転生者、どれもまちがい
「ロン、これをヘスターに渡してくれ」
「お前の方が近いだろう」
「とにかく!私は父に呼ばれているから、頼んだぞ!」
そのまま執務室を出ていってしまうのを、私は無言で見送った。
若様は、完全にすねてしまった。
昨日の朝のアレで、仲直りのはずがかえってこじれたせいだ。それもこれももとはと言えば。私は書類の束を差し出す奴をじろっと見上げた。
ロン貴様、お前のせいだ。
「なんだ」
「…いえ」
私は、大人として社会人として、表面上言葉を控えた。勿論本音は、お前が余計なことをしたからこうなったとか恥のかき損だとか山ほど文句がある。だから睨むのはやめない。
とはいえ、私だって、責任を感じなかったわけじゃない。さすがにマーカス·タラシ·エセル呼ばわりはまずかったと思っている。
あのあと、先に城に戻されて私は、確実に不敬罪だとびくびくしていた。そこへ夕方になって、冬の社交シーズンでご多忙なはずの奥方様からお呼びがかかったから、これはもう首を切られるのだと覚悟した。
でも、膝を震わせながらお部屋に向かった私に、奥方様はにっこりと艶やかに微笑んで下さって、そしてこうおっしゃった。
「うちの息子のことなら、気にしなくていいわ。可愛がっているウサギに構いすぎて引っ掛かれたから、拗ねているのよ」
私はあっけにとられてしまった。てっきり解雇、悪くて縛り首だと思っていたから。奥方様が笑っていらしたから、もしかしてお説教と罰則で済ませて下さるのかと期待はしたけど、まさかの別件。しかも、それって私と関係なくないかと。
「誰もそのくらいで大騒ぎにはしないから、ヘスターちゃんも、気を張らないでのんびり機嫌が直るのを待っていてね」
「は、い…」
一瞬、自分から不敬罪を白状して懺悔するべきかもという考えが頭をかすめた。でも、女神のような人に微笑み掛けられて、いいこと?なんて小首を傾げられると、私の頭はもう、完全に思考停止だった。
そのままふらふら夢見心地で御前を退いて、気付いたら部屋に戻っていた。
「若様、ウサギ飼ってるんだ…」
──まだまだ知らないことの方が多いなと、はあため息をついたのが、昨日のこと。
今日も若様のご機嫌は直らないんだなと、ロン経由の仕事を見下ろす。
私の失言だけじゃなくてウサギまでやらかしたというから、一晩くらいじゃあ駄目だったんだろう。まあ、動物とはいえ可愛がっているのにつれなくされたんじゃ、むっとするものだし、精神的にダブルパンチだったのかも。
私はまたしても、はああと大きなため息をついてしまった。
私に仕事を渡して席に戻って行ったロンが、それに気付いたのか、ぼそっと言った。
「野ウサギに噛みつかれたくらい、その内あいつも流せるだろう」
…今度は野ウサギか。かまれてトリプルパンチだったのか。
それにしても若様、飼ってるだけじゃなくて、野ウサギにまで手を出してるのか。
「…ウサギ、よほど好きなんですね」
その途端、ぶっとロンが吹き出した。
「あははははははは!」
「何事ですか」
ぎょっとして振り返ると、ロンはお腹を抱えて笑っていた。
「あーっはっはっはっはっは」
「あの?」
返事も出来ない様子で苦しそうに笑い転げている。顔が赤くなるほどの大笑いだ。ロンの銀髪が乗馬以外でこんなに乱れるのを見るの、いつ以来だろう。
…ロンの大笑い、なんだか久しぶりに聞いた。
私は怒るのも忘れて、しみじみ眺めてしまった。
そういえば、最近ロンは忙しさのせいか、以前に輪を掛けて無表情だった。連日の聴き込みで疲れていたんだろうか。それとも、プライベートで悩みでもあったんだろうか。
そう思ったら、私の若様への先のない気持ちやらそのせいで起きたあれこれにまで付き合わせたことが、ロン相手とはいえ申し訳ない気がする。
「何が可笑しいのか知りませんけど、楽しそうで結構でした」
未だに身体を折り曲げて笑い続けているロンに、大人になってそう伝えると、何故か笑い声がさらに大きくなった。
「…さすがにそろそろ終わりにするか笑いの訳を教えて頂けませんか?」
「教、えたら、恨まれる、からイヤだ。くっはははははっ笑いすぎて腹がっ」
「いい加減にしろ、ロン貴様」
大人成分品切れだ。
低い声で呟くと、ロンの目が私に向けられた。
「なんだと鈍感女」
「なんだと冷徹男」
言い返せたのは、ようやく笑いが収まってきたロンの目が、まだ充分に笑いを含んでいるからだ。
こんなふうに笑っていると、この人も年相応に見える。普段の無表情で冷徹な氷の彫像のようなロンは、ある程度努力して装っている姿なのかもしれないな、と私は思った。こう見えてこの人は、若様の尻拭いをして回らないといけない苦労人でもあるから、のん気にはしていられないだろうし。それに、見た目が良い分、あまり柔らかい態度をとると女性が寄ってきすぎて大変なのかもしれない。
「ロン様、普段から笑ってらしたらいいのではないですか」
その方が、ずっと親しみやすいし、何より何だか本人が楽そうだ。若くして若様の片腕として対外的なことをするにはそれなりの威厳が必要なのかもしれないけど、内輪でくらいはいいじゃないか。
そう言った私を、ロンはまじまじと見つめた。それから、膝に頬杖をついて、一言。
「ばあか」
「なんですと?!」
私は反射的に噛みつきながら、内心戸惑っていた。
暴言を吐かれたはずなのに、ロン貴様の…ロンの目は、冬の氷を溶かしていく、春空の色をしていた。




