転生者、じゅうぞくしてみる
「お疲れ様。頑張ったわね」
「ありがとうございます…」
ナン女史に渡されたグラスを手に取ると、終わった、という実感が湧いてきて、どっと疲れを感じた。
もう立てない。もうしゃべれない。もうちょっとで、本気泣きだった。
緊張感から解放された身体に、冷えたブドウジュースが染みこんだ。
細かい取り決めなどをする間、私とナン女史は隅のカウンターで休んでいるように言われた。
奥の方では、外で空話係をしていたロンと若様が、自警団の中心人物たちと額を付き合わせて話をしている。私はお言葉に甘えて、存分に休むことにした。
「ヘスター」
「へ」
弛緩していたところに声をかけられ、私は思わず声を上げた。
「俺だよ」
振り向くと、鈍色の髪を短く刈り込んだ少年が立っていた。
「ギル。久しぶり」
彼は、隣の八百屋の息子さんだ。学生時代の同級生で、私が引きこもってからは家族と協会の人以外でほぼ唯一口をきいていた八百屋の息子。
そう言えば腕っ節のよい親父さんとともに去年から自警団に入ったと聞いた気がする。ちなみにうちの父親の腕っ節は娘の頭に軽いげんこつを落とすのがせいぜいなので、この場にはいない。
「ちゃんとやれてるのかよ、お前」
「なんとか?」
「ふうん。…なら、いいけどな」
ガリガリと短髪の頭をかいて、彼はそっぽを向いた。
「きついようなら、いつでも戻ってこいよ。お前、ああいうの苦手だろ」
「ありがと。でも、やらなきゃならないことだし、周りの人も優しいから」
大体は、という言葉を飲み込んで答えると、ギルは少し物言いたげにこちらを見ていたけど、そのうち一言そうか、と言って戻っていった。
その背中を見送っていると、ナン女史が声をかけてくる。
「友だち?あなたのこと、心配していたみたいね」
「友だちというか…近所の同級生です。面倒見がいいみたいで」
そういえば、ギルは私がお城に勤めることになったと知ったときも心配してくれていたっけ。
そんなことを話しているうちに若様とロンが戻ってきたので、帰ることになった。
自警団の人たちはまだ残っていて、酒盛りを続けるようだ。ロンはお酒が好きらしいから2人は少し飲んでくるのかと思っていたら、若様がロンを引っ張るようにしてさっさと店を出たのだ。
ナン女史の馬車を見送って、自分たちも馬車に乗り込む。
橙色の明かり一つでほの暗い夜の馬車は、全て終わった安堵感もあってか、いつもより居心地がよかった。私はこっそり、背もたれに身をうずめた。
しかし馬車が動き出すとすぐに、若様が口を開いた。
「あの男、知り合いなのか」
何のことかと一瞬思ったが、知り合いかと言われそうなことといったら、ギルと話したことくらいだ。若様は私に知り合いがいたのが不思議だったのだろう。私は、頷いて答えた。
「彼は、ご近所さんです。家族以外で珍しく会話していた人なので、声をかけてくれたのです」
説明した私に若様はへえ、と一言言って黙った。
私は勘づいた。口数の多い彼がこうなるのは不機嫌の合図だ。でも若様の機嫌を損ねるような何があっただろう?
「もしかして、話がこじれました?」
「いや」
じゃあ、なんだ。
「若い連中が何か失礼な物言いをしましたか?」
首を横に振る気配があるだけ。無言だし。
ちょっといらっときたので、私はもう放っておくことにする。
そのまましばらく黙っていた後、若様がぼそりと言った。
「ずいぶん親しそうだったな」
「は?」
唐突な言葉の意味を捉えかねていたら、若様はまたぼそっと、あの男と、と言った。
「別に、ギルはただご近所の同級生だっただけで、最近は月に数度顔を会わせる程度でしたけど」
「でも、顔を見ていたし、…愛称で呼ぶんだな」
「はい?」
「お前は私と目を合わせることなどめったにないし名前も呼ばないのに、どうしてだ?」
月に数度程度の知り合いよりは顔を合わせていると思うが、と恨めしげに言われて、私は詰まった。
だって、あなたの顔がいいせいです、とは言えない。話すときは顔をへのへのもへじに置き換えてイメージしてます、なんてさすがに失礼過ぎて言えない。それに、若様は若様だ。気軽に愛称で呼んでいいような人じゃないでしょう。
答えられない私をどう思ったのか、若様はこちらへ身を乗り出した。
そこで彼は、驚きの行動に出た。
…若様の長い指が、空を切った。
私は、座席からずりおちてそれを見上げた。
馬車の中で突然顎を捕まれかけたら、誰だって驚くはずだ。だから、私は悪くない。
