転生者、おそるおそるとどける
その日は日付が変わるまでリリから聞いた情報をもとに動いていたので、翌日は遅くていいと言われた。
始業時間には執務室に向かったけど、もう二人とも出掛けた後だった。
もしかしたら、寝なかったのかもしれない。
郵便の整理や頼まれていた書類の清書をしてじりじりしながら待っていると、昼過ぎにようやく、若様から連絡が入った。人に会うために出ているが、夕方には帰るという。
「ああ、それから1つ。父と警備隊へ渡す書類を机に置いたまま出し忘れてしまったんだ。誰か捕まえて届けてもらってくれ」
はい、と答えると同時に通話が切れた。本当に、せっかちな人だ。
「行ってきますって言おうと思ったんだけど…」
行けないことを前提に話されていたことに、情けない気分になった。
諸々の事情でまだ行ったことはないけど、領主様の執務室も警備隊の詰め所もお城の中だ。それに一人だけのうのうと寝ていて今も手持ち無沙汰な私が、他の忙しい侍女さんに頼むのは気が引ける。若様は持ち前の過保護から頼めといってくれたんだろうけど、ここは自分で行くべきだろうし、手持ち無沙汰に過ごすよりは少しでも働いていたい。
もう、いろんなトラウマも、大丈夫だ。街に出ておとり捜査をすると言い張っていたのは誰だ、このくらい平気にしないといけない。
「…ヘスター・グレンさん、届けてくださーい。はい喜んでー」
謹んで承った私は、若様の机の上から目的の書類を掘り出しにかかった。事件以外の仕事も抱えている若様の机の上は、大抵山になっているから、崩さないように慎重に発掘して、部屋を出た。
領主様のお部屋は同じ階の突き当たりだから、すぐに着いた。少し緊張したけど、出てきた侍従さんは見覚えのある人で、受け渡しはスムーズに終わった。
警備隊へ行くには、1階へ下りて反対側の棟へ渡らないといけない。
階段を下りて公共スペースとの境に立ちどまったとき、思わずごくりと唾を飲んでいた。
倒れて以来、たくさんの人が行き来する正面玄関ロビーを通ることすら久しぶりだった。平気になっていたはずの人ごみが、怖い気がしてくる。本当はその大部分を占めるのが男の人だからかもしれないとは考えないようにした。
警備隊の詰所は一階にある。回りを見ないようにまっすぐ進んで、もう少しで突き当たるというところで、そこから出てきた人とぶつかりかけた。
びっくりして飛びのく。
身体が触れかけた瞬間に上げかけた悲鳴は、必死で飲み込んだ。
「あ、ヘスター嬢じゃないですか。もう歩いて大丈夫なんですか」
「え?あの」
私を知っている。赤茶の短髪を逆立てた40がらみの男の人だ。がっしりしているけど、あまり背が高くないのと笑った目尻にシワがあるのとで、威圧感はない。
私が戸惑っていることに気付いたのか、彼は少し改まった感じでこう言った。
「俺は第2隊のスタンフォードと言います。先日は、警護についていながらお守りできず、申し訳ありませんでした」
あ、この人が例の、あの日内緒でついてくれていた人なんだ。
「こちらこそ、ご迷惑をおかけしました。改めまして、ヘスター·グレンです」
お辞儀をした私ににこにことまた笑って、スタンフォードさんは言った。
「仕事に復帰していたんですね。今日はどちらへ?」
「あ、この書類を第2隊のかたへ渡しに来たのです」
「そうでしたか。…ここにいると、ダドリー伯の一派に鉢合わせするかもしれません。此方へ」
すっと声を潜めて言われた。
不思議に思ったけど、ダドリーには会いたくないから、言われたとおり開けっ放しで固定された扉をくぐる。
中はパーティションで見えなかった。がやがやと忙しげに人の動く気配がする。
「第2隊の詰所です。伯の仲間は私達のところへは来ませんからご安心を」
私は、スタンフォードさんがダドリーを隊長と呼ばないことに気付いた。
それにしても、警備隊のみんなが知るほど、私がダドリー伯に目をつけられていることは有名なんだろうか。
「…やっぱり私、まだ嫌われているんですね」
どっちかというともう、娘さんから叩かれたり毒をもらったり、ダドリー伯には貸しがあると思うんだけど。
スタンフォードさんは苦笑した。
「嫌われているというか、まあ…ヘスター嬢は核ですし」
「核?」
首を傾げた私に、彼は慌てたように両手を振った。
