素晴らしき人間たちよ エピローグ
地下深く、陽光の届かない世界、北海道に匹敵する程の広大な空間に吸血鬼達の世界があった。神羅郷と呼ばれる妖魔たちの世界の底に、マルベリーの故郷がある。
マルベリーは、地下世界で最も栄えている街の時計塔の天辺に立って見下ろしていた。陽光は届かないが暗闇ではない。吸血鬼達は好んでランプや松明を使う。太陽の光が苦手だが、闇一色の味気ない世界も嫌なのだ。街にもランプの街灯が幾つも設置され、辺り屋敷に鮮やかな緋色の彩りを加えていた。
マルベリーが見上げると、視線の先には巨大な城があった。幾千年も前からあるような、威厳漂う様相、そして遠く離れていても城から強烈な妖気が放たれているのを感じる。吸血鬼女王グローアの城だ。マルベリーは翼を広げると、まっすぐ城に向かって飛んで行った。マルベリーにはまだ分からない事がある、それを知る為に女王に会う必要があった。
城の侍女はマルベリーを簡単に受け入れ、女王の元まで案内までしてくれた。女王グローアは寛大で、訪れる者は拒まない。ただ、余りにも強烈な存在感と戦慄的な妖気のせいで、並みの精神では見ただけで気が狂ってしまう。だから女王に会いに来る者など滅多にいなかった。
「こちらでございます」
黒髪をポニーテルにした侍女がマルベリーを巨大な鉄の扉の前まで案内し、それから手を返して扉を指示した。侍女は中に入る気はないらしく、態度でご自由にお入りくださいと言っていた。
普通の人間では到底動かせない重い鉄の扉を、マリベリーは片手で押し開ける。扉が少し開いた瞬間に、城を駆け抜ける空気の胎動と共に凄まじい妖気が吹きつけてきた。マルベリーは少し顔をしかめつつ、更に扉を押し開けて中に入った。
扉から血色の絨毯が長い道を作り、その先にある玉座に女王グローアは頬杖をついて座っていた。マルベリーは緊張し、一度大きく息を吐いてから歩き出した。一歩ずつ女王に近づいていく。それからマルベリーが目の前まで来ると、女王は微笑した。金糸のように輝く髪、白雪のような肌、見た目はせいぜい二十代後半だが、二千年生きている吸血鬼である。その余りにも整端な容姿から放たれる微笑にマルベリーは息を飲んだ。女王の一挙一動がマルベリーに畏怖を与えた。
「変わったな」
「なに?」
「変わったと言ったのだ。少し前のお前とはまったく違っている。人間の世界で得るものがあったようだな」
少し沈黙があった。女王は頬杖をついたまま微笑を浮べ、マルベリーの言葉を待っていた。
「お母様の言っていた言葉の意味は理解できたと思う。人間には、吸血鬼にとっての救いがある。それはきっと、人間が吸血鬼よりも優れた部分の事を言いている」
「人間に吸血鬼よりも優れた部分があると言うのか?」
吸血鬼女王は全てを知ったうえで質問していた。マルベリーの心を見るためだ。マルベリー自身もそれは分かっていた。
「ある、それは」
マルベリーは手で自分の胸を押さえてから言った。
「心だ、精神性だ、人間は何の得もないのに他人を助けたりする。最初は愚かな行為だと思ったが、人間と共に生活している内にそれは違うと分かった。わたし自身も友を助ける為に戦った、それで分かった、吸血鬼にとっての救いとは、他人の為に何かを成そうとする心なのだと」
それを聞いた吸血鬼女王は満足気に何度か頷いていた。
「わたしは弱者を助けるお母様を嫌っていた。本当に、心の底から恥ずべき母親だと思っていた。でも、今は違う、お母様を心の底から尊敬し、誇りに思っている」
「よく言ったマルベリー、わたしも同じ気持ちだ。ワーシリカは良き友であった。亡くなってしまった事は残念だが、わたしは彼女の死を祝福している。ワーシリカは死によって救われたのだ」
「救われたとはどう言う事なのですか? 貴方が言っていた、吸血鬼が人間の成れの果てという言葉と関係あるのか? そこのところがまだ分からない」
「それを聞く為にここに来たのか。人間の事をそこまで理解できていれば、殆ど答えに辿りついたようなものだ」
「何となくは理解できるのですが、真理には到達していない」
「教えてやろう。これは普通の吸血鬼ではとうてい理解できぬ話だが、今のお前なら分かるはずだ」
吸血鬼女王は一呼吸置いてから話しはじめた。
「わたしの言葉通り、吸血鬼は人間が生まれ変わって成るものだ。吸血鬼は究極的な意味で死刑を宣告された囚人だ。前世での罪が大きすぎて人間の姿では罪が償えなくなると、吸血鬼となって生まれてくることになる。つまり、我々は人間の下層に位置する存在なのだ」
