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転生者、どういのうえとそと

キィン…!

朝の冷たい空気に、剣がぶつかり合う音が響く。

「この前の話はどうなった」

男が口を開いた。

「いえ、その」

キィン!カッ

答えが気に入らなかったのだろう、男は周囲の気温よりなお冷たい声を出す。

「問題を放置するな」

私は、男──ロンの絶対零度の視線を避けつつ、言い訳した。

「たまたま機会がなくてですね…」

一応、これは本当だ。話をしないとと思ってはいたけど、運悪く若様の外出や、土日に送迎付きで実家に帰らせてもらったことなんかが重なってしまったんだ。本当に運良…運悪く。

「いつまでこんなところで油を売っているつもりだ?社会人が」

私は信じられない思いでロンの顔を見上げた。

確かにここは、鍛練場の側の物陰だけど。

そして私は今仕事をしていないけど、それはロン、貴様が問答無用で連れてきたからだ。

さっさと若様の誤解を解いてこいという意味なのは、分かる。

でもそうしたら、目を…見たり、側に、寄ったり、しないといけなくなるってことだ。そんなこと、出来る気がしない。少なくとも、もうしばらくは。

大体お前はこの前、人の複雑な乙女心をずけずけ無神経にあばきたてて知ってるんだから、もう少しこう、慮るってことをしても良くないか。

「タイミングくらい、自分で決めさせてください」

まだ、自覚して一週間たらずなんだ。もう少し、普通を装うにも心の整理というものがいるんだ、という私の主張は、ばっさり切り捨てられた。

「それを待つ間の職場環境や作業効率をどう補償する気だ」

こいつの血は、凍ってるのか。

確かに私だって、あの若様の悲しそうな自責の言葉を聞いてしまって、このまま避けるのは悪いと反省もしている。でも、ここまで言われると腹が立って腹が立って。ロンめロンめロンめ。

「~分かりましたよっ」

私は怒りを込めて地面を踏みしめた。ささやかに身長をかさ上げしていたブーツのヒールが、かき残された雪でぬかるんだ土にめり込む。

「おい、穴をあけるな」

重ね重ね失礼な。

もう答える気もおきなくて、そのまま淑女らしからぬ大股で目標の人物を目指した。

土と汗と隊員の身体からあがる湯気を見れば、長めのワンピースとコート姿の私は浮くことが確実で、わざわざここへ連れてきた人間に悪意を感じる。

おおかた、他の人間がいれば私が若様への無礼な言動を堪えるだろうという企みだ。

怒りを勢いに変えて声を出した。

「おはようございます、少々お邪魔いたします」

私という闖入者に剣がぶつかり合う音がやみ、鍛練中の隊員達が振り返った。

皆一様に驚いた顔をしている。その中で一際目立つ金の髪のその人は、鍛練用なのか見慣れない格好をして今まさに剣を手にしていた。

「ヘスター?何故ここに」

突然手合わせに割って入られて若様もさすがにぱかっと口をあけかけ、それから私の背後にロンの姿を見てますます困惑したように眉を下げた。

全く、そんな顔も美形だな!

私はそのままの勢いで若様の一歩手前まで近づいた。

「先に謝ります。先週末のお二人のお話、廊下で聞いてしまいました」

若様は飛び退くように二歩下がった。

「な!?おい?何を聞いた?!」

「つきましては訂正致します。私が若様を怖がって避けていると思われていたようですが、私は、全く若様が怖くありません」

ガラン、と金属音が響く。

それを聞きながら、『全く』は言い過ぎかと考えた。でも、ほぼ真実だからこれはいい。

心配なのは、じゃあどうして避けていたのかと聞かれることだった。一応、ギルのプロポーズを知られて気恥ずかしくてという苦しい誤魔化しを考えていたけど、若様はそこを突っ込まなかった。