思いっきりよけたけど、悪いのは私じゃないはずだ。反射神経の鈍い私がこの攻撃をよけられたのはひとえに初めてじゃなかったからだろうから、ちょっとはロンも悪いかもしれないけど、私では、ない。
「何故避けるんだ?」
そんなこと、疑問に思うまでもないだろう。なのになんなんだ、その傷ついた声は。
「マーカス、無闇に女に触れるものではない。これでも一応成人間近だ」
ロンがお目付役らしく、さすがに常識的なことを口にした。一応は余計だとか、お前が言うかとか、突っ込みどころはいっぱいだけど。
「ああ、そうか。ヘスターを見ているとどうも年を忘れるな。ええと、普通は許しを得るのか?」
「まあ、双方同意の上でお前が特定の意図をもってのことならいいが、それはそれで人目を避けるべきだろう」
何の許しだ、触っていいかとか聞かれても困る。ロンはロンでなんの話をしているんだ。
この気まずい話題を終わらせるには自分でしゃべる他ないのだと、私はこっそり若様の向かいからロンの向かいへと移動しながら諦めた。
「若様」
呼び掛けると、金色の頭がぱっと振り返った、ようだった。見てないけど。
「顎は人体急所の一つです。私は突然の攻撃にとても驚きました」
攻撃?と頓狂な声をあげなくても、本当はそんなこと私だって思ってない。でも、敢えてこれで通させてもらう。じゃないと、普通の声でしゃべれそうにないから。
「そういうわけですので、避けてしまいましたが、申し訳ありませんでした」
さあ謝罪したぞこれで終わりにするのだ、という言外の圧をかけた。ところが、空気を読まない彼には通じなかった。
「謝罪はいらないし、私は攻撃しようとはしていない。ただお前が目を合わせないから」
「目など、常にあわせている方が不遜でしょう。私はお二人とは身分が違うのですから」
「お前は仲間だろう」
間髪いれずに言われて、不覚にも動揺した。
仲間、だって。
こんな場面で唐突に言う?という気もするけど、だからって心が動かないわけじゃない。
「あ、それはあの、ありがとうございます」
じんわり胸に染みこむ仲間という言葉に、私は口ごもってしまった。でも。
「だから」
その間に、若様が話の主導権を取り戻してしまった。
「ちゃんと私とも、目を合わせてくれ。それに、いい加減…」
「若様?」
「その若様というのも、やめてくれないか」
なんだか、ただでさえ大仕事を終えて疲れた頭で、理解が追いつかない。
整理だ、整理してみよう。ええとつまり、若様は若様呼びが不服で、顔を見ないのが不服で、そのせいで機嫌が悪い。
そうだよね、考えてみれば、あちらは身分抜きで仕事仲間と思ってくれていたのに、こっちは目も会わせないんだ、それは感じが悪い。それに、成人直後の若者が『エセルさんとこのお坊ちゃん』と呼ばれて嬉しくないのも当然。つまり要求はこの二つ。うん、十分に理解できた。
だけど…顔はあげられない。
こんなやりとりのあとにはい分かりましたと目を見られれば、最初から苦労なんかしていない。今若様の顔なんて見たら、さっきの顎くい未遂を思い出して確実に気絶する…!
ここは、一点突破で逃げ切るしかない。私は意を決して口を開いた。
「分かりました!殿!」
「との?」
「ですから今後は殿、とお呼びしますので」
私は、目を合わせろというここでは不可能な要求を流すべく、呼び方一本にしぼって若様の要望に応えようと思ったのだ。ところが、若様はがっかりしたようにため息混じりの声を出した。
「そういう意味じゃなくてだな」
駄目なの?じゃあ、じゃあ、もうあれしかないんだけど。
「では、ご、」
「ご?」
ためらいを捨てろ、何でもない顔をすれば、何となく話は終わるはずだ。
「ご、ご・・ご主人様…」
「ご主人様?!」
ぶはっと吹き出したロンを私は横目で睨みつけた。
私だって前世は漫画や薄い本を読んだもの、世の男性の一部がこの呼び方に独特の思いを抱くことくらい承知している。でも、長官も隊長も課長も殿も駄目と言われて、もうこれしか浮かばなかったんだ。どうにかこれで怒りを流させてという必死の思いで言ったのに。
「諦めろマーカス、それか、ご主人様で手を打っておけ」
「馬鹿を言うな!なんだかそれが一番まずいだろう!」
声を出して笑うロンに若様がくってかかった。
ああ、そういう感覚はあるんだ。私は、若様が却下してくれて心底ほっとした。もちろん、そういう感覚の分かる人に言ったということで、それはそれで非常に恥ずかしいことだけど。
そうこうするうちに城についた。
静かに馬車が止まると同時に、私はお休みなさいませとだけ言い置いて逃げるように飛び降りた。
いや、逃げた。そしてこけた。




