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この規定世界はモノクロだ。
良く言えば、完璧な秩序で構成された平和で穏やかな世界。
悪く言えば、代わり映えのしない味気ない世界。
人々が着る服や建築物すらも白と黒で作られており、統一された秩序に従って生きている。そのため犯罪者なんてものは殆どいないし、ましてや見かけることは稀だ。
もっとも、今日も空は青いし、血は赤く、夜は暗い。
——それが皆の共通認識であると、サツキは確信していた。
「ふわぁ……」
「よって、この式は賢者の公式によって成り立つ。ここまではいいか?」
授業を右から左へ聞き流しながら、サツキは窓の外を見る。
見渡す限りビルが立ち並び、そのどれもが白い。太陽の影になった場所だけが黒く、それが綺麗にコントラストを生み出していた。
その上に広がる青い空には雲一つない。サツキにとって青空は、退屈で窮屈な景色の中で唯一の癒やしだった。見えている世界は狭いのだ、という希望を抱かせてくれるからだ。
「——つまり、規定世界に存在する事象は賢者の公式を使えば証明が可能だ。中学の発展だから難しいとは思うが、大事だからノートは取っておくんだぞ」
チョークの音が心地よい。
じっと聞いていると、案外にも規則正しいリズムでないことが分かる。コツ、コツ……何かの足音のようだ、と思った瞬間、欠伸が喉の奥から湧き上がってきた。
「ぁ……はぁ」
ふと、窓の外にカラスが飛んでいることに気づいた。翼をはためかせ、風を切り、そして見えなくなっていく。
カラスは自由で羨ましい。ふと、サツキは思った。
カラスはどこへだって、その翼で飛んでいける。数多の世界を駆け巡った冒険者のサツキの親父もそうだ。「世界の外を見に行く」と言ったきり、もう五年も帰ってきていない。それでもサツキは信じている。きっと、翼はまだ折れていないのだと。
だが、サツキに翼はなかった。
——俺にも冒険できるだけの勇気と力があれば……。
そう願ったところで、サツキの無機質な人生は変わりはしない。今までがそうであったように、これからもそうなのだ。
……そうなるはず、だった。
「ん~? どこだろ……?」
だからこそ——秩序の象徴たる学校に、可憐な少女、もとい不審者が侵入していることが全く理解できなかった。
白い床と壁で無機質に彩られた高校の教室。
その廊下側の扉から、ひょこっと一人の少女が顔を覗かせていた。
少女は夜闇と見紛うほど深い藍色の大きなローブを纏っていて、その内側から覗く白いブラウスには、彼女の目の色と同じ碧いネクタイが重力に従いぶら下がっている。
膝丈でひらひらと波打つスカートは黒く、そこから伸びる少女の足は神が作ったかと思うほど細く白い。
幻想的で淡い極彩色の髪は腰ほどまであり、サラサラと肩から滑り落ちている。
サツキは、少女の服装を旅装のようだと感じた。僅かな汚れや質感が、旅をする者のそれだったからだ。
「ここ、テスト出るぞー」
眠い目をこすりつつ漠然と困惑するサツキをよそに、黒板に書いた文字を先生——スーツを着た男性がチョークで指す。それを聞いた生徒たちは、一斉にその部分をノートに書き、各々が綺麗にまとめ始める。
「……おい、サツキ。何ぼーっとしてるんだ? ペンが動いてないぞ」
「むむむ……? あの子、もしかして……?」
先生がサツキを叱っている間にも、青い不審者——この規定世界で色を持っていること自体怪しいのだが——は教室へ入り、窓側の後ろの席に座るサツキに近づいて来た。顎に手をやり、碧い瞳を凝らしながら観察している。
昼下がりの五限だからと、先程まで空を眺めながら居眠りしてしまいそうだったサツキの脳は次第に覚醒し、この状況をなんとか飲み込もうとしている。
不審者を見ては先生を見て……と視線を往復させるも、二人とも何の反応も示さない。
「あー、えっと……さーせん」
不服ではあるが、サツキは謝罪の言葉を口にした。
手を動かしていないことだけでなく、今週何度目かも分からない居眠りに対する謝罪も、少しばかり含まれていることに先生が気付かないのを祈りながら、だったが。
「全く……どうせ居眠りしてたんだろ? 次赤点取ったら留年なんだからしっかりな。それじゃ、続きやるぞ。この部分に関しては——」
そこまで言って、先生は視線を黒板に戻した。
ここで「そこに怪しい少女がいますよね!?」と声を荒げるのは、秩序そのものであるこの世界では簡単なことではない。
とはいえ、クラスメイトが何も言わないのは明らかにおかしい。
秩序でなければ、それは混沌だ。混沌が秩序を侵害すれば、皆は間違いなく先生にそれを伝える。
つまり、あの少女はサツキにだけ見えているのだ。
「——! やっぱり、この子かも……!」
相変わらず青い不審者は何か目的を持って動いている。机の側でしゃがんでサツキを見上げたり、真横から顔を覗き込んだりしては双眸を輝かせていた。
