幕間~執務室のかいそう~
なんとかヘスターを侍女に預けて執務室にたどり着くと、マーカスはぐったりと椅子に倒れ込んだ。
「間に合ってよかったな」
「ああ」
念のため別方面を探しに行っていたロンも、今しがた戻ったばかりのようで、ソファに沈み込んでいる。
今日は新たな被害者の発覚にその上ヘスター捜索と、予定外のことが重なって、仕事が溜まっているのだが、手をつける気になれなかった。
マーカスはだらしなく椅子を後ろに傾けながら、書類の山から目を背けて窓の外を向いた。
夕日が、暑くらしいほど赤く中庭を染めている。赤い、赤い、誰かの顔のように赤い色。
それを見るとはなしにみていると、ぶわっと顔に謎の熱が蘇ってきたので、マーカスは慌てて頭を振った。それでも逃げてくれない熱を下げるため、真面目なことを考えようとする。
すると、城を尋ねてきたナン女史が、薄い唇をきっと引いてから語ったことが思い出された。
途端に、頭が冷えた。
「何のため息だ」
ロンにいぶかしげに尋ねられ、マーカスは知らずため息をついていたことに気付いた。
それから、しばらく黙りこんで視線を彷徨わせた。迷うことの少ない彼にしては、珍しいことに。
「お前になら、話していいだろうな。・・・いや、話すべきだな」
自問自答の話し方もまた、珍しかった。
何を悩んでいるのか、というようにロンは微かに眉を動かした。
しかし、再度尋ねはしないで手元のカップに目を落としている。親友が話すタイミングを待っているのだ。
マーカスはその見えにくい気遣いに少し口元を緩め、話し出した。
「前に、ナン女史が城に来ただろう?あのとき、ヘスター・グレンのことを話したんだ」
あれは、ヘスターの完全静養のときのことだった。
ヘスターと話を終えたナン女史はその後マーカスに時間を求めた。そして、転生者の前世の記憶について、語った。
転生者の記憶構造については、先にヘスターに聞いていたから知っていた。
転生者の記憶は前世と現世の二層に別れているのだが、普段彼等が転生知識を引き出しているのは、原本に当たる前世の記憶ではなくて、それを現世の記憶に複写したものだということ。前世の記憶は転生者として覚醒した後、徐々に精度が落ちていくため、転生者は皆、覚醒直後に現世の記憶に覚え直すらしい。
しかし、ヘスターは今、その原本を見直す作業をしているのだと、説明された。原本には、まだ見ていない記憶や、見たけれど見逃した情報があるかもしれないからと。
それを聞いたときマーカスは、ヘスターの体調の心配だけで、その意味を深く考えなかった。ナン女史に教えられるまでは。
マーカスは思いだしながらため息をついた。
ヘスター・グレンは前世の記憶をもっている。
それは、前の人生を覚えているという意味だ。
どういうことか分かりますか、と聞かれたとき、マーカスはとっさに答えられなかった。
『人生とは・・・生まれてから、死ぬまでの、です』
そうナン女史は言って、薄い唇を引き結んだ。
老いた後の老衰による死ならば、死の間際は記憶に残らないことが多い。しかし、幸せな人生の末に訪れた穏やかな死だとは限らないのだ。
『特に、ヘスターの場合はその辺りの不安が大きいのです』
転生者協会では、覚醒直後の転生者に前世確認の進行状況をヒアリングするのだという。
そしてその記録によれば、ヘスター・グレンは覚醒当時、20才辺りまでの前世しか確認していなかったらしい。そこで止めた、ということは、それ以降を思い出すことを脳が拒んだということだ。その先にあるのが、死なのか、それと同等の苦しみなのか、それは分からないが。
『転生者協会は、転生者の無理な覚醒を勧めません。死の恐怖や耐え難い苦しみを思い出すことが、現世の幸せに繋がらない場合が多いためです』
ヘスターは今、止めても聞きそうになかったので言いませんでしたけど、と言葉を途切れさせたナン女史は苦い笑みを浮かべたのだったか。それに対して、マーカスも同意の意味を込めてうなずきを返した。
そうだ、ヘスター・グレンは頑固だ。マーカスがどれだけ誘っても勧誘に乗ろうとはしなかったし、何より何年もの間家に引きこもっていたのだって、思い詰めた彼女の頑固さに思える。今は強制的に休ませているが、そんなヘスターをずっと止めておくのは無理だろう、とマーカスも思った。何しろ、彼女が本気で前世に潜ろうと思えば、たとえ誰かが見張っていようとも眠ったふりをしてしまえば止められないのだから。
実際、無理やり休ませた2日が過ぎて、彼女は最近もまた原本に潜っているようだ。唐突にあの小さな口から出てくる言葉は思いつきだけではないだろう。
そのたび、マーカスはナン女史の言葉を思い出す。
『ヘスターは今、他人のために、本能が拒否したものを覗いています。それが彼女の現世にどう影響するのか…気がかりなのです。どうか、彼女の様子をよく見ていてください』
こう言った彼女に、マーカスはわかったと頷いた。
ヘスター・グレンは分かりにくいタイプではない。要求は口に出さないことが多いが、見ていれば大体分かる。悲しければ泣くし、怒れば睨む。怖ければ、震えるようだ。だから、何かあれば分かるとは思う。
何かあったことは。中身は、分からない。目を見つめれば分かるのだろうか、とマーカスはふと思いつき、先程のことを思い出して再度赤面しかけて頭を振った。
「…今日、ヘスター・グレンはギャビ老人と会い、過去のわだかまりを解消した。恐らくこれから、今まで以上に必死になると思う」
「つまりお前が心配しているのは、張り切ったヘスターが前世の記憶に入り込んで、思い出すべきではないものを思い出してしまうことか」
「そうだ」
今ヘスターが探っているものは、以前触れなかったもの、思い出すべきではないものなのだろう、とマーカスは思った。だから、潜るたびいろいろ新しい知識を拾える。
でも、それは毒の沈んだ器から上澄みをすくって飲んでいるようなものだ。上澄みがいつまであるのかは分からないし、ふとした拍子に器が波打って毒が混じらないとも限らない。それなのに、マーカスは、毒が入っていると分かっている水を飲むのを、黙って見ている…
肘をついて頭を抱えたマーカスを、ロンは清水のような色の目で、じっと見つめた。
「もし、本気で止めさせたいなら…」
ロンの提案に、マーカスは目を見開いた。
眠らずにいられないくらい酷使するか、もしくは、食べ物に睡眠薬を混入して眠らせるか。
「どちらを選んでも、嫌われそうだな」
ため息をついたマーカスに、ロンは片頬で笑った。
「やっぱりお前は、甘い」
なかなか出せなかった転生者協会の仕事を少しだけ書けました。
読んでくださっている皆様、本当にどうもありがとうございます。