「吸血鬼は人間よりも下だと言うのか……」
今まで人間と慣れ親しんできたマルベリーでも衝撃を受ける真実だった。
「吸血鬼が永遠の命を持つのは、悪業を浄化するのに長い時間が必要だからだ。人間の姿では何十、何百と生まれ変わらなければ浄化できない悪業を持っている。しかし、吸血鬼は永遠の命を持つこと以外は、罪を償うのにはまったく適していない。人間とはまったく違う価値観を持ち、人なぞ造作もなく殺せる身体能力を持ち、食事で人の命を奪う事もある。吸血鬼の姿で悪業を浄化する事など不可能と言ってもいい。むしろ普通に生きていれば悪業は増すばかりだ」
「だから貴方は、生血を吸う事を禁じたのか」
「そうだ、我々が救われるために必要な事だ」
それから吸血鬼女王は、溜息と共に嘲るような笑いを浮べた。
「吸血鬼の存在を正しく理解していなければ、わたしのしている事は愚行としか思えまい。だから周りは敵ばかりだ。だが黙っているわけにはいかない、吸血鬼の存在意義を理解せぬままに死ねば、その命は消えてなくなる。罪消しなければ、この宇宙から存在が抹消される」
それを聞いた時、マルベリーは口にはできない異様な恐怖に襲われ、背骨に直接触れてまさぐられているような悪寒を覚えた。人間であれば、全身から冷や汗が噴き出ているような状態だ。マルベリーは女王の言う事を完全に理解はできなかったが、その言葉の中に恐ろしい物が潜んでいる事がはっきりと分かった。
「宇宙から存在が消えるとは、どう言う事ですか?」
「命とは本来は永遠のものだ。肉体は滅びるが、命は変わらない。命の存在は常にどこかにあり続けるのだ。新たな肉体が生れればそれに命が宿り、肉体が滅びれば命は遊離し、また新たな肉体に宿る、この繰り返しが輪廻転生だ。しかし、吸血鬼の命だけは違う。罪消せぬままに死ねば、その命は消えてなくなる、命がなくなるのだから別の肉体に転生する事はできなくなる。これは本当の意味での死だ。この恐ろしさ、お前ならば理解できるだろう」
自分の存在が恐ろしい、マルベリーはそう思った。そして同時に、人間として生きている小百合や宮子が心底羨ましかった。人間の世界に行き、様々な事を体験し、ここまで来て吸血鬼というものの存在を知った瞬間であった。
吸血鬼女王は言った。
「我々が選択する道は二つに一つ、悪業を消して人間に生まれ変わるか、何もせずに自らの命を消し去るかだ」
この時、マルベリーの中で、いつも弱い者を救っていた母の姿が光を放った。母がどんなに偉大な人だったのか、今こそ分かる事ができた。
「……お母様は、自らの罪を滅ぼし、人間に生まれ変わる事ができたのですね」
「そうだ、ワーシリカが人間に転生している事は間違いない。罪を消した上に永遠の生からも解放された。羨ましい限りだよ」
マルベリーの赤い瞳から涙が落ちた。今まで母の事を理解しなかった事への後悔や、外の世界で関わった人間たちへの感謝、今までに経験した事のない感情がマリベリーの中に生まれた。そんなマルベリーを見つめて女王は言った。
「お前もワーシリカと同じ場所に立つことができた。いつかは訪れる死の時まで、罪滅ぼしをするがいい」
その死がいつ訪れるのか、それは誰にも分からない。マルベリーはこの時ほど吸血鬼の持つ永遠の命が疎ましいと思った事はなかった。
吸血鬼女王の城を出たマルベリーは、再び時計塔の天辺に立ってほの暗い街を見下していた。
「わたしにはお母様と同じ生き方は出来ないだろう、自分なりの罪滅ぼしを考えるさ」
地下世界を流れる強く冷たい風がマルベリーの金糸のような髪や純白の衣服をなびかせる。その中でマルベリーは、再び人間たちに思いを馳せた。
「人間の世界に行って良かった、小百合と宮子に会う事ができて本当によかった。そのおかげで吸血鬼の真理に辿りつく事ができた。小百合、宮子、出来る事ならもう一度会いたいものだ」
吸血鬼の命は永遠だ、それに比べれは人間の命は蝋燭の炎のようなものだ。しばらく時間が経てば消えてしまう。吸血鬼にとって人間の命とは、その程度のものだ。明神小百合としての存在も、幸野宮子としての存在も、マルベリーの知る世界からすぐに消えてなくなるだろう。しかし、二人の存在はマルベリーの中には残り続ける。それは、マルベリーが生きるであろう何百、何千年という生の間消える事はないのだ。