それほど近くにいると、香りが自ずと漂ってくる。だが、サツキはその匂いを表す言葉を知らなかった。冒険者である親父の如き荒々しい匂いでもなく、規定世界の清潔な無臭とも違う、安心するような匂いだった。
ますます疑念が胸中に積もっていく。少女が動いた隙に、目を細めて少女を観察する。すると、少女から漏れ出る虹色の光の揺らぎが見えた。
(マナ……つまり魔術が原因、か)
この世界には、マナという物質がある。酸素に火を付ければ燃えるように、詠唱という行為によってマナは魔術へと状態変化する。
彼女がそれなりに能力のある魔術師なら、認識阻害——他人の意識の外側に立つ魔術を使うことで、他者から見えないようにすることもできる。そうすれば不法侵入できていることも、皆が無視していることも辻褄が合う。
「……であるからして、マナ物理学においてマナは詠唱により光を通す性質を持つことができると言われている。例外はマナへの完全適応を果たした者だけであり、規定世界の大半の住民はマナの知覚や感知ができない」
サツキが混乱する間にも、授業は進んでいる。それを意識すると、いきなりチョークの小気味よい音が耳に満ちていく。気づけば黒板には、先ほどに比べ数倍の数の難解な数式と専門用語が並んでいた。一方、クラスメイトは真面目に授業を受けているのが横目に映っている。
「う~ん、本当にアレを持ってるのか分かんないなぁ。爽やかなイケメンではあるんだけど……」
面と向かって——相手は自分が見えていないと思っているが——こんな言葉をかけられたのは初めてだった。思わず身体が震え、身動ぎしそうになるのを気合で抑える。
ただ、どれほど考えても、なぜサツキにだけ見えているのかは分からなかった。
昔からマナを知覚できることが影響しているのか、あるいは他の理由なのか。教師が言う「マナへの完全適応」とやらをしたのか。あいにくサツキは判断する材料を持ち合わせていなかった。
久しぶりに「自分だけ違う」という孤独を感じたその時——授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。
「この続きは次回やります。級長挨拶よろしく」
「起立!」
先生がそう言うと、級長が声を上げ、クラスメイトたちは一斉に立ち上がった。
ザッ、と音が聞こえるほどに揃った動きは、高校生になるまでに仕込まれた芸だ。
「気をつけ、礼!」
「ありがとうございました」
号令が終わると、先生は手元のノートを片付け始めた。
これで今日の授業は終わり。
少し気を抜いたクラスメイトたちは、担任が戻って来るまでの間に帰る支度をしながら談笑を始めた。サツキもリュックに筆箱や教科書を入れ、身支度を済ませていく。
刹那——少女の身体を包んでいた虹色の光が消え、少女の残念そうな声が響いた。
「そろそろ魔術のタイムリミットかぁ……!」
——目の前を、青い影が走り去った。
それはわずかに開いていた教室の窓を流れるような手つきで開け、サツキの手を取ってそのまま身体を空中に投げる。
「えっ——うわあああああ!?」
「ごめんよ少年! 危なくないからじっとしててねっ!」
視界がいきなり青空で埋め尽くされ、サツキの意識は呆然とし、そして全身に強い風を浴びたことで引き戻された。
「なんか今青い影が走ってったよな!?」
「サツキくんが一緒に落ちてる……!!!」
「誰か治安局に通報して!」
正義感や好奇心の強い者が窓際に押し寄せ、サツキを見下ろしている。その距離がどんどんと遠ざかっている。
(地上四階の教室から飛び降りる人間なんか普通はいないけど、物理的に考えて人間の身体は落下の衝撃に耐えられない——よなぁ!?)
脳内で弾き出した答えに、サツキは思わず少女の手を強く握りしめた。
しかし、少女の顔に浮かんでいるのは恐怖ではなく笑顔だった。
「〈風よ、吹け〉!」
少女がそう叫ぶと、空中にいるにもかかわらず二人の身体がぐわんと浮き上がった。
そのままゆっくりと石畳の上に着地し、無事に生還を果たした。
「さっ、早く逃げよう。学校の秩序は特に強く維持されようとするだろうからね」
強風に当てられ、すぐ傍にあった花壇から白い花弁が舞い上がる中、少女はサツキの目を見て言った。その目の輝きが、どこか親父を想起させる。
「わ、わかった」
だから、なのだろうか。
未だに状況は飲み込めていないが、この退屈な日常を破壊してくれた存在に賭ける価値はある——なぜだかサツキにはそんな直感があった。手を振りほどく気など、微塵も湧かなかった。
「私たちの大冒険の始まりだー!」
「逃走劇の間違いだろ——うわぁ!?」
少女に強く握ったままの手を引かれ、学校の敷地から逃げ出すように走り去っていった。
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