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転生者、どくどくどく

「ヘスター」

若様がやや固い声で私を呼ぶ。今日何度目だろう。

「何でしょう」

数歩離れて立ち止まって、私は一瞬合わせた目を伏せた。

「め、珍しい石が手に入ったんだが」

冷静に冷静にと自分に言い聞かせながら声と言葉を選択した。

「…また露店商に引っかけられたのですか」

「違う!~~っもういい!」

若様は結局何も言わずに書類の山に埋もれた。ロンのいない隙を見計らうようなタイミングだから、安物買いがロンにばれないうちにという相談かと思ったら、違ったらしい。

なんだ、せっかく上手に気持ちを隠した声が出せたのに。

でも、しばらく若様に近付きたくない私には、さっさと切り上げられたのは幸いだった。

そう、私は、若様を避けている。

合言葉は『ジャスト半径2メートル、NO MORE 直視』だ。

ありがたいことに、若様は何か粗悪品を隠しているせいか、いつものようにぺらぺらとめどなくしゃべるのでなく今のように話しかけては自分で切り上げて、を繰り返している。おかげで、私はなんとか平生を保っていられた。

「おいヘスター」

ああ、4度目だ、と身を固くしたとき、扉がノックされた。

「ヘスター!約束通り一緒に夕飯を食べるぞ!」

「ライナス様っ。ご兄弟とはいえ一応執務室ですよ」

最近背が伸びてますます活発になったライナス様が、私の注意にぴしりと背筋を伸ばした。

「失礼いたしました。兄上、ヘスターと夕食の約束をしているので、退勤させてもよろしいでしょうか」

きちんと伺いをたてた可愛い弟に、若様も頷かない訳にはいかない。

「まあ…ちょうど時間だし、行っていい」 

やや歯切れは悪いものの、退勤許可が出たので、私はほっとして部屋を出た。一度支度をするため、ライナス様と別れて自室に向かう。

ぱたんと扉を閉めると、その場にしゃがみこむ。

私は、なんだこれはというほどの疲れを感じていた。

思った以上に気疲れするものらしい。近付きたいという自分の気持ちを裏切って、距離を取り続けるということは。

私はゆっくり身体を起こして、クローゼットの前まで動かした。その戸の鏡面に映る暗い色彩の子どものような娘を、服装を整えながら見つめていると、恨みがましく見つめ返された。

…恨むな悩むな顔に出すな。

両手の人差し指でにっと口の端を押し上げてから、髪をとかした。

住む世界が違う。顔面偏差値が違う。脚の長さが違う。

全てにおいて強者のマーカス・エセルは大変なもて男で、今は恋愛事と距離を置くと決めているから相手がいないだけで、その気になればどんな妖艶な美女でも可憐な美少女でも手に入れられるはずだ。

