
あれは、夢だったのだろうか。
そういえば、病院についてからの記憶が曖昧で、ほとんど何も覚えていない。
しばらくして、木村先生が病室に来た。
母もついていたが、少しふたりきりで話したいことがある、と半ば無理矢理席を外してもらった。
「佳奈恵ちゃん、無事でよかった」
「木村先生、私、たしか……」
おぼろげながらに覚えていることを口にすると、木村先生は小さく頷いた。
「驚かないで聞いて欲しい。君は、悪霊に憑かれている。名前をカナヘビといって、金属の性質を持つ、黄金色のヘビだ」
普通なら信じられない話だが、佳奈恵は何も言わず、木村先生の話の続きを待った。
あの不可思議な夢の正体が、どうしても知りたかったからだ。
「カナヘビは、君の体を乗っ取ろうとした。でも、君の精神力は、やつに負けなかった。心の奥深くまで入り込まれていたけど、やつよりも、君が自分を逃がす方が上手かったんだ。これは、すごいことだよ。普通ならまずできない芸当だ」
木村先生は少し興奮気味にそう言った。
話を聞きながら、佳奈恵は頭の中で整理していた。
聞きなれない言葉は多いが、夢の内容と照らし合わせると、想像は容易い。
カナヘビに体を乗っ取られかけていたことも、あの強い捕食本能を思えば理解できる。
佳奈恵は無意識に、自分を少しだけ切り離して逃がして、残った理性でカナヘビを抑え込もうとし、それは見事に成功した。
そう考えると納得できた。
「でも、なんで、私がその、悪霊に……?」
「ああ、悪霊は、心の弱った人に憑きやすい。君が大きな問題を抱えているせいだろう」
これで、はっきりとわかった。
全ての元凶も、それを解決しなければならない理由も。
黙って考え込み始めた佳奈恵に、木村先生は続けた。
「そうだ、君も会ったと思うんだけど、藤ヶ崎さんからカナヘビは君の中にまだ眠っているって聞いたよ。あの人が問題ないと言っているんだから、たぶん大丈夫だと思うんだけど、もし、大きな感情の昂りがあったら影響するかもしれないから、気をつけてほしいんだ」
藤ヶ崎というのは、あの松葉杖の男だろうか。
大丈夫だとは言っても、まだ自分の中にあの悪霊が残ったままだと思うと、少し気持ちが悪い。
「その、藤ヶ崎さんは、どこにいらっしゃるのですか?」
「うーん、会いたいのかい?」
木村先生は困ったように言った。
「はい、どうしても話を聞きたくて」
「僕が代わりに答えるのじゃ、ダメかい」
「会えないんですか?」
「今は少し、ね。彼も忙しいから」
忙しい、という言い訳が方便なことくらい、佳奈恵も知っている。
会えない理由も言えないのだろうか。
佳奈恵は少しむっとした。
「はっきり理由を教えてください。私、お礼も言いたいんです」
「怒らないでくれ。僕も教えてあげたいんだけど、その権限がないんだ」
「先生よりも立場が上の人なんですか?」
「ん、まあ、そういうこと、だね」
木村先生は歯切れ悪く言った。
佳奈恵はどうしても教えてくれるつもりがないと悟り、諦めて話題を変える。
「わかりました。じゃあ、代わりに、アレを教えてください」
「え?」
思いもよらなかったことを言われたように、木村先生は呆けた顔をした。
「はっきりとは覚えていませんけど、白い紙で火を出したりしていましたよね? あれ、魔法ですか?」
「見えていたのか……」
「少しだけ」
木村先生は、落ち着きなく部屋の中をくるくると歩きまわった。
どうしようか、本当に悩んでいるようだ。
「今の時代、必要のない技術なんだよ」
「必要がないことはないんじゃないですか? こうして使う機会があったでしょう?」
「こんなの、十年に一度とか、それくらいのものだよ。それに、習得も難しい。厳しい修行を、何年も続けて、やっとあの程度だ」
木村先生は、つらつらと、佳奈恵に教えない理由を並べた。
どういう気持ちで言っているのか、わからない佳奈恵ではない。
今の時代に必要ないというのは、単に使う機会がないということだけでなく、危険だという意味も含まれているだろう。
きっと、一般人が覚えるべき技術ではないのだ。
木村先生は、けっして頭ごなしには拒否せず、佳奈恵にわかるよう、優しい言葉で断ろうとしているのだ。
