第10話:封じられた存在
目を開けた瞬間、空が灰色に染まっていた。
地平は黒くひび割れ、枯れた風が血の匂いを運んでくる。
世界の色が、失われている。
カインは息を吸い込み、静かに身を起こした。
(……ここは……)
処刑台の縄、爆音、消失の瞬間――
すべてが夢だったかのように遠い。
そして、彼の前に“彼女”は現れた。
まるで霧のように、輪郭もなく立ち上る黒のヴェール。
やがてそれは、ひとりの美女の姿を成す。
漆黒の長髪、琥珀の瞳、透き通るような白い肌。
だがその瞳は、まるで千年の孤独を湛えたように、冷たく美しい。
「……目覚めたのね、怒りの騎士」
その視線に射抜かれた瞬間、体がわずかに凍りついた。
(……ただの女じゃない。これは……)
彼女は薄く微笑み、ゆっくりと近づいてくる。
「私は〈アリア〉。
魔と人の間に生まれ、双方から拒まれ、ここに封じられた“存在”」
「お前の憎しみが、私の封印を揺らした。
お前の絶望が、私の眠りを破った」
風が舞う。
彼女の黒髪が揺れるたび、周囲の空間がかすかに軋む。
カインは低く問う。
「……俺を、ここへ連れてきたのは……お前か?」
リリュシアは頷く。
「そうよ。あなたの心が私を呼んだの。
私はただ、それに応えただけ」
「絶望の深淵に落ちる者の魂は、とても純粋。
裏切られた英雄ほど、美しい闇に染まる」
彼女はその名を、愛しむように呼んだ。
「もしあなたが、世界を恨むのなら。
私がその手を取る。あなたに力を与える。
そして、あなたを暗黒騎士として目覚めさせる」
「……」
カインの胸の奥に、疼くものがあった。
セリスの笑顔。
騎士団の背中。
王のあざ笑う顔。
そして、首にかかった縄の感触。
(……俺は……死んだはずだった)
(それでも生きている。生きてしまった)
拳を握る。
「……力があるなら、見せてみろ」
アリアの唇が、微かに笑う。
「ならば契約を――《黒の抱擁》を受け入れて」
「その代わり、あなたは人としての道を完全に捨てることになる。
それでも……いいの?」
カインの目がゆっくりと上がる。
「構わない。……もう、“戻る場所”なんてない」
「ならば、始めましょう。
契約を――」
二人を包む空間が、黒く渦巻いた。
黒い石壁に囲まれた静寂な空間。
中心には、血のように赤く脈打つ“契約の繭”が浮かんでいた。
カインはその繭の中でじっと立ちつくしていた。
「……すぐに終わるわけじゃないのか?」
アリアが顔を上げ、静かに頷いた。
「あなたの魂と私の力を繋ぐには、少し“馴染ませる”時間が必要なの。
そのまま力を流し込めば、壊れてしまうわ」
カインは少しだけ目を細めた。
「壊れる……か。そうなった方が楽かもしれないな」
アリアの表情がわずかに曇る。
「あなたは、どんな絶望を味わったの?良かったら話してみない」
しばらくの沈黙。
カインがぽつりと口を開いた。
「俺は、王の騎士だった。
民を守り、仲間と戦い、信じたものを疑わなかった。
でも最後は――すべてに裏切られた」
「王に捨てられ、民に罵られ、仲間は沈黙し、
信じた女は“王の隣”に立っていた」
アリアは黙ってそれを聞いていた。
だがその瞳の奥には、静かな痛みが浮かんでいた。
「あなたは、まだ“信じたかった”のね。
たとえ裏切られても、信じたものが嘘じゃなかったって、どこかで思いたかった」
カインは返さない。
アリアがゆっくりと歩み寄り、カインの前で立ち止まる。
「私も同じよ。
人に生まれて人に拒まれ、魔に救いを求めたけど魔にも捨てられた」
「私の居場所は、最初からどこにもなかった」
カインは、初めてアリアの瞳を真正面から見た。
その中には、虚無の光が宿っていた。
「だから私は、あなたを見ていられなかった。
“同じ匂い”を感じたから、目覚めたの」
再び、沈黙。
だがそれは、苦痛ではない。
互いの孤独が、ただ静かに触れ合うような沈黙だった。
「……奇妙なもんだな」
「何が?」
「お前と話してると、死んだほうがマシだった俺が、少しだけ……“まだ先があるかも”って思う」
アリアの唇に、わずかな笑みが浮かんだ。
「それが“契約”ってものよ。
一人じゃ耐えられないものを、誰かと分け合うの」
アリアはゆっくりと視線を落とし、己の掌を見つめた。
「私も……かつては一人で背負おうとした。
でも耐えきれなかった。 怒りも悲しみも、全部、自分の中で膨らんで……気づけば、誰にも手が届かない場所にいた」
彼女の声は、今にも消えそうなほど静かだった。
それがかえって、何よりも真実味を持っていた。
アリアがそっと、カインの手に触れた。
指先が、ほんの少し重なるだけ。
それだけなのに、心の奥に温度の波紋が広がった気がした。
「この契約は、力を与えるだけじゃない。
あなたが“戻る場所”をすべて失ったというのなら……
ここを、“始まりの場所”にしてもいい」
カインはその手を、拒まなかった。
むしろ――わずかに握り返した。
「……こんな場所で始まるなんて、皮肉だな」
アリアは微笑した。
「世界はいつだって皮肉でできてるわ」
そのとき、空気がわずかに震え、繭が再び脈動を始めた。
黒い氣が、ゆっくりと二人を包み始める。
契約の刻は、もう遠くない。
やがて訪れる闇の胎動が、静かに世界の底で目を覚まそうとしていた。




