転生者のイレギュラーミッション
そんな穏やかな日が続いていた5月のこと。
「困った・・・」
私は扉の前で一人悩んでいた。
今朝部屋に入ると、そこにいつもいるはずの二人がいなかった。万事きっちりしているロンは前日のうちに、今日は1日いないと宣言していたので、いなくても問題ない。問題は、若様の方だ。
そのうち来るかと執務室でしばらく待った。でもいっこうに来ないので、本気で困ってしまった。
なぜなら、今日は前日若様に渡した詐欺具体例集の第三校を手直しするつもりだったからだ。前世の知識に頼った具体例は、どうしてもこちらには馴染みのない習慣や物事を含みがちで、それを気をつけて取り除いているはずが、うっかり取り残したり逆につじつまを合わせるうちに分かりにくい文章になったりしてしまう。
例えば、携帯電話を空話と置き換えたとする。実は、普段電話と同じように使っている空話だが、電波式ではないし、個人がもつ電話番号が変わるということもない。だから、電波が届かないから聞こえが悪いという状況や、電話番号が変わったという成りすまし方はありえないことになる。非常に一般的な、『ああ、母さん?オレオレ。そう、ヒロシだよ。え?番号?携帯変わったんだ』という文句が使えないわけだ。
そんなわけで早く直したい私は、部屋の前を通りかかったメイド頭のハンナさんに若様の所在を尋ねたのだ。するとハンナさんは、笑顔でこう言った。
「まあまあ、ちょうどよろしいですわ、まだ寝ていると思うから起こしていただけますか?」
当然、私は入るべきではないと主張しようとした。だけど、忙しいハンナさんに中に入っていいからよろしくねと笑顔で言い逃げされてしまったのだ。しかもご丁寧に鍵まで開けて・・・そこまでしたら、一声かけて起こしてくれてもいいのに。
私は一応年頃の娘さんで、あちらも一応年頃の息子さんだ。雇用関係にあるとはいえ、それはメイドの仕事ではないので、むしろ上司のプライベート空間に侵入するのはよけいに問題を感じるわけで・・・
途方にくれて誰か通りかからないかなと待っていたものの、この頼まれ事を押しつけられる人も現れなければ、若様が現れる気配もなく、今に至るというわけだ。
私は、仕方なく寝室の扉をノックしてみることにした。
執務室の隣が若様の寝室の扉だ。ためらいがちのノックは聞こえなかったのか、返答はなかったので、もう一度、もう一度と強めにノックする。
返事、なし。
どうしよう。
この場合、知らんぷりして仕事に戻るか、もう少し待ってみるか、頑張って起こすか、選択肢は3つだ。ただし、最初のものを選ぶには、鍵が開いたままの若様の部屋の扉をどうするかという問題があるし、待つといっても実にもう1時間は廊下で待っているのだ。若様に今日急ぎの外出があったらどうする?ハンナさんは私に起こすよう頼んだのに、起こさなかったせいで公務に遅れたら?
仕方ない、仕事にイレギュラーとサービス業務はつきものだ。
私は意を決して、扉を開けた。
「若様、起きて下さい」
入り口から恐々声をかけたけど、布団の山は動かない。仕方なく、もう少し大きい声をかける。
「若様、おはようございます。起きて下さい、・・・朝です、マーカス様!」
ああ、苦しい。お城に来て以来一番大きな声を出して、私はむせた。
げほげほむせていると、布団の中からくぐもった声が聞こえてきた。
「・・・まだ夜だ」
「もう朝が来ました」
そろそろ壁際を進んで、近くの窓のカーテンを開けることを試みる。朝の光が部屋に入ると、ようやく布団から顔が生えた。亀みたいだ。金髪だけど。
ようやく起きてくれそうな気配に私はほっとして、隣の窓のカーテンへと移動する。
「呼んでない・・・」
「朝と押し売りは呼ばなくても来るものです」
カーテンを全部開けて、留めに窓も細く開ければ、寝室にも朝の空気が入ってきた。
若様は仕方なさそうにもぞもぞと上体を起こした。
まだ目が覚めないのか、しばらく目元をしわだらけにして唸っている。寝起きは良くないらしい。
窓際をとかに歩きで戻りながら覚醒を待っていると、ようやく目の焦点があったのか、若様がこちらを向いた。
「・・・何故、ここにいるんだ」
何故ってあんた。
私は、壁に張り付いたまま、口を開いた。
「若様が執務室にいらっしゃらないと相談したら、ハンナさんに起こすよう言われました」
しっかり嫌みを込めて言うと、彼は事情を飲み込んだらしく、ああ、と言った。
「では、先に仕事をしていますので」
入り口にたどり着いたので、私は即座に部屋を出た。
きちんと目を開いて亀から人間になった若様は、いつもどおり麗しかった。その上寝乱れた金髪や少しはだけた寝間着は、16才のこの身にはちょっと刺激が強すぎたのだ。
数十分後に着替えを済ませて現れた若様は、執務室に入るなり頭を下げた。
「悪かった」
いいえという代わりに私は、彼の後頭部に一筋残った寝癖を見ながら聞いた。
「若様には、お部屋担当のメイドさんはいらっしゃらないのですか?」
「ロンがいればあいつが起こしてくれる。メイドは、戻った翌日裏方へ移動させたんだ」
何故。朝起きられない人なんだったら、お付きのメイドさんは必要でしょうに。
「顔を合わせて数日で色仕掛けされるのは、家の中ではちょっとな」
そういう理由でしたか。
納得した私は、仕事に戻ることにした。
でももしかして、若様に色仕掛したら、私もこのきらびやかな場所から移れるのだろうか。領主様ご一家との夕食しかも仏頂面のライナス様つきとか、あの触るのが怖くて未だにベット以外手をつかないようにしている客間とか、諸々から。大分慣れたとはいえ、二世通して根っから庶民の私にとっては、今いる場所が異次元なことに代わりはない。お城勤めはいいけど、居住空間が裏側になるのだったらそれこそ万歳で、私にとっては願ってもないことだ・・・なんて、考えるだけだけど。
「・・・今、何か下らないことを考えていなかったか」
「下らなくありません」
反射的に言い返したが、若様は断定的だった。
「どうせ異動が羨ましいなどと考えていたんだろう。忠告しておくがお前には無理だ」
私はむかっとした。自分で分かってはいても、人に言われると腹が立つものだ。だから、思わず売り言葉に買い言葉が飛び出した。
「分かりませんよ?」
ふっと若様が吹き出した。
「まともに目も合わないやつに言われてもな」
確かに返す言葉がございませんが!