彼が目を真ん丸にして聞き返したのは、別のことだった。

「私のことが、怖くないのか?」

私は少し驚いてしまった。剣を取り落として言うほどのことかと戸惑いながらも、返事をする。

「はい」

私の答えを聞いてもまだ信じられないのか、若様が見開いた目でじっと観察してくるから、私は下っ腹に力を入れてそれを見返した。

「腕をつかんだとき、怖いと思わなかったか」

「いえ。びっくりしましたけど大丈夫でした。それで、もう怖くなくなっていると気付きました」

「そうか」

そうか、と噛み締めるように、若様はもう一度呟いた。

見開かれていた目がゆるゆると戻っていき、固まっていた表情から力が抜けていく。

ああ、やっぱり誤解を解いてよかった。

私がほっと胸をなで下ろしていると、若様が、最高に幸せそうに目を細めた。緑の瞳がきらきら輝く。

「ヘスター」

きらきら、きらきら、朝の光が彼に降り注ぐ。ああ、これは。

「…何でしょうか」

ほっとしてロンへの怒りも溶けて、そろそろ勢いの力も限界だ。

私は若様の笑顔にくらくらしながら、必死で平常心を保つ。保っているのに。

若様は、こう言った。

「嬉しくて、死にそうだ」

…勘弁してよ。

考え無しにおおげさなことを言わないで欲しい。自分の顔面の破壊力を、声の響きを、よく考えて笑って欲しい。むしろ笑うな。私に安易に笑いかけるな。

頭の中で思いつく限りの文句を並べ立ててぎりぎりの均衡を保って、早口に言った。

「それは大変ですね。ではこれ以上お邪魔してはいけませんし私はそろそろ」

若様を見るのはもう無理だ。

私は急いで回れ右をする。

「ヘスター」

呼び止めるな。そろそろ空気をよむことを覚えろ。

そう毒づきつつ、被雇用者の悲しさで立ち止まる。

「…はい」

のろのろと振り返った私の方へ、一歩、二歩と、若様が近づいてくる。

おかしい、空気が薄くなったのか一段と肺が苦しい。

若様は、酸欠の私の前に立ち止まると、言った。

「手に、キスさせて欲しい」

いけない脳が働かない。

私は必死で記憶を巻き戻した。なんて言ったっけ、そうだ、手に、キス…

「…はあ?!」

馬鹿じゃないのか。

なんなんだこの人は、と思いっきりうろんな目で見てやったのに、幸せそうな笑顔は欠片も崩れない。

本当、馬鹿なのか。バカ様なのか。

「敬愛のキスは、知っているだろう?」

私は渋々頷いた。

残念ながら、それは知っている。パーティー前に奥方様たちから教えて頂いた。よくある挨拶がわりってことも、紳士から頼まれたらこのキスは断らないことも、知っている。知っているけども。

「恐怖を克服して、今私の側に立っていてくれるヘスター·グレンに、感謝と敬愛を」

上位の人間から既に差し出されてしまった手を無視することは、最高に失礼なことだ。それは、沢山の部下の前に立つこの人にすべきではないと分かっている。

ずるい。でも、この人はそういう計算をしない。それに今まで私が人見知り中や男の人を怖がっていた間、自分も他の人間も決して私にキスの許可を求めないようにしてくれていたのも、若様で。

でもやっぱり、酷い。

だってこんなに恥ずかしい。体が震える。

前に若様の髪先に触れたとき、私はどうやったんだろう。パーティーでエスコートされるとき、どうやったんだっけ。もう、全然思い出せない。気付く前の自分にはどうやっても戻れそうにない。

ちらっと伺うと、若様は期待の目でじっと待っている。

気が短い癖に。さっさと諦めてくれていいのに。こんな時ばっかり落ち着いて待ってないでよ。

僅かな間に、色んなことを考えた。それはもう、ぐるぐる目一杯。

私は、とうとう観念した。

これは挨拶。これは挨拶。相手が誰でも関係ない。挨拶はかかしとしても赤ちゃんとしても、挨拶だ。

念ずることで思考を塗りつぶして、手袋を外した。水仕事や書類仕事で荒れた指先を、恐る恐る伸ばす。

そうして、とうとう、若様の手に触れさせた。

「ありがとう」

蕩けるような甘い声で言われ、それだけで立っていられないような気がする。

若様がすっと親指で私の指先をなぞり、それからゆっくりと顔を近づけた。

見てなんて、いられなかった。目を閉じたのは正しかったのか、失敗だったのか。

ひたっと温かく湿ったものが手の甲に触れて、私の身体は電流が流れたようにしびれた。触れるふりだけするのが普通と聞いていたのは間違いだったのか。

びくっとして急いで手を取り返そうとしたけど、できなかった。若様の吐息を肌で感じたと思うと、逃がさないように握られていた私の指は裏返された。

「ひゃっ!」

おかしな声をあげてしまった私は、今度こそ取り返した手を胸に握り混んだ。

だって、今。

若様は、あろうことか、裏返した私の手のひらにまでキスをしたんだ。

手のひらのキスは、懇願。懇願の、キスだ。ことのついでと教えられたその意味が、頭の中で何度もリフレインする。繰り返す度ぐんぐん上がる体温と高速で叩かれる胸にとうとう息が出来なくなる──

違う。

駄目だ。

流されてたまるか。

私は右手をぶんと振った。

「タラシを垂れ流すのは止めて下さい!!」

ばちんといい音がして、若様の顔が揺れた。

「え?タラシ…?」

ぼけっとした間抜け面も美形なら許されるなんて、世間様は許しても私は許さない。

「いいですか?マーカス様!私は慣例にのっとって手の甲は許しましたけど、それ以外を許したつもりはありませんっ」

怒れ。怒りで全部塗りつぶせ。

「もしかしてタラシとは私のことか。手に、と許しを得たはずだろう」

「ともかく許可なく誰彼構わずキスするなんて、男の風上にも置けないタラシです!」

「誰彼ってお前」

「タラシですか!貴方はマーカス・タラシ・エセルですか!」

「な!?」

息があがるのは怒りのせい。顔が赤くても声を張り上げたせいだ。だから、怒り続けるしかない。

もう私は自分で自分を止められなかった。

この後、不敬罪で訴えられる前にロンが私の頭にチョップを落とし、私はいろんな意味で頭を冷やすため、退席させてもらうことができた。

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