↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
93/93

一斑の汚点

空には日が昇りきり、じめじめ纏わりつくような空気が織田軍勝利の空気をかき消していた。

医務衆の戦場にはそんな空気も気にしていられないほどの熱気と緊張感が張り詰めていた。


桃慧の元へ運ばれてきたその兵は、まだ14~15歳ほどと若くその幼さは見取って理解できた。


しかし、そんな若さも関係なく戦の不条理は左腕の肘より下を鉄砲玉で砕き、骨は裂け、肉は千切れ、皮一枚でかろうじてぶら下がっていた。担ぎ込まれた時には、腕というより、血を吸った襤褸のようであった。


「この腕は...」

残していては危険な腕だ、桃慧は一目でそう見た。

ここで切除すれば命はまだ残せる、そう判断した。


「切除します。琴、肩を押さえて。柚、上を締めます。あやめ、清創水と焼いた小刀、このありさまでは要らないと思いますが骨断ち用の鋸も用意してください。それと針糸をすぐに縫えるように準備して。」


いつものように澄んだ声は冷徹に聞こえるようだがそれは命を守るため、判断も速かった。


周囲にいた者たちは、息を合わせるように桃慧の言葉、それだけで動いた。

琴が兵の肩を押さえ、柚が布を締め、あやめが薬箱を開く。血を受ける桶が寄せられ、汚れた布が外され、支度が整えられた。


「よし、準備できました。」

素早く止血を終え切除の支度を終えると若い兵の目を見て話し始めた。


「目を閉じてはなりません、私の目を見て。」


若い兵は歯に噛ませた布を食い破るほど力を込めていた。

しかし桃慧の一言にはその力みを一瞬でも和らげる不思議な間を与えさせた。


桃慧はその若い兵を落ち着かせるようにやさしく言った。


「痛みに呑まれそうになったら、ここを掴みなさい」


そう言って、桃慧は自分の胸元を指した。


正確には、胸の前に吊るしていた布袋である

すぐに止血できるようにと襟元に纏めてある布束の事である。

 