私は頭にきたので、思い切りそっぽを向いてやった。
「ともかく、本来メイドさんでもない私に若様のお部屋に入る権限はございませんから、明日からきちんと起きて下さい」
うーん、と若様が唸った。
「ロンがいれば大丈夫だ」
ロンって、若様の側近だよね。世話女房じゃないよね。2人がそういう関係でも、悲しむ婦女子の数だけ喜ぶ腐女子がいそうだから別にいいけど、私の見立てだと、多分違うんだ。
「まあ、明日のことは明日のことだ」
私が絨毯を見たまま冷たい目になったのが分かったのか、若様は肩をすくめてデスクに向かった。
その拍子にまた、ぴょこんと一筋後ろの髪が跳ね上がる。彼の少しうねりのある金髪は普段自然な感じに落ち着いているから、てっきりセットいらずのうらやましい髪質なのだと思っていた。でも、どうやらいつもはちゃんとセットしているらしい。・・・まさか、ロンがやっているとか、言わないよね。
「若様、御髪が跳ねています」
「そうか?」
私はデスクから携帯用の櫛を出して、良かったらと渡した。でも、見当外れの場所に当ててぐいぐいと髪を痛めつけている若様に、ため息をついてしまった。
私は若様の言葉を借りて、ロンがいないからね、と自分に説明した。
「髪が可哀想です。貸して下さい」
「あ?ああ」
せっかくの奥方様譲りの美しい金髪なのに。カラスと呼ばれた真っ黒い直毛の私からすると、もったいなくて許し難い行為だ。
綺麗な金髪はとても細くてつややかだ。指ですくってみたくなる気持ちを抑えて、そっと、でも手早く寝癖を直す。
幸い櫛だけで上手く言うことを聞かせられたので、私はすぐに櫛をもってデスクに戻った。
「お前はつくづく妙なやつだな」
唐突に若様が言ったので、私は櫛をもっていた手をどうしようか困った。このまま話しが続くのなら、置くべきか、持っているべきか。
悩んでいる私を前に、彼はおしゃべりな口を動かす。
「下町育ちというから素朴な町娘かと思えば、マナーも話し方も大体分かっている。それなのに、無遠慮なほど不快や呆れを顔に表す」
私はどうやら若様から見て、それなりにマナーと話し方をわきまえた正直な顔の娘らしい。でも無遠慮って、褒め言葉じゃないよね。
「寝室に入る機会があっても壁際から離れようともしないし、人混みを歩くだけで泣くほど臆病な割には、協会にも私にも自分の考えを主張することにはずうずうしいほど恐れがない」
泣いたことなんて忘れてほしい。というか、覚えていても言わないのが大人のルールのはずだ。これはさっき偉そうに自分で起きろと言ったことへの仕返しだろうか。それとも、やっぱり髪を直したのは行き過ぎだったのだろうか。
とりあえず、ここまでくれば無礼者と言われていることは理解できたので、私は迷ったままもっていた櫛を一旦置いて、頭を下げた。
「申し訳ございません」
「いや、別に謝ることではない」
ならなんなのだ。
恨めしさにちらりと目を上げれば、彼はじっとこちらを見ていた。目があったので、急いでまた床に視線を落とす。
「ただ、城内にも仕事にも大分慣れたようなのに、未だに睨まれているとき以外目が合わない気がするのは、不思議だなと思ったんだ」
私は、ぎくりとした。
最初から引きこもりの人見知りだったし、その点を突っ込まれることはないと思っていた。
若様の指摘通り、私はお城にも彼等の存在にも、もう大分慣れている。正直、若様やロンの存在自体にはもう緊張しないと言っていい。それでも、未だに顔を見るのは避けている。
ここで暮らすことが決まったとき、思ったのだ。
これから毎日そばにいると考えると、やっぱり極力顔は見ないほうがいいと。それまでは、数回会うだけで私の人生には大して関わりのない人だったけど、どこをどう間違ったか上司になってしまった。
何しろ、2人とも美形なのだ。もう少し不細工だとか、印象の薄い顔ならいいのに。精神年齢は若様たちより多少上とはいえ、こちらも正常な目をした女性なもので・・・むしろ前世は二次元の美しい男性たちにはまっていたくちなので、直接の美形は心臓に悪いのだ。なんというか、無駄に緊張して頭が働かなくなる。
うん、改めて意識したらますます緊張してきた。これからは、脳内で顔の部分をへのへのもへじに変換して話を聞くことにしよう。
私は、床の綺麗な木目に視線を逃がしながら、へのへのもへじに向けて言った。
「気のせいです」
へのへのもへじは、そうか、と話を終わらせた。
しばらく平穏が続きましたが、次話からお仕事に動きがある予定です。




