1. その美女、男ですが
「ノエーミ、婚約は解消する。君は裏方がお似合いだ」
婚約者がひざまずいたのは、私ではなく、私の隣の美女だった。
慈善劇の幕が下りて半刻。王都施療院の中庭には夜風に吊り灯りが揺れ、夜会のお客様が四十人、杯を手にこちらを見ている。
ほんの一瞬前、婚約者のオスヴァルド様は私の肩を脇へ押しのけた。小柄な私はよろけ、鉛筆を挿したまとめ髪がぐらりと揺れる。踏みとどまった靴の下で、湿った芝が冷たい。
胸の大輪の薔薇を揺らし、彼は小指から抜いた侯爵家の指輪を、美女へ差し出す。
「このように可憐な女性こそ、僕の妻にふさわしい」
私、ノエーミは扇で口元を隠した。笑ってはいけない。
つい先ほど慈善劇の姫役を終えたその人は、侍女ではない。二十四歳の護衛騎士、イヴァーノである。
開演の一刻前、姫役の娘が熱を出した。姫の台詞を一行残らず覚えていたのは、三年間、私の一歩後ろで稽古を全部聞いてきた彼だけ。
仕立屋のヘスターは早替えのためにドレスを彼の体へ縫い付け、鋏ごと料理の卓へ消えている。それでも彼は、裾を踏まないようにして、いつもどおり私の一歩後ろに立った。
紹介しかけた私の声は、〈君の新しい侍女か〉の一言で、あっさり切られている。
この人は三年間、慈善劇を一度も観ず、私の一歩後ろの顔を一度も見なかった。夏至祭まであと四十日。その段取りも、ぜんぶ私の頭の中にあるのに。誰かが裏にいなければ、幕だって上がらないのに。
扇の骨が、手の中でみしりと鳴った。指の先まで熱い。力を抜いたつもりなのに、親指だけが震えている。
段取り、その一。笑わない。その二。泣かない。その三。怒るのは、夜会が終わってから。扇の陰で、細く息を吐く。
「侍女の一人くらい、譲ってくれるだろう?」
「婚約の解消は、承りました。ですが、そこは譲りません。この方のお返事は、この方ご自身のお口から」
オスヴァルド様は片膝をついたまま、私へ指輪を見せつけた。指輪ばかりが、妙に愛想よく光っている。
「返事を急がせるな。こういう女性は慎ましいものだ。君のように、裏方へ指図して回る女とは違う」
「でしたら、お声を伺うまで、皆様でお待ちいたしましょう。舞台のお返事には台本がございますが、この方のお返事には、ございません」
「待つまでもない。この人は、僕を選ぶに決まっている!」
後ろのお客様が杯を下ろす。杯の触れ合う音がやみ、最前の子どもたちまで、息をつめて姫の返事を待っていた。
私が代わりに決めていいことじゃない。三年間、黙って一歩後ろにいてくれた人の言葉なら、なおさら。私まで、この人の声を遮りたくない。
「では、可憐な人。君の返事を」
「男ですが」
夜会が、凍りついた。
舞台の上の澄んだ姫の声とはまるで違う、いつもの低い声。侯爵家の指輪だけが、行き場をなくして宙に浮いている。
「……今、殿方のお声がしなかった?」
後ろの婦人のささやきが、静まり返った中庭をすうっと通る。
「では――」
「お断りです」
かつらを外した彼は、いつもの低い声で続けた。
栗色の長い巻き毛が、手から重たげに垂れる。灯りの下に、淡い金の短髪と瑠璃色の目が現れ、その目がまっすぐ私を捉える。
「では、ノエーミ様との婚約は解消ですね。僕はノエーミ様に、求婚したいのですが」
笑えなくなったのは、私のほうだった。
えっ。どういうこと?! ノエーミ? 待って、私のこと?!
求婚。私に。この、ドレスの人が。ほわぁぁぁ!