だが、若い兵の理解は、そこまで追いつかなかった。


「え」


兵の目自然と桃慧の胸元、というよりその膨らみに目が行ってしまう。


「い、今、何と」


「ここです」


桃慧は大真面目に、胸の布袋を軽く叩いた。


「腕を動かせる方の手で掴みなさい。痛みが来たら、握り潰すつもりでよいです、しっかりと掴みなさい」


「そ、それは、その、よろしいので」


兵の顔が、血の気を失っていたはずなのに、妙に赤くなった。


そんな二人のやり取りを見ていて琴が一瞬だけ目を細め、あやめが口を開きかけ、柚が小さく咳き込んだ。


桃慧だけが、まったく気づいていない顔で首を傾げた。


「何を迷っているのです。しっかりと眠らぬように力いっぱい握りなさい」


「いや、しかしっ」


「はやく、血を失いますよ」


その兵は恐る恐る桃慧の胸元へ手を伸ばしその膨らみをつかむ。



「そこではありません。胸元の布袋です。私を掴めとは言っていません。布を掴みなさい」


「えっあ、は、はい!」


兵は慌てて右手を伸ばし、桃慧の胸元に吊られた布袋の端を掴んだ。触れ方は妙に遠慮がちで、指先だけでつまむようであった。


桃慧は眉を寄せる。


「その握り方では駄目です。痛みで意識が飛びます。もっと強く」


「も、もっと」


「強く」


「は、はい!」


兵が混乱と羞恥で目を白黒させた、その瞬間だった。


桃慧の小刀が落ちた。


砕けた肉と骨の境へ、迷いなく刃が入る。琴が肩を押さえ、柚が締め布を引き、あやめが清創水を寄せる。


「へぁっ!?」


兵は、胸元の布袋を握り締めたまま硬直していた。


痛みのためか。羞恥のためか。

それとも、何が起きたのか理解が追いつかなかったためか。


本人にも分からぬ顔であった。


桃慧は素早く切除した部分を消毒し、血管を縫い合わせ、残されたきれいな皮の部分で縫い塞ぎ処置を終える。

「切除、終わりました」


桃慧は静かに言った。


「え」


兵が布と桃慧の胸元の布束をつかんだまま、目だけを動かした。


「終わ……」


兵は自分の左腕があった場所を見ようとした。


桃慧はすぐに視線を遮る。


「見なくてよいです。見るなら、私を見ていなさい」


兵は反射的に桃慧を見た。


「近...す、好きです」


「何を言ってるのですか?もう胸元から手を離していいですよ。」


「えあっ!?」


「私だけを見て、そのまま深呼吸。」

桃慧は切除した箇所に麻から抽出した薬を撫でるように塗り込む。


兵のまだ幼さの残るその顔には、痛みと恐怖と、それから先ほどの勘違いの名残が入り混じっていた。


琴が低く呟いた。

「琳ちゃ...桃慧様、言い方があるでしょ?」


桃慧は手元を洗いながら、不思議そうに瞬きをした。

「何かおかしかったですか」


あやめが肩を震わせた。

涙目で何度も首を横に振った。痛みに耐えているのか、誤解を否定しているのか、もはや誰にも分からなかった。


桃慧は気にせず、傷口へ薄めた清創水を流し包帯を巻く。


「よく耐えました。今夜は痛むと思いますので遠慮なく隊の者に声をかけて痛み止めを飲んでください。頑張りましたね。」


兵の目に、痛みとは別の涙が浮いた。

「…え、もう終わり……はい」


「はい、そのまま横になっててなさい。柚、この方を重傷者用の待機場所へ。」


「承知しました、桃慧様」

その時であった。


厠の方から、病疫守の男の声が裂けるように響いた。


「血だ!」


周囲の兵が顔を上げた。

誰かが「また負傷者か」と言いかけた。


だが、次の声が、それを止めた。


「斬り傷の血ではございませぬ!便に混じった血と粘りにございます!」


金吾丸の白旗の下で、空気が変わった。

兵たちの多くは、まだ意味を掴めていなかった。血ならば、そこら中にある。腕を切ったばかりの場で、血に驚く者はいない。


だが、医務衆だけが硬くなった。

あやめの手が薬箱の上で止まる。


琴が桃慧を見た。

治長は、木札を動かしていた指を止めた。


桃慧は、縫い終えた兵から目を離さずに言った。

「柚、縫い場を一つ下げて。あやめ、水場と飯場を止める支度を」


あやめは一瞬だけ目を見開いたが、すぐ頷いた。


「はい」


桃慧は立ち上がった。

素早く、治長のもとへ向かう。


病疫守の男が、息を切らして駆け込んできた。手には竹片を持っている。厠の板に触れぬよう、便の一部をすくったものらしい。血と粘りが、赤黒く、濁って付いていた。


治長はそれを一目見た。桃慧もその現場を見た。


言葉は要らなかった。

「この負傷者の中に血痢患者がいるのですね。」


治長が低く問う。

「その疑いが強いです」


桃慧は答えた。

「この特徴的な便、単なる水下しではありません。血と粘りがあります。量は少なくとも、厠へ何度も行っている者がいるはずです」


病疫守の男は青ざめていた。

「この厠は、負傷者も医務衆の者も使っております」


その言葉に、近くの医務衆が息を飲んだ。


通常傷所。

負傷者の寝る場所。

医務衆が出入りする場所。