「いえ、まあ。それを抜きにしても、この書類は、本来ダドリー伯を通して協力申請するものなんです。それを今は、あちらが失態で謹慎しているため、マーカス様から一足跳びに第2隊へ指示している状態ですから、ダドリー伯派には見られない方が穏便なんですよ」
何か焦った様子のスタンフォードさんは、早口に説明してしきりに頷いている。
私は知らなかった警備隊事情になるほどと頷いた。ダドリー伯が娘の事件で謹慎したのは捜査のためにはありがたいけど、私には言いにくいことだったんだろうなと。
「そういう訳ですから、落ち着くまではこちらに来ない方がいいですよ。マーカス様、そう仰いませんでしたか?」
そうか、『失態』の元凶も私といえば私だし、余計に腹のたつ相手だよね。何かしてくることはなくても、嫌味くらいは言われそう。誰かに頼めって、そういう意味でもあったんだ。
「すみません、急ぎのようだったので、自分で来てしまったんです。スタンフォードさんに会えて助かりました」
にっこりと笑ったスタンフォードさんはそれから受け取りの手続きをして、東の棟まで送ってくれた。
戻って来ると、階段近くでロンが報告を受けていた。
「怪しい空き物件はこの地区にも見つかりませんでした。仰せの通り宿の宿泊記録も確認していますが、長逗留の客自体無しです」
「そうか。2人連れで確認する前に当たっていた宿を、再度調べるように伝達してくれ」
「はい、すでに動いています。ロン様はまたお一人で行かれたんですか?」
「ああ。なるべく目立ちたくない。ご苦労だったな、シールズ。下がっていいぞ」
敬礼して去っていく褐色の髪の男の人とすれ違う。お互いぺこりと会釈をして。
見知らぬ異性だったせいか、ロンが大丈夫かと聞いてきた。
「このくらいの距離なら、もう平気です。今第2隊へおつかいにも行ってきましたし」
ロンの片眉が上がる。
「マーカスがお前を行かせたのか?」
「いえ、でもちょうど第2隊の方に会えたのでよかったです」
「それなら、いいが…急な連絡が入るかも知れないし、出来るだけ執務室にいろ」
「はい」
ロンに続いて執務室に入る。
「あ、お茶になさいますか?サンドイッチでもお出ししようかと料理長が言っていましたが」
「飲み物だけ頼む。サンドイッチは最近飽きるほど食べているから」
そう言って、灰色の帽子を脱いだ。
片手にだぼっとした上着やマフラーを持っているから、今日も自ら聞き込みをしていたんだろう。寒空の中歩き回ったのか、耳が赤くなっている。
私は壁際のお茶道具の所に行って、急いでお茶を用意する。謎の技術によっていつでもお湯を飲める保温ポットは便利だけど、やっぱり沸かしたてとはいかないから、紅茶じゃなくてぬるいお湯でいい緑茶にした。そうして煎れたお茶を、ロンの前に置いた。
「コーヒーや紅茶は飽きるほど外でお飲みでしょう」
ロンは私が入れた緑色のそれをじっと眺めてから、一口飲んだ。
形のいい唇からほうっと吐息が漏れるのを、何となく見ていると、ロンが言った。
「期待しているところ悪いが、進展なしだ。今日訪ねた薬師は、6件ともカグの根をここ数ヶ月売っていなかった」
何か分かればすぐ連絡すると言っていたから、それは分かっていたし、そういう意味で見ていたんじゃないけど。進展が無かったからって、寒い中かけずり回ってきた人に、温かいお城の中で待っているだけの私が文句を言うわけがないのに。
「お疲れ様です」
とりあえずそう伝えた。でも、素直な声ではなかったからか、ロンはかすかに眉を下げて苦笑した。
珍しい表情を見て、私は少し気詰まりに感じた。
それでもう自分の席に戻ろうと思ったんだけど、そこへロンが声をかけてきた。
「逃亡中に手軽に済ますとして、お前、何を食べる?」
何気ない質問に、私は思いついたまま答えた。
「…おにぎりでしょうか」
パンも肉まんも好きだけど、そう答えたのは、以前に黒猫屋が日本人のソールフードを求めてエセル領にたどり着いたと言っていたことを、ぼんやり思い浮かべていたせいかもしれない。
ロンはそうかとだけ言って立ちあがった。
「うまかった。少しまた出る」
「え?これからですか」
バーンに行って戻るころには日が暮れているだろう。
「就業時間には間に合わないと思う。マーカスにはさっき言ったことを報告してくれ」
灰色の帽子を被ったロンは、そのまま出て行った。
ここまできて、ヘスターが警備隊に足を踏み入れるのが実は初めてだったことを確認し、改めて驚きました。ヘスターの引きこもりと若様の過保護、恐るべしです。