彼の優しさは万人に対するもので、お姫様のように接するのもタラシ故で、私だけと思っちゃいけないってわかっていたのに。

そもそも、私は庶民で、彼は貴族だ。マーカス・エセルは領主一家の『若様』だと、ずっと言い聞かせてきたのに。

もうすでに全ての自戒が過去形なことに気付いて、自嘲する。苦しみたくないと見ないふりをしてきたけど、気持ちは勝手に育っていたらしい。

あの明るくて決断力と感情の起伏が過剰気味な、露店商のいい鴨、マーカス·エセルという人に、本当はとっくに惹かれていた。

気付いたら、逃げられない。

でも玉砕なんて、するわけにはいかない。

だって、今私は、仕事もここで手にした人間関係も失いたくない。

いつか聞いた、若様に侍女も侍従もいない理由を思い出す。プライベートな空間でまでそういう誘いを受けたくない、と若様は言っていたじゃないか。

だから、私は決めた。この気持ちを、マリエさん作の怪しい18禁本と共にベットの下に隠し続けると。

この感情が静かに風化していく日まで。それとも、お城を離れるその日まで。

直した髪と薄化粧で、もう一度にっと笑い顔を作る。そして景気付けに鏡に向かってパーティー用の御辞儀をした。

「ヘスターまだか?!」

「うわぁライナス様ノックしてください!」

慌てて直立不動に戻しながら、新な難題に私はこっそり嘆息した。



眠りの浅い夜があけて、私は気疲れと長旅その他諸々でいつまでだって寝ていたい身体を、無理矢理起こす。

朝日が当たるように少しカーテンを開けておいて助かった。窓を開けて冷たい空気に震えながら身支度を調えて、急いでご飯を食べて。

侍女の仕事は、なぜか今も続けている。お城に戻って以来どうも不機嫌なことが多い若様に、改めてやめる宣言をする機会がなかったのが主な理由だ。それから、ハンナさんや奥方様にヘスターのおかげで助かるわ、なんて持ち上げられて辞めづらくなってしまったせいもある。

「マーカス様、朝です。おはようございます」

この日、久々に寝坊の若様を起こすことになった。

深呼吸して、ノックから実力行使に切り替える。まだカーテンの閉め切られた真っ暗な部屋に踏み込むのも、数えれば3度目だ。不本意ながら、部屋の隅の安全ルートも覚えてしまった。

「もうそろそろ起きて下さい」

カーテンを開けても、ベッドの主はすっぽり頭まで布団を被ったままうんともすんとも言わない。

事後処理や溜まっていた領主補佐の仕事やらがあって、さすがに疲れているんだ。

それなのに、時間を探してロンや警備隊の面々と剣の稽古まで始めたというのは、昨日ライナス様から聞いたことだ。この前盗賊におされたことを、腕が鈍ったと気にしているらしい。

思い立ったら即の人なのは分かっているけど、それにしても過労で倒れるんじゃないか…と心配しているのは、断じて私じゃあない。ハンナさんだ。

実は、今日起きてこない若様を特別に9時まで寝かせておくようにとハンナさんに言われたんだ。それで、先に執務室の掃除をして、今が9時すぎ。

「マーカス様!もう9時なので起きて下さい!」

何も考えないですむように、天上を睨んで声を張り上げる。

「んー…ヘスター?」

もごもごと舌っ足らずに呼ぶな。

怒鳴り付けたい気持ちと上昇する血圧を気合いで抑える。

「はい。目が覚めたなら、早く起きて下さい」

冷たいくらいはきはき言えば、ようやく布団の山が動いた。

「ヘスターだ。おい、ヘスター」

起こされて驚いているのかと思いきや、彼はもう一度私の名前を呼んで呼び止めてきた。

「…何のご用でしょう」

仕方なく振り返った私に、彼はにっこり笑いかけてきた。あ、見てしまったと気づいても遅い。

「おはよう」

私は、絶句した。

その顔面が凶器だということを、自覚してほしい。一瞬で目に焼き付いた寝起きで少しぼうっとした顔は、成人男性と思えないほど邪気がなく優しげでそのくせ少し色気があって、きらきらが和らいだ分艶めいて見えるというのか、もう目を逸らしてもこれだけ鮮明に記憶しちゃったら全く意味がない。

というか、この人、昨日の夜まで不機嫌じゃなかったか。話しかけては口をへの字にして切り上げてを繰り返していた人が、何がどうしてこんなご機嫌な寝起きなのか。それに用件は。

まさかと思うけどおはようって、それが用件とは言わないよなと念を送ると、若様の無駄にいい声がこう言った。

「おはようって言ってくれ。ヘスター」

「はあ!?」

思わず無礼な声をあげたけど許されるはずだ。

寝ぼけるのも大概にしてほしい。単なる侍女がわりである私には、そんな甘ったるい儀式に付き合う義理はないんだ。

「~っ私は、既に何度も申し上げました!」

「あ、おい」

「もう遅いですからとりあえずお支度を済ませて執務室においでください!では!」

言い捨てるなり私は急いで廊下へ飛び出した。

触れたわけでも何を話したわけでもないというのに、どくどくと全身の脈がうるさい。

心臓の揺れに酔って倒れてしまいそうだ。

お陰さまでネット小説大賞の一次を通過いたしました。

ここまで続けてこられたのも一重に読んでくださる皆様の感想、アクセスに励まされてのことです。

ありがとうございます。


活動報告の方にも、小話を載せさせていただきましたので、よろしければご覧下さい。


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