傷は城に残りて
【用語集】
負傷人床=担架
傷病の見立て=トリアージ
見立て紙=トリアージ記載紙
※見立て紙内容
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応 答 【有/無】
傷/病 【頭/首/胴/腕手・左右/ 背/臀部/足・左右】
心 臓 【動/静/止】
息 【動/静/止】
出 血 【多/少/無】
健体/急体/傷体/終体
終期・・・死亡/心肺停止/死に際の者
急体・・・急ぎ搬送治療が必要なもの、もしくはそれに値するもの
傷体・・・搬送に悩む程度の者、急変の可能性がある者
健体・・・現地の治療で間に合うもの
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①新たに救走班という少数の集団を編成する。
陣頭医・・・1名 (現場指揮・搬送判断・応急処置)
担ぎ手・・・2名1組×3 (搬送・止血)
荷駄係・・・2名 (荷車にて医療品・水の運搬)
以上9名1班編成 これを複数班整備し布陣する。
用語集
負傷人床=担架
傷病見立て=現代訳のトリアージ
見立て紙=トリアージ記載紙
清創水=医療用アルコール(蒸留酒、焼酎)を割って濃度それぞれ分けて使用
搬送車=4輪の牛車改造の救護車(現代的解釈の救急車)
救命胴着=現代で言うタクティカルベストのように胸部に竹の水筒を複数本格納できるようにした前掛け。
笛音伝達=鉄笛、竹笛の音を組み合わせ暗号化し医務衆内で連携をとるシステム
鉄長音3回・・・重傷者搬送中
竹笛短音連続・・・敵襲接近など様々な音で連携をとる。
戦事や日ごとに符丁を変えて運用している。
【医務衆筆頭 御医頭】
・桃慧
・医務衆の最上位指示役 筆頭医 医務・管理・運用指揮者
【御医頭後見人】
・宗庵
・御医頭補助 指導役
【記録班×→医監班】20名
・総指揮役 治長(戦場での総指揮/記録確認/物資の総合管理者)
・物資 人員 記録 等の管理
【医務班】30名
・総医指示役 一綱
・医術的処置 医の管理 指導 新理探求
【薬事班】12名
・筆頭薬師 あやめ
・薬草の管理 薬草畑の管理 調薬 投薬役
【救走班】 人員196名(救走係90名 荷駄係103名)
・総指示役 宗次
・救務補佐役 元則
・荷駄長 一茶
・傷病見立て 搬送 応急処置役 荷駄車の運用管理 物資輸送
【治癒班】90名
・治癒長 柚
・副治癒長 琴
・患者の継続的治療 衛生管理
1573年7月5日の朝は、どこか不気味なほど静かに始まった。
夜半まで小谷山を覆っていた雲は東の空へ流れ去り、雲の切れ間から朝日がもたらす光が覗き込むように散りばめられ、谷間には白い靄がゆっくりと漂っている。濡れた木々の葉先からは絶えず雫が落ち、その音だけが夜明け前の静寂を埋めていた。
織田本陣では既に多くの者たちが動き始めていた。
昨夜信長から城攻めの命が下った。
「小谷城を傷物にせよ」
普通の攻城であれば攻めかかれ、城を落とせと命が下るが傷物にしろとの命礼はすこし兵の中で疑問という話種になった。
それにおかしな点はまだある。
軍奉行達が出してきた指示である。
「攻城用の梯子や鈎は要らん、竹束と掻楯を多く準備せよ、鉄砲、弓の心得があるものは支度をせよ」という物だった。
城に攻めかかると言うのに城壁を昇る梯子が要らないというのはどういうことなのか、それに竹束と掻楯を多くとは一体何故なのか。兵たちの疑問は増える。
「織田様はえらく小谷の城に怯えておられるのか」そう小言をいう兵も少なくはなかった。兵からしてみれば城内一番乗りなど戦働の好機が減ることである。
そんなせいなのか、兵たちに普段の出陣前に見られるような昂ぶった空気ではない。
兵たちは黙々と支度を整え、鉄砲足軽は火縄を確かめ、竹束を担ぐ者たちは言葉少なに持ち場へ向かっていく。陣中には数万の兵がいるにもかかわらず、不思議なほど静かだった。
朝靄の静けさの中心にある本陣では織田信長が一人、小谷山の方角を見つめていた。
昨夜兵たちの動揺は少なからずあった命ではあるが半兵衛の策は良いものだった。明日攻城の命を出したことを知った桃慧から少し怪訝な反応をされたがそれはまぁ良い。しかし、あの娘も察しが良い。勝家や信盛たちは眉間に皺を寄せ聞いていた半兵衛の策の本意を数事で理解したのだ。益々良い女だと思いその様子を見ていた。
戦前の高揚感は薄い、しかしこれまでのことを考えると信長はすぐに床へ入ることが出来ず、少し頭がぼんやりとする。
軍議の最後に半兵衛が見せた苦い笑みが、未だに脳裏へ残っていたのである。
あの軍師は、人を救うために築かれた理を見た。
そしてその理が存在しない場所の脆さを見抜いた。
だからこそこの度の策を立てた。
こちらの損害を減らした上で相手に大きな綻びを生むというのは軍師として正しい。
軍を預かるものとして正し過ぎると言ってもいいほどに正しかった。
だが半兵衛自身は、その正しさを少しも喜んではいなかった。
信長はそれを理解していた。
だから昨夜の軍議で、あえて多くを語らなかった。
軍略の優劣など既に分かっている。
万全の支度と万全の試みで挑む当家と突然の事態に対応する浅井家、数的優劣、兵站状況などは既にどうでも良い。
問題は小谷城の内側にいる男だった。
浅井長政。
妹の市を嫁がせてでも傍に起きたかった男、そして共に日の本の行く末を語った男。
そして今は、互いに退くことが出来なくなった敵。
信長は長政を許していたわけではない。
裏切りを知った時の衝撃は今でも夢に出てくるほど強烈であった。金ヶ崎の退き口ことも忘れていない。
姉川で流れた血も忘れていない。
森可成をはじめ、多くの家臣を失ったことも忘れていない。だが、それらを全て承知した上でなお、長政という男に対する評価は変わらなかった。
あれは愚かな男ではない、そして私欲で動く男でもない。長年使えた朝倉家への恩義と浅井家当主としての責務を秤にかけ、その結果として敵になった男である。
だから信長は憎み切れなかった。
もし立場が違えば、あるいは同じような選択を自分もしたかもしれないと理解していたからだ。
しかし理解することと許すことは別だった。
天下は既に動いている、数万の兵が集まり多くの国人衆が織田へ従っている。
今さら浅井家だけを特別扱いすることは出来ない。
信長個人の感情だけで戦を終わらせられる段階は、とっくに過ぎ去っていた。
だからこそ昨夜、信長は静かに決断したのである。
長政へ与える時間は終わった、と。
「我が義弟よ、既に時は無いようだ。義兄は話を聞いてやるぞ。」そう小声で誰に語りかけた訳ではなく、遥か先で戦支度を整えているであろう長政に語りかける。
そして信長は軍配を掲げ、ゆっくりと降ろす。
一斉に法螺貝の野太い音が鳴り響く。
低く長い音が朝靄を震わせる。
続いて陣太鼓が鳴る。
さらに別の法螺貝が応える。
山の麓に広がる織田軍が一斉に動き始めた。
信長は静かにその様子を見渡した。
その顔には怒りも高揚もない、ただ決意だけがあった。
一方、小谷城でも法螺貝の音