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転生者とマーカス・エセルさま

さあ、どうする。

ロンは今さらだけど、若様まで会いたくない相手にしておくわけにもいかない。

朝食のカリカリベーコンを食べながら、私はひどいしかめ面をしていたのかもしれない。

マリエさんにも『もしかして昨日、うまくいかなかった?』と気遣われてしまった。慌てて両手を振って否定したけど、マリエさんの私を見る目は変わらなかった。倒れていたりなんだりと心配をかけてきたからだろう。

だから正直に、昨日のやりとりのさわりだけ説明し、若様のことを若様と呼ばずになんと呼ぶべきだろうと相談してみたのだ。すると彼女は、ご主人様を猛プッシュしつつも、最終的にこう言った。

「私達はエセル家の使用人だから、若様ってお呼びするけど、ヘスターって若様にとっては『仲間』なのよね」

そうかと納得したように呟かれ、私もなるほどと思った。

「仲間うちなら、私だったら『なんて呼んだらいい?』って聞いちゃうかな」

「それ、ハードルが高いよ」

「はーどる?よく分からないけど、『聞くは一時の恥』なら知ってるわよ」

呻いた私にパンのおかわりを勧めながら、彼女はそう言って朗らかに励ましてくれた。


結局始業時間のぎりぎりになって執務室に向かったのだ。

毎朝一番に事務仕事をする若様は、この日もすでに一番奥の机にいた。

この時間はまだ、机の上にたくさんの書類や参考文献やらが山になっているので、その中にかがみ込んだ若様の姿は、入り口からだと金色の頭しか見えない。私はその金髪を眺めながら、そおっと開けた扉をまたそおっと後ろ手に閉めた。

たくさんの、頭が痛くなりそうな題名の本。机の上に出ているのは法律関係の本が多いけど、それ以外にも、後ろの壁一面を覆う天上までの重厚な棚には、経済やら経営やら地理やら人物名鑑やら、読みたくない種類の本がやたらと詰まっている。実はその間に、怪しい模様の壺だとか可愛くない民俗調の人形だとかが挟まっているのだが、これは若様がその辺で買わされた物だろう。

ぱっと見立派、でもよく見ると残念、本棚は持ち主の中身をよく示している。

「ヘスター?来ていたのか。おはよう」

若様が、私に気付いて顔を上げた。

「おはようございます」

朝の挨拶を交わすのもいつのまにか当たり前になった。でも、今日は目のやり場に迷う。

私を仲間だと言ってくれた若様は、目が合わないことを嫌だと言う。私は目を合わせれば赤面必至だから、できない。

結果、うろうろと床から若様の机までを視線が彷徨う。それに気付いたのか、若様がふ、と息をはくように笑った。いつもと違う、元気のない笑い方だった。

「書庫に行ってくる」

私が気まずそうだから、気にしたのだろうか。いつもこの時間に資料の入れ替えをすることはないのに。

若様は、机のわきに積んであった本を一山持ち上げた。多分男の人には軽いんだろう。でも、普通こういう地味なことは、お付きの人とかにまかせて自分ではやらないんじゃないだろうか。

「あの!」

声をかけてしまってから、私は迷った。せっかく気を使って部屋を空けようとしてくれたのに何をしているんだろう。でも待て、部屋の主に部屋を空けさせてどうする。それに、私は補佐官なのだから、若様の資料返却は、本当は私の仕事だと思う。

「…お手伝いします」

書庫の場所が思い出せなかった私は、仕方なくそう言った。

「え。そうか、じゃあ」

若様は意外そうな声を出したが、自分の手の中から2冊だけとると、私の手に載せてくれた。


エセル家の書庫は、執務室から廊下を真っ直ぐ、突き当たりを曲がったところにあった。コの字の縦棒部分だけど、2、3階は反対側の棟と壁で隔てられているから、大丈夫だ。

夏なのにひんやりと空気が冷たい気がするのは、書物を守るために分厚いカーテンで遮光されて薄暗いせいか。

「昨日は悪かった」

手分けして本を棚に返しながら、若様が口を開いた。

「疲れているところにおかしなことを言って、嫌な思いをさせたようだ。…おかしいな。子どもは得意だったんだが。最近はライナスにも嫌われたようだし」

私は急に謝られて、何から答えればいいのか分からなかった。それで、一瞬止まってしまった手で再び背表紙をなぞりながら、とにかく否定しなくてはと思ったことから口に出した。

