第35話:粛清の出撃
王宮・謁見の間――
重々しい静寂の中、エルヴァンは玉座に腰掛け、片手で葡萄酒の杯を弄んでいた。
その赤い液体は、まるで誰かの血のようにゆらゆらと揺れている。
やがて、扉が静かに開き、一人の男が現れた。
騎士団の情報担当ゼクス。
「お呼びでしょうか、陛下」
「来たか、ゼクス。手際の良さは相変わらずだな」
王は冷笑を浮かべ、杯を置いた。
「グラディア帝国に、密偵を送り込め。
黒の軍勢の拠点、あるいは兵站の流れ……奴らの心臓を見つけろ」
ゼクスは即座に頷いた。
「承知いたしました。潜伏ルートは既に確保済み。
闇市の商隊に紛れさせた者が、三日以内に現地へ到達するはずです」
「よろしい」
エルヴァンは立ち上がり、ゼクスに歩み寄る。
「騎士団の出撃は目を引くには丁度いい。
流石のカインもかつての仲間たちとの戦闘は躊躇するはず」
「……そして、その間に本命を探るというわけですか」
「ああ」
エルヴァンの目が妖しく光る。
「カインは甘すぎる。民を守る? 無益な殺しはしない?
だからこそ潜入は容易だ。奴の甘さを逆手に取るまでよ」
ゼクスの口元がわずかに歪む。
「それとグラディアへの派兵にあたって、騎士団から余計な情を持つ者を同行させろ」
ゼクスが目を細める。
「余計な情……カインに対する、ですか」
「ああ。口では忠誠を誓いながら、心の底であの裏切り者に義を見ている輩もいるだろう」
エルヴァンの声には、冷たい硝子のような響きがあった。
「……ならば、今が好機だ。戦場に放て。真意を現すならそれまで、
裏切るならその場で処分してよい。敵よりも内の腐敗をまず削げ」
「……なるほど、浄化を兼ねた討伐戦ですか」
ゼクスは薄く笑う。
「カインに会うのを名目で参加したがっていた者たちが何人かいます。
そいつらを中心に軍を構成させます」
エルヴァンが椅子の肘掛けに指を乗せ、ゆっくりと叩く。
「不穏分子は一掃して構わん。
騎士団など所詮は道具。正義を語る剣など、私には必要ない」
「では、騎士団の再編成案もご用意いたしましょう。
……忠義より命令、信念より勝利を重んじる兵ばかりを揃えて」
「そうだ。それこそが王国の軍だ」
その言葉に迷いはなく、傲慢でもなければ狂気でもなかった。
王エルヴァンにとって、騎士とは刃。それ以上でも、それ以下でもない。
騎士団長ロイの足取りは重かった。手には国王エルヴァン直筆の命令書。
執務室に戻ったロイは、命令書を再度読み返す。
「選ばれているのは……」
カインと縁の深かった者たち。あまりにも意図的すぎる人選だった。忠義と過去を天秤にかけるような布陣。王の目論見は明白だった。
(討伐の名を借りた粛清か。裏切れば処刑、逆らえば反逆者)
「……ふざけるな……!」
ロイは思わず拳で机を叩いた。
その手のひらには、未だ癒えぬ悔恨の痕が刻まれている
ガレスが槍を磨きながら命令書を見ていた。
「くだらねぇ……」
名簿に並ぶ者たちの顔ぶれに、わずかに眉をひそめる。
一度剣を向けた後悔。あの時、最後まで抗おうとした自分が
今の自分の中にいるのか。
粛清部隊長として、数多の処刑命令を受けてきた。
その手を血で染めるたびに、騎士という言葉が霞んでいった
「戦えばいいんだろ。もうおれに騎士としての誇りなんてない……」
立ち上がったガレスの背には、かつてと変わらぬ重厚な槍があった。
そして、騎士団本部の戦略室にて
「これより、王命によりグラディア帝国へ援軍として出陣する」
ロイが告げると、重苦しい沈黙が部屋に満ちた。
だがその中で、誰も口を開こうとはしなかった。
(わかっている。誰もが疑問を持っている。この命令の“裏”を……)
それでも誰かが動かなければ、何も変わらない。
ロイは目を閉じ、一人ひとりの顔を見渡す。
「剣を抜け。だがその刃の行き先を、見失うな。――それが、俺たち騎士の最後の誇りだ」
王都の外れ、密偵拠点の塔。
騎士団の出陣を遠目に眺めながら、ゼクスは窓辺に背を預け、杯の酒を揺らした。
「……まったく。よく行くな、あんな戦場に」
朝日を浴びて輝く戦列。
かつての仲間――ロイ、ミリアム、フィリア、ガレスたちが進んでいく。
だがゼクスはただ、冷ややかに笑った。
「忠義、正義、理想……どれも美しいが、死んでしまっては意味がない」
酒をひと口含み、窓辺に背を向ける。
「俺は情報という剣を握っている。
わざわざ刃を交わす真似など、今さら御免だ」
彼は卓上の報告書に目を落とす。
グラディア帝国への密偵配備は順調に進み、数日以内には黒の軍勢の動きも掴める。
「騎士団はいい目くらましになる。カインが一般人に手を出せない優しさを持ってるのは、こちらとしては実に都合がいい」
彼は小さく笑い、椅子にもたれた。
「それに、騎士団の中には俺を恨んでる者も多い。
この戦いで処分すれば……騎士団の再編もやりやすくなるってものだ」
剣も汗も血も不要。
ゼクスにとって、戦場とは「遠くから操作するもの」でしかなかった。
「後方から安全に、勝者の椅子を狙う。それが生き残る者のやり方ってもんだ」
杯の酒が空になったとき、彼はふっと窓の外を見上げる。
騎士団の背中が、もう遠ざかっていた。
「……さて、駒たちよ。お前たちの命運がどう転がるか、楽しみにさせてもらおうか」