薬湯を作る場所。

湯を沸かす場所。


そこへ、血痢が入り込んだかもしれない。

治長の顔から表情が消えた。


「病疫守」


「はっ」


「その厠を今すぐ封じます。縄を張り、近づく者を止めなさい。中を洗うのはまだ後です。まず、誰も使わせない」


「はっ!」


「水場と飯場は一時停止。水桶には誰も触らせない。飯を配る手も止める。手洗いを済ませるまで、水も飯もすべて廃棄です」


周囲がざわめいた。


水場が止まる、それは清潔な水での治療ができなくなる、つまるところ安全な医療を行えなくなる、そういうことだった。


合戦後の傷所で、それは大事であった。だが、治長の声は揺れない。

「過去数刻、その厠を使った者を洗い出します。負傷者、医務衆、救走班、丹羽の支援兵、すべてです。名が分からぬ者は顔で探す」


桃慧が続けた。


「見るべきは、腹です」


医務衆の者たちが桃慧へ向く。

「下腹の痛み。何度も厠へ行きたがること。出した後もまだ出したいという訴え。強い渇き。熱。尻の布の血と粘り。傷の血とは違います。腹から来る血を探してください」


「はい!」


「ただし」


桃慧の声が強くなった。


「責めてはなりません」

その一言に、若い医務衆が一瞬止まった。


「腹を下すことを恥じる者がいます。敵方だから見捨てられると恐れる者もいる。責めれば、さらに隠します。隠されればこのまま何度も水が汚れ、飯が汚れ、手が汚れます」


桃慧は、血に濡れた袖のまま、白旗の下に立っていた。


「血痢は恥ではありません。隠すことが陣を殺します。聞く時は、責めるためではなく、助けるためだと伝えなさい」


治長が木札を掴む。


「陣地転換、先に予備の診療荷駄を一つ下の階道脇へ移せ、城下町への街道を塞ぎそ道の広い場所で陣を敷きなおす、処置済みで腹の症の有無をしっかりと分けよ。難しい場合は判断保留この場に残置とする。その後一綱へ引き渡し再見立て。おキヨの指示の元一綱の血痢場へ回しせ」


「はい」


琴は桃慧が切断した兵のそばで脈を見ながら、目だけを上げた。


「桃慧様、こっちは今のところ大丈夫。傷口の血も落ち着いてる」


桃慧は小さく頷いた。


「お願い」


その間にも、病疫守の男は走っていた。


医務衆は再度、陣地を移動し始め、重傷者などは桃慧含め医者たちが懸命の初期処置を行い移動させた。

ほどなく、負傷者の中からその血痢疑いの者が見つかった。


京極丸を守備していた浅井兵であった。

右肩に浅い切り傷を負い、すでに処置を受けて、傷所の端で休んでいた男である。命に関わる傷ではない。年は五十前後か。髭には白いものが混じり、浅井の具足は外され、医務衆の布を掛けられていた。


病疫守の一人が、その男を伴ってきた。

男は顔を青くしていた。


「この者、先ほどより二度、厠へ。腹痛を問うと、初めは否みましたが」

病疫守は言いにくそうにした。



「あなたは、恥じる場所を間違えています」


桃慧の一言に男が顔を上げる。

桃慧の声は柔らかかった。


「腹を下すことは恥ではありません。血痢になることも恥ではありません。敵方であることも、今ここでは関係ありません。あなたは我々医務衆の患者です。この旗のもとに居る限り浅井も織田もありません。」


男の目が揺れた。

「ですが、隠すことは違います」


桃慧は続けた。


「あなた一人が病を隠せば、あなた一人の腹では済まなくなります。傷の浅い兵も、腕を失った兵も、医務衆も、助けた浅井の兵も織田の兵も関係なく、皆が腹を病むことになる」


男は息を呑んだ。

桃慧は少しだけ身を寄せた。


「責めるために探したのではありません。あなたを助け、次の者を出さぬために探したのです。だから、これからは隠してはなりません。出たものも、痛む場所も、渇きも、すべて言いなさい」


男の目から、涙がこぼれた。


「……はい」


「よろしい」


桃慧は立ち上がった。


「この方は初期です。まだ歩ける。声もある。唇も割れていない。早く拾えました。一綱の血痢場へ送ってください。赤布の道を使います」


治長がすぐに木札を渡す。


「赤布。初期疑い。腹痛、しぶり腹、血粘便少量。水は飲めるか確認を」


病疫守が頷く。

男は肩を借り、赤布の縄の方へ送られていった。


桃慧はその背を見送った。


まだ救える、そう思った。

だが、その安堵は浅い。


厠に血便があったということは、あの男一人では済まないかもしれない。すでに誰かが同じ桶へ触れたかもしれない。飯場に行ったかもしれない。汚れた手で布を直したかもしれない。


桃慧は治長へ向いた。


「再確認を続けてください」


「はい」


「責めずに、急いで」


「承知」


白旗の下が、また動き始めた。


赤布の道の先で、一綱はすでに二人の患者を見ていた。

一人は三十代ほどの浅井兵である。


最初に運ばれてきた血痢の男だった。名を聞くこともできていない。顔は土気色で、頬は削げ、目は落ちくぼみ、焦点が合わない。唇は割れ、舌は乾いて白く荒れている。指先は冷たく、爪の色は悪い。皮膚をつまむと、戻りが遅かった。