「ライナス様は…嫌っていません」

若様を、と言いそうになって、慌てて空気を飲んだら、意味深な間ができてしまった。

「ライナスは、か。ヘスターは?」

「私は、子どもではございませんが」

話の流れを訂正しただけのつもりだった。それなのに若様は、自嘲するように笑った。

「ああ、そうだったな。だからか。どうも女性は不得意なんだ」

大抵最後は嫌われる、と彼は言った。

私は、ぶんぶんと頭を左右に振った。違うよ、嫌いなんかじゃない。こんな寂しげな笑い方は、この人には合わない。その思いから、口を開く。

「嫌いだなんて、そんなことはありません。昨日は、仲間だと言っていただけて本当に嬉しかったのです。ただ、違うんです、私、あの」

美形に弱いんです。赤面症なんです。無理だ無理、やっぱり言えない。

「あの…ずっと、家族以外の顔をほとんど見ない生活をしていたので…人の顔を見るのにまだ慣れないのです。特に、うちは父以外女ばかりだったので、若い男の人は…顔を見ると緊張します」

昨日のあの会場にいたのがほとんどがたいのいいおじさんばかりだったことは、私にとって最高のラッキーだった。でなかったら、いくらメガホンがあっても、目を伏せっぱなしで説得力も何もなかっただろう。そんなことも混ぜ込みながら、何とか話す。

たどたどしくでも説明できたのは、書庫が薄暗いのと、本の返す場所を探しているからお互い横を向いていられるせいだったと思う。

「そうか」

若様が、ぽつりと言った。

「じゃあ、私が嫌われているんじゃないんだな?」

「はい」

若様が、誤解を解いてくれたらしい。私は心底ほっとした。

「よかった。目が合わないのは嫌われているせいだと、思っていたんだ。無理に連れてきた上、お前には窮屈な思いをさせているし」

「違います。若…エセル家の皆様には大変お世話になっていますし、今働いているのはすでに私の意志です」

ここだけは、きっぱり否定しておく。それで若様はこだわっていたんだ、と思いながら。

すると若様は、すがすがしい声で言った。

「大抵の女性は喜ぶことを、お前は嫌がるから、てっきり相当嫌われているんだと思っていたが、気のせいだったんだな」

あれ?嫌がったのは多分気のせいじゃないんだけど、でも、ここで否定するとややこしいような。だから、あやふやに頷いておいた。

「は、い…?」

「ヘスターが人に慣れていないという、それだけなんだな」

そう、なのか?若様がどう解釈したのかよく分からなくなってきたので、これ以上理解できないのに返事を返すのを避けたほうが無難かもしれない。私は急いで話を変えることにした。

「あの、それで。呼び方のことなのですが」

「ああ、さすがに…ご主人様はやめた方がいいと思う」

「はい、それはさすがに。ですから、なんとお呼びすればいいですか?」

勢いで言えた。やったよ、マリエさん。

聞けただけですでに目的を達した気分になって、私は内心一人で浮かれていた。

だからちょうど2冊目の本の返却位置を見つけたのもあって、これを聞いた若様の肩がぴくりと動いたことも、気にも留めなかった。

私がすとんと隙間に本を差し込んだとき、若様が言った。

「では、名前で」

「え?」

「マーカスと呼べ」

こう言われて、ようやく私は、これまでの若様とのやりとりの不毛さを知った。ああそうか、若様が嫌だというのも、課長も隊長も総長も駄目だったのも、若様の中でこれが正解だったからなのか。でも、でもね。

「それは、さすがに不敬に当たります」

だって、私は貴族のご令嬢じゃあない。ところが、若様はこの理屈に納得してくれなかった。

「ロンも一応部下でもあるが、私的な場所ではマーカスと呼んでいるだろう。お前もマーカスと呼んでくれ」

「私は食堂の三女です」

「それがどうかしたか?他の人間がいなければ、何の問題もないだろう」

本気で不思議そうな声を出す若様に、私は気が抜けてしまった。そうだ、ロンも若様もそういう人だったね。実利をとる人たちだから、たしかにロンも、私が若様を要望通りに名前で呼んでも、不敬罪だなんて言わないだろう。

でも、下の名前だよね、マーカスって。

こういうとき、ためらってしまうのは、奥ゆかしい日本人だった前世の記憶が邪魔をするのだろうか。それとも私が照れ性なだけか。でも、中学生以降男子を名字で呼んだ記憶しかないから、家族でもない人を下の名前で軽く呼べないんだ。ロンは呼び捨て上等の『ロンめ貴様』の略だけど、若様は、ねえ。ファミリーネームならいいのに。あ、それじゃあ。

「…マーカス・エセル様」

思いついてフルネームで呼んだ私に、若様は微妙な沈黙を返してきた。

「ヘスター・グレン…」

「なんでしょう、マーカス・エセル様…」

「ちょっと長くないか」

「いいんです、マーカス・エセル様」

それだからいいんだ。そして、山田太郎、と言っているつもりで呼ぶのがこつなんだ。

この日から、若様の呼び名はマーカス・エセル様になり、私の仕事には資料探しとその返却が加わった。


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