第52話:獣の軍隊
玉座の間に重苦しい沈黙が落ちた後、エルヴァンは冷ややかに口を開いた。
「……ゼクス。お前に新たな任を与える」
ゼクスは即座に頭を垂れる。
「陛下の御心のままに」
エルヴァンは玉座の肘掛けを強く握り、声を低くした。
「薬物で強化した騎士団を率い黒の軍勢を討て。既に各地の錬金術師どもに命じてあるはずだ。あの兵たちは常人の数倍の力を持ち、死を恐れぬ。黒き獣どもにふさわしい相手となろう」
「……御意」
ゼクスは薄く笑い静かに頭を垂れた。その目の奥で冷たい光が揺れ、すでに準備が整っていることを示していた。
王は続けて、誰にともなく呟くように言葉を重ねる。
「黒の軍団を正面から押し返すのは時間稼ぎにすぎん……だがよい。その間に、私は神の軍を整える。真に人を導くのは剣でも槍でもない、神威そのものだ」
王の決意は同時に王都に新たな惨劇を呼び込む兆しでもあった。
王都リグゼリアの地下深く――
湿った石壁に囲まれた広大な実験施設。かつては古代の墓所だった場所を転用し、今は異臭と呻き声に満ちていた。
松明の炎に照らされ、数十名の兵士が鉄枷に繋がれて並んでいる。彼らは志願兵ではない。罪人、債務者、そして王命で徴発された民衆。選ばれたのは、生きる価値を見捨てられた者たちだった。
「……実に、素晴らしい」
ゼクスは黒衣の外套を翻し、冷たい笑みを浮かべる。
兵士の体へと注ぎ込まれているのは、錬金術師が調合した薬液――血を黒く染める禁忌の薬物だった。
一人の兵士が断末魔のような叫びを上げ、全身の血管が赤黒く浮き出る。筋肉が異常に膨張し、瞳孔は白濁し、理性の光が消えていった。
「た、助け……殺してくれ……!」
隣の兵士が震え声で懇願する。だが次の瞬間、彼の胸は薬物で暴走した仲間の拳に貫かれていた。血飛沫が壁を染める。
錬金術師たちは動じることなく筆記を続け、震える書記官が報告を読み上げる。
「被験体第十二号、発作後の筋力比は通常の五倍。思考能力は壊滅状態」
ゼクスは顎に手を当て、静かに頷く。
「理性など要らぬ。戦場に必要なのは命を捨てて敵を喰らう獣だ」
さらに奥では、すでに成功例とされた者たちが鉄格子の中で鎖に繋がれていた。
彼らは既に人の声を失い、低いうなりを漏らす。
だが、その目には狂気と殺意だけが宿っている。
「――これでいい」
ゼクスの声は低く冷たかった。
実験場に響くのは、鉄格子を打ち破らんと暴れる強化兵の咆哮。
その咆哮は、まるで地獄から蘇った亡者の嘶きのようだった。
黒の軍勢の拠点――。
夜の冷気が満ちる石造りの広間で、揺れる松明の明かりが二人の影を長く伸ばしていた。
カインは椅子に腰掛け鋭い眼差しで地図を睨んでいる。視線の先にはセレファリア王国を中心にした戦略図。街道や要塞の位置、補給路までが書き込まれ、赤い印で包囲網の予想が示されていた。
アリアはその横に立ち、腕を組んで問いかける。
「……次はいよいよ、王都を攻めるのね」
カインは静かに目を閉じ、吐息と共に言葉を返す。
「ああ。もう我々を邪魔する国はない」
「王は追い詰められているはずよ。私たちの軍勢が王都を脅かせば、民衆は恐れ、内側から瓦解していく。今こそ一気に攻め落とすべき時だわ」
「……それでも気がかりなのはゼクスという男よ。あの男が裏で兵士を強化しているという噂も耳にしたけれど……まさか本当なの?」
カインの瞳が鋭く光を帯びる。
「否定はできん。むしろ事実だろう。ゼクスは王に代わって穢れを担う存在だ。今頃、王都の地下で人を獣に変える実験を繰り返しているに違いない」
アリアは吐き捨てるように言った。
「そんな兵が戦場に放たれたら……ただの虐殺よ」
カインは黙って立ち上がり、王都の方角を示す地図に手を置く。
「だからこそ、急く必要はない。奴らが強化兵を繰り出すなら、それを迎え撃ち、その正体を暴く。それが、次に我らが為すべきことだ」
アリアはしばらく黙って彼を見つめ、やがて唇を結んで頷いた。
「分かったわ。けれど……覚悟しておいて。戦場に現れるのは人ではないものよ」
広間に再び沈黙が落ちた。
やがてカインは静かに応じる。
「人であろうと獣であろうと、敵に変わりはない」
その言葉は、自らに言い聞かせるような響きを帯びていた。
カインの瞳が細められ、過去の光景が脳裏をよぎる。
自分が陥れられ、全てを失ったあの時――その裏にゼクスが関わっていたのは間違いない。
「……ゼクス。貴様だけは決して生かしてはおかない」
低く吐き捨てるように呟く。
「どんな策を弄しようが、どんな汚い手を使おうが構わん。必ず返り討ちにしてやる」
その声には、冷徹な誓いと鋼の決意が込められていた。