一綱は手首へ指を置いた。


依然として脈は細く速い。何より声掛けの反応が弱い。


戦で血を失った者の脈に似ている。だが、この男の体には、命を失わせるほどの刀傷も矢傷もない。失われているのは、腹から出ていった水であった。


「おキヨ」


「はい」


医療補助であるおキヨが、布を受ける竹籠を寄せた。血痢場の中では、布も桶も人も分けられている。外傷の布とは混ぜない。傷所へは戻さない。捨てるものは焼く。洗うものは灰汁で煮る。


一綱は男の腹をそっと押した。

みぞおちではない。


臍の下や左の下腹。

そこへ触れると、男の体が小さく跳ねた。声は出ない。ただ喉の奥で、かすれた息が引っ掛かる。


「痛む力も弱い」


一綱は呟いた。

最初に見た時には、もう少し反応があった。痛みが薄れたのではない。痛みに応える力が失われてきている。


竹匙に湯冷ましを取る。


男の唇へ当てた。

「飲めるか」


男の目がわずかに動く。


湯が唇を濡らす。だが、喉はなかなか動かなかった。ようやく一度、ごくりと小さく鳴ったと思うと、半ばは口の端からこぼれた。


「無理に流し込まなくてよい」


一綱はおキヨへ言った。


「下手に飲ませて肺に水を入れてみろ、この弱り方ではすぐに死ぬぞ。今は唇を湿らせるだけでもよい。喉が動く時だけ、一滴ずつとは言わんが少しづつだ。」


「はい」


次に、一綱は隣を見た。

こちらは同じ血痢でも、まだ命がこちら側に踏み止まっていた。


大きな体を腹へ折るように丸めている。汗が額から首筋へ流れ、唇は乾き、頬はこけていた。だが、目は合う。呼べば反応がある。声も出る。


「与吉殿」


「……なんだ」


かすれているが、返事があった。

一綱は手首を取る。


脈は速い。弱っている。だが、末期の男のように指の下から逃げるばかりではない。熱はある。手足は冷え始めているが、まだ戻せる冷えであった。


「薬を飲ませてから半時ほど経った。痛みは」


「未だ腹の下が……絞られる、ように」


答えた直後、痛みの波が来た。

「うぉぉぉっ!」


与吉の背が強張り、膝が腹へ寄る。歯を食いしばり、喉の奥で低く呻いた。痛みは一定ではない。波のように来て、腹の内側を握り潰し、少し引く。引いた間、与吉はぐったりと息だけをする。


「また来る、うぐっ、厠へ......」


与吉は目を閉じたまま頷いた。

「……今度こそ出る気が、するのだが」


「そういって先は少ししか出んかったではないか」


「今回は出る、少し……だが、まだ」


しぶり腹の特徴である。

出した後も、まだ便を出したい。腹の奥に何か残っているように感じる。だが、実際に出るのは少量の血と粘りだけ。腸が便を運んでいるのではない。荒れた腹に血が溜り、腹そのもの感覚が狂い、出もしない便をなお出せと命じている。


「たまらんっ、だめだ、厠へ行かせてくれ」


与吉はその巨体を起こすと尻を抑えながら厠へふらふらと歩き始めた。


「おいまて、勝手に立つな」


一綱は言った。


「出たものはそのままにしておけ、土をかけるなよ!便を見なければならないのだ。」


「わかったからあまり申すでない!」

与吉の顔に、恥じる色が浮かんだ。巨体とはいえまだ若い武者である。

斬られて血を流すことは耐えられる。矢を受けて倒れることも、武士としてはまだ顔が立つ。だが、腹を下し、尻の布を見られることは別であった。ましてや医務衆は尻の穴まで見てくる。


一綱は声を低くした。


「病は恥ではない、病の道を見るためだ。血と粘りがどれだけ出るか。水のようか、粘るか。臭いはどうか。それを見ねば、腹の中が分からん。隠せばお前の腹も、命も危うくなる」


与吉は、かすかに頷いた。

その時、赤布の入口が揺れた。


「一綱様」


病疫守の男が声を張る。

「傷所より、初期疑いの者。桃慧様の見立てにて赤布へ」


一綱は振り向いた。

初老の浅井兵が、肩を借りて入ってきた。


顔色は悪い。だが、末期の男のような土気色ではない。唇は乾き始めているが、割れてはいない。目は濁っていない。右肩の傷は浅く処置済み。歩けるが、腹を庇うように腰をやや曲げている。


