転生者、もくもくもくもく
リリからもらった瓶を地面に叩きつけた。
ぱりんと微かな音がした。
その途端、割れた瓶からもわんと青白い煙がわき起こり、たちまち周囲に広がっていく。
1、
「何だ?!何しやがった!」
2、3、
煙のなかで襟首をつかみあげられながら、呼吸を止めてカウントした。
「お頭!?」
「ヘスター!」
若様の必死な声が遠くに聞こえる。
4、5、6、
気が遠くなってきたところで、私の首を押さえつけていた腕から力が抜け、背後でどさりと音がした。
7、8、
そのそばでも、ばたり、ばたりとゆっくりと敵が倒れていく。
「何が起きた?!」
9、10
私は返事をせずに、煙の中を走り抜けた。途中で誰かを踏みつけたけど気にする余裕はなかった。
もやが途切れて視界が開けた。はあっと大きく息を吸い込む。
「ヘスター!!」
声に呼ばれて振り向く。
見れば若様は、自分たちを拘束しようと近づいていた盗賊二人を落としているところだった。
「無事か?!」
大声で叫ぶ若様の前までまた走ってたどり着くと、私は急いで説明した。
「アレは、痺れ薬です。倒れた敵はあの煙を吸っているので一時間は動けません」
「は?!おい皆、煙を吸うな!」
それから味方は、私が投げた痺れ薬にやられることなく、武器を取り返して首尾良く残りの盗賊を捕縛していった。突然煙に巻かれリーダーも倒れて戦意喪失した彼らは、正規の警備隊の敵ではなかったようだ。煙は5分ほどで収まったので、倒れている盗賊達もそのまま拘束された。
ほっとしたら、どっと疲れた。でも、怪我をした人もまだ動き回っているんだから座れない。
しゃがみ込みたいのを堪えてなんとか両足で踏ん張っていた私は、よろめくほどの大声で呼ばれた。
「ヘスター・グレンっ!!」
全ての敵を捕らえ終えた若様が抜き身の剣を下げたまま、大股でこっちへ向かってくる。
…なにこれ。
いまさらまたぞくっと背中に悪寒が走った。
若様が、はっきりとした怒気をオーラのようにまとっている。明るい緑の瞳もメラメラと燃えるようで、ついさっき精霊かと見間違えたあの美貌で目も眉もつり上げて壮絶に怒っている。今ならあの盗賊の強面ですら、可愛く思える。
私は、心底逃げたいと思った。
そのとき、森の奥の方から、馬に乗った仲間の姿が現れた。
偵察に行って離れていた半数が戻ってきたんだ。ほっとしてそちらを見ていると、そのはるか後ろの最後尾に、意識のなさそうな人を抱えるように乗せたスタンフォードさんが現れた。
ぐったりとしたその人の髪が、木漏れ日を受けて金色に輝いた。
その長い金髪を見て、私は飛び上がった。
「クレアさん!あれ、クレアさんですよ!!」
喜んで駆け寄ろうとした私の手を、がしっと若様が掴んで引き留めた。
「ヘスター!お前自分がどんなに危ないことをしたのか分かってるのか?!死にかけたんだぞ!」
掴まれた。久々に感じる指の力に、内容以上に驚いた。
大丈夫だった。大丈夫だったのは嬉しい、良いことだ。でも、あれだけ接触に気をつけていた若様が私の手を掴んだのは、それだけ我を忘れているからであって、それは、どれほどの怒りなんだということで。
若様を見上げると、その顔は蒼白で、唇はかすかに震えていた。怒っている。相当、最大級に、怒っている。
「私たちが勝つのは時間の問題だった」
「え」
驚いて馬鹿みたいな声を上げた私に、若様は激しい口調のまま続ける。
「ロン達がすぐ側にいるのは分かっていたし、空話の呼び出し音で緊急事態だと伝えた。援軍が来るまで凌げばいいだけだったんだ。それを、お前は」
「すみません…!」
私のやったことって、必要なかったんだ。下手なことをしなくても、若様には勝つ算段があったんだ。そう思って心から謝った。
でも、若様はますます大きな声で怒鳴る。
「そういうことじゃない!どうして出てきたんだと言っている!」
「すみません…」
どうしてなんて、どうしてといったって。
「私はお前に安全な場所にいろといったはずだ!それを!」
どうして良いか分からなくなって、泣きたくなる。美形の怒りは怖さ倍増だけど、それ以上にこれがこの人の本気の怒り顔だってことが、怖いと思った。大きい声も強い力も怖いことは怖いけど、それよりも、若様に本気で嫌われたらと思うと。
「命令を聞けないなら、今後一切連れては出られない!」
とうとう目を瞑ってしまったとき、若様の声がやんだ。
「…マーカス、まず剣をしまえ」
ロンの声だ。
救いの手が入ったことで最後の力が抜けて、私は今度こそしゃがみ込んでしまった。
掴まれていた腕がゆっくりと、解放される。俯いて自分の腕を膝の中に抱きしめていると、若様がようやく剣を収めたのか、かちゃりという音がした。
ロンがため息をついて、近づいてくる。
「クレアを保護した。盗賊のものらしい馬に乗せられているのを見つけた」
「ああ…よくやった」
「ヘスターは彼女について小屋へ戻れ。いいな?マーカス」
「ああ」
「シールズ、チェスター、馬を引け」
「はい!」
「後の人間で捕縛した盗賊の引き渡しをする。マーカス、早く連絡を入れろ」
シールズさんに促されて立ちあがったとき、若様とロンはすでに背中を向けていた。
馬に乗って揺られながら、私はひたすら俯いていた。
「気になさることはないですよ」
「…いえ。若様もロンも、怒って当然です。邪魔をしたんですから…」
ロンのあの声は、怒っていた。あの場を収めてはくれたけど、あれは、最高に怒っているときの声だって、知ってる。
シールズさんが、優しい声で否定した。
「そうではないです。お2人とも、ヘスター嬢が心配だっただけです」
私も度肝を抜かれました、とシールズさんは笑った。
「すみません。本当は、捕まらないでこっそり後ろから、投げつけるつもりだったんです」
「なんにしろ、無事でよかった。ヘスター嬢が死にそうなめにあっていると、私たちも耐えられませんからね」
私は俯いて、涙を隠した。馬の上ではあまり意味のないことだったけど、察しのいいシールズさんはずっと振り返らずに歩いてくれた。