頭の中の段取り表が、真っ白になる。指輪を握る人より、指輪を持たない人の顔のほうが、ずっと見られない。目が合ったら、何かが決まってしまいそうで。
どこかで杯が鳴って、私は扇を閉じた。足の裏で芝の感触を確かめる。夜会はまだ終わっていない。まず、この場の段取りだ。
「オ、オスヴァルド様……。あなたの恋のお相手は、わ、t私に求婚するそうですよ」
一拍おいて、中庭が笑いに沸いた。
「侍女だと思ったら騎士様で、しかもその騎士様が求婚なさるなんて!」
最前の子どもが、ドレスの騎士をまっすぐ指さす。
「おひめさま、おうじさまだったー!」
隣の子も背伸びして、負けじと声を上げる。
「おうじさま、もういっかい、おひめさまやってー!」
子どもたちの声に、また笑いが起きた。今度の笑いは、夜風まで温めるみたいだ。
「な、何を笑う! 僕は、この女が君の侍女だと――」
「この方は三年前から、私の一歩後ろで、私を守ってくださっている方です」
「まあ。三年もお連れの護衛騎士に、侍女と思って求婚なさったの?」
「ご、護衛の顔など、いちいち見るものか!」
別の卓の老紳士が、杯を置いて穏やかに首をかしげた。
「……それこそ、見ておかれたほうがよろしかったのでは?」
オスヴァルド様の目は、指輪と私のあいだを行き来するばかりで、騎士の顔には止まらない。指輪を差し出す相手は、もういない。
立ち上がった拍子に、胸の大輪の薔薇が芝生へ落ちた。彼は指輪を握り、何か言いかける。けれど誰の目も見ず、そのまま門へ向かった。
施療院を長く支えてくださる老伯爵夫人が、扇の陰で私へ目を細める。
「今年の慈善劇は、幕のあとがいちばん面白かったわね」
「お騒がせいたしました。皆様、お料理が冷めないうちに、どうぞお召し上がりください」
「ええ、いただきましょう。ノエーミさん、今夜はあなたも、幕の外で見られる側なのね」
「……見られる側は、段取りに入っておりませんでした」
「なら、これから入れなさいな」
夫人の肩が、扇の向こうで小さく揺れた。隠しきれていない笑いに、私の肩からも少し力が抜ける。
「……はい。来年の段取り表には、忘れずに書いておきます」
子どもたちが料理の卓へ駆けだし、焼き菓子の甘い匂いの中に笑い声が戻る。よし。夜会の段取りは、まだ戻せる。
◇
衣装の箱が並ぶ楽屋には、白粉と古い布の匂いが残っていた。戸を閉めても、中庭の笑い声が薄い板をくぐってくる。
ヘスターが首にかけた巻き尺を揺らし、飴をかじりながら戻ってくる。鋏は帯に差したまま。そこにあるなら、真っ先にそれを使ってほしい。
「どちらがお姫様でも、お似合いよ」
「笑いごとじゃないの、ヘスター。糸、切って」
「やあよ。今夜は、そのままがいちばん綺麗だもの」
「僕は、このままでも護衛はできます」
「できるかどうかの話じゃないの!」
ヘスターが騎士の裾を持ち上げて見とれるので、私の扇の先がその手を追いかけた。肝心の鋏には、ちっとも手が伸びない。
「似合うかどうかの相談は終わり! 着替える段取りだけでいいの! このままじゃ、この人、明日の朝もドレスで護衛に来るわよ!」
「あら、来るかもね。お姫様は困ってないもの。あたしの鋏より、あんたの扇のほうが忙しいじゃない」
「来させないでよ!」
「はははっ。明日は、騎士服で参ります」
そう言ったきり、イヴァーノは縫い目を引っ張りもせず、じっと待っている。その律儀さに、今は私ばかりが落ち着かない。
「……イヴァーノ。さっきのは、夜会を収めるためのお芝居でしょ?」
「芝居の台詞は、幕と一緒に終わりました」
「じゃあ、さっきのは誰の台詞なの?」
「僕のです」
「……そういうことを、そんな真顔で言わないで」
私は衣装の箱へ、扇を置いた。留め金に触れた指先が、やけに冷たい。
「姫の台詞は全部覚えてるのに、続きは私に任せるの? 私、幕を下ろす段取りしか用意してないんだから!」
「あら。段取りのない幕なんて、いちばん面白いのに」
彼はドレスの裾を丁寧に払い、私の前にひざまずいた。
いつもは見上げる瑠璃色の目が、今は私より低いところにある。扇を置かなければよかった。顔を隠すものが、何もない。見つめ返せずにいる私を、彼は黙って待っている。
「返事は、あなたの望む日に」
ヘスターが飴を噛む音だけが、楽屋に響いた。小さな音のあとが、こんなに静かだなんて。
三年分の段取りは頭に入っているのに、自分の返事の欄だけが、また真っ白だ。明日の私なら、今よりちゃんと息ができるはず。たぶん。
「……返事の段取りは、明日立てるから!」