「座らせろ。寝かせるのはまだ後でよい」


一綱は言った。

おキヨが男を支え、赤布の内の空いた場所へ座らせた。


「名は」


男は少し迷い、答えた。

「……浅井の兵にございます。名は、佐介と」


「佐介。腹はどこが痛む」


佐介は臍の下へ手を置いた。

「ここにございます」


「何度、厠へ行った」


「二度……いえ、三度」


「出した後も便意は残るか」


佐介は恥じるように頷いた。


「はい」


「血と粘りは」


「少し……」


「喉は渇くか」


「渇きます」


一綱は手首を取る。

脈は速いが、力はある。手足も冷え切ってはいない。熱は少しある。だが、意識は明瞭で、問いに答えられる。小水の有無を問えば、朝には出たという。


早い。

一綱はそう見た。

 この男は、まだ崩れきっていない。


「おキヨ。佐介には湯冷ましを匙で。飲めるようなら薄い塩蜂蜜水へ。葛はまだ待つ。便を見てからだ」


「はい」


「薬事班」


薬事班の娘が顔を上げる。


「はい」


「葛を三つに分けろ。末期の男には使わん。与吉には痛みの波が少し遠のいてから薄く。佐介には半刻見て、腹痛が増えねば薄く作ってやれ」


「はい」


「塩と蜂蜜は全て薄く。特にはちみつは決して多く入れるな。欲しがっても無理に流し込むな」


「承知しました」


一綱は三人を見比べた。

同じ血痢。


だが、同じではない。

三十代の男は、すでに水を失いすぎている。声はない。湯冷ましも受け取れない。腹の中が荒れていても、もうそれに抗う力がない。


与吉は苦しんでいる。血と粘りを下し、しぶり腹に責められ、強く渇いている。だが、声がある。喉が動く。痛みの波の合間に、一綱の言葉を聞ける。


佐介は、まだ初めで拾えた。血と粘りはある。下腹の痛みもある。だが、水を飲める。小水も出ている。目に力がある。


一綱の中で、血痢の姿が三つに分かれていく。


遅すぎたもの。

まだ戻せるもの。

崩れる前に拾えたもの。


だが、その時点で一綱はまだ、迷いの中にいた。


血痢は腹の中の傷だ。

見えぬ傷から血と粘りが出ている。水が失われている。外科ならば、血を止める。裂けた皮膚なら縫う。噴く血なら押さえる。


ならば、腹の中のこの下りも、止めるべきではないのか。

出るものを収めれば、水は失われずに済むのではないか。


末期の男の布を見る。

赤黒い粘り。

与吉の布にも、同じものがある。

佐介はまだ少ない。だが、始まっている。

「伝令」


「はい」


「三者とも血痢として隔てる。だが、両名……いや、末期の男と与吉は血と粘りの下り止まず。症状のひどい二人とも腹の中の傷がひどいため血と水が流れ続けているものと見る」


一綱は一度、息を吸った。


「血痢の者達に腹下しを収める薬を少量用いるべきか。出るものを止め、水の失せるを防ぐべきか。桃慧様のご判断を願う、と伝えろ」


伝令は復唱した。


一言も漏らすまいと、唇が固く動く。


「よし、頼んだぞ」

一綱は頷くと伝令が走る。

一綱はその背を見送らず、すぐ三人へ戻った。


病は待たない。

末期の男の息は浅い。

与吉の腹には、次の痛みの波が来ようとしている。


佐介は湯冷ましを受け取り、両手で匙を待っている。


一綱は竹匙を取った。


「与吉」


「……なんだ」

与吉は清創水入りの水で手を洗い寝床に戻ると湯冷まし入りの椀を受け取る。

ありがたそうに薬事班の娘に頭を下げ、椀に口をつける。


「お前はまだこれ飲める。必ず助ける」


与吉の目が、かすかに一綱を見た。

一綱はその目を逃さなかった。


血痢は腹の中の傷。

そう思っていた。


だが、その傷は、なぜなお作られ続けるのか。

答えはまだ来ていない。


けれど一綱は、すでにその問いの前に立っていた。

赤布の縄の外では、医務衆たちの戦の音がなお続いている。


だが血痢場の内側で行われていたのは、別の戦であった。



懸命に体を戻そうとする脈の音だけが、今の一綱にとって、勝鬨よりも確かなものだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。