佳奈恵は部屋の外にいるかもしれない母には聞こえないように、小さな声で言った。
「あの、私、学校でいじめられているんです。中学に入ってから、ずっと。自分のことなのに、変だと思うかもしれませんが、今まで見てみぬふりをしてきました。でも、私の中で、もうひとりの私が、その辛さを、ひとりで受け止めていたんです。傍観者だった私からも、その姿を隠すようにして」
言いながら、少しだけ、体が火照る。
涙が出ないように、落ち着けるように、何度も何度も深呼吸をして、佳奈恵は続けた。
「私、このいじめをなくしたい。でもそのために、支えがほしいんです。私には、これがあるっていう、支えが」
佳奈恵の訴えを、木村先生は、難しい顔をして聞いていた。
人が簡単に変わるのは難しい。
今まで受けていた暴力に立ち向かうには、心の武器がいる。
佳奈恵はそう感じていた。
「先生、お願いします。絶対、人に向けたりはしません。だから、教えてください」
「……すぐには、返事できない。それこそ、藤ヶ崎さんに相談しないとダメだ。十日ほど、待ってもらえるかな。でも、良い答えは期待しないでね。あの人も、一般人を巻き込むことに良い顔をするはずないから」
「ありがとうございます!」
佳奈恵は、深く頭を下げて礼を言った。
「それと、どうせ知られてしまったのだから、習うとか習わないとかの前に、ちゃんと説明しておこうか。魔法だと思われたままでも、僕が困るし」
木村先生は、ベッドの脇にパイプ椅子を持ってきて座り、ポケットに入っていたメモ用紙に、星の形を書いて、佳奈恵に見せた。
「陰陽術って知ってるかな? 陰陽師でもいいけど」
「陰陽師って、あの、安倍晴明の?」
頭の中に、白い服を着て烏帽子を被った男性がぼんやりと思い浮かぶ。
「そうそう、よく知ってるね。陰陽師には、星を読んで未来を占う役目の他に、都ではびこる悪霊を退治する仕事もあったんだ。ああ、悪霊って言ってるけど、邪気だとか、鬼だとか、呼び方はたくさんある。妖怪も、そうだね。名前は違っても、やつらの性質は共通していて、弱っている心に憑りついて、宿主を意思のないヒトガタにしてしまう。そして、生かさず殺さずの状態にして、ずっと霊気を吸い続けるんだ。やつらはあまり面には出てこないから、知らない人には、病気と区別がつかない」
「どうやって調べるんですか?」
「佳奈恵ちゃん、この病院の外にある結界が見えたんだよね? 本来閉じているはずの、霊視と呼ばれる第三の目が、悪霊のせいで開いてしまっているんだ。それを利用して、普通の人の目には見えない仕掛けを作り、反応を見て、憑りつかれているかどうか、調べる」
「なんだか、アナログですね」
それを聞いて、木村先生は笑った。
「まあね。よっぽど力のある人なら、感覚でわかるって言うけど、そんなの本当に一部の人だけさ。悪霊は、危険を感じると宿主を捨てて逃走しようとする。そこをこの、陰陽術で、退治するってわけだ」
木村先生が、星の書かれたメモ用紙を空中に放ると、ボッと火が出て、一瞬で燃えた。
「今回は、悪霊に霊気が足りなくて、完全には独立できなかったみたいだった。佳奈恵ちゃんが中で抑え込んでいたからかもしれないけど、半身が体内にとどまっていたおかげで、僕程度でも足止めできた」
「それって、誰でも使えるものなんですか?」
「うーん、難しい質問だね。というのも、この辺りにはもう陰陽術を使える人間がいないんだ。僕は藤ヶ崎さんから習ったから使えるだけで、僕の父親も、陰陽術は使えない。だから、修行したけど使えなかった人を見たことないんだ」
そうすると、木村先生がずっとひとりで悪霊を退治し続けていたということではないのか、と佳奈恵は聞きかけたが、その前に、彼は口を開いた。
「陰陽術は、廃れた技術なんだよ。現代ってね、昔よりも心に病を抱えた人間がいっぱいいるんだ。悪霊を退治しても、悪霊に憑りつかれた原因を解決する方法がない。同じ人が、二度も三度も憑りつかれて、挙句はそれを苦にして、自ら命を断つ人もいる」
おそらくは、きりがないのだろう。
それに、陰陽師といえど、生活がある。
お金を得られる仕事をしなければ、自分が悪霊の餌食になることさえあるはずだ。
「君が足を踏み入れようとしているのは、そういう世界だ。リスクとリターンとが、まったく釣り合わない。だから、藤ヶ崎さんも、陰陽師を増やすことをやめて、数十年に一度、たったひとりで大掃除をしているんだ」
「大掃除って、この辺りの悪霊を狩るってことですか?」
「そうだ。外を見てみるといい」
佳奈恵がそう言われて、窓の外を見た。雲ひとつない晴天だが、よく見ると、うっすら、灰色の壁が見える。
「あれ、この病院を囲んでたのと同じ箱ですよね?」
大きさこそ違うが、似た雰囲気を感じる。
「そう、結界だ。この市から悪霊が出入りできないようにしてるんだ」
「さっき、先生が藤ヶ崎さんは忙しいって言っていた意味がわかりました」
たったひとりで、この巨大な結界の中にいる悪霊を狩って回っているのなら、納得できる。
適当な言い訳ではなく、本当に忙しいのだ。
「陰陽師のこと、分かったかな? もっと詳しく知りたければ図書館なんかでも調べられるから、僕の聞きかじりの話よりも、そっちをおすすめするよ」
「ありがとうございます。よくわかりました」
満足した顔で佳奈恵が言うと、木村先生はパイプ椅子をたたみながら言った。
「じゃあ、佳奈恵ちゃんは、退院だ。悪霊のせいで少しだけ喉が荒れてるけど、三日もすれば元通りになるよ。こっちの話は、また決まり次第連絡するよ」
「よろしくお願いします」
「いじめのこと、辛くなったらいつでも来てね。お母さんに見つからないように解決したいみたいだけど、どうしても無理だったら、僕を頼って」
木村先生は、そう言って外で待つ母を呼びに行った。
それからすぐ、佳奈恵はいくつかの薬を処方してもらって、家に帰ることになった。
もう、日が暮れかけている。
車のフロントガラスに、赤い光が射し込んでいる。
運転席の母と、助手席の佳奈恵は、同じく顔を真っ赤にしながら、他愛ない話をしていた。
笑顔を見せながらも、佳奈恵は心の中で決めていた。
明日からは、変わってみせる。
誰のためでもなく、自分のために。
いじめをなくす方法はわからない。
けれど、立ち向かわなければ、悲しむ人がいる。
佳奈恵はただ静かに、拳を強く握った。
その日の夜、床に入った佳奈恵はもう一度あの屋敷の夢を見た。
以前と違うのは、全ての部屋に灯りがともっており、屋敷の外は色の無い灰色の草原が広がっているところだろう。
地下室への入り口はなくなっており、どの部屋へ行っても、あの幼い自分を探すことはできなかった。
佳奈恵は屋敷の中をうろつくうちに、だんだん、ここを知っているような気がしてきた。
そもそも、想像にしては細部まで作り込まれ過ぎている。
夢の中なのだから、自分の知らないものは存在しないはずである。
(昔、住んでいたことがある……?)
佳奈恵がそういきついたものの確信が持てなかったのは、幼いころの思い出がないからだ。
佳奈恵には小学校にあがるまでの間の記憶が、父が生きていたころの記憶が、まったくなかった。
母から聞いた話によると、昔火事にあって、母と佳奈恵は無事に逃げだしたが、父は助からず息を引き取ったと言う。
そのショックで、記憶にフタがされているのだろう、と医師に言われていた。
記憶が失われたわけでなく、フタがされていて思い出せないだけであることは、この屋敷の夢が示している。
写真の中でしか知らない父の姿も、いずれは思い出せるのだろうか。
(しばらく、ここに来るのはよそう)
まずは、現実の問題を解決してからだ。
追い詰められている時に、夢に逃げ場を作ることは危ないことだと佳奈恵は感じていた。
この屋敷のことも調べたいが、火事でなくなったのなら、もうこの世には存在しないものであり、時間をかけたところで逃げも隠れもしないだろう。
それに、母に父の話を聞くことも、大変な勇気がいる。
なんとなく触れていなかった、柔らかい部分に触れなければならない。
母と自分が、互いに傷つく結果には、したくない。
(だから、これは、また今度……)
佳奈恵は、夢の屋敷を見ている目を閉じて、そのまま、水底に落ちていくように、ゆっくりと深く暗い眠りについた。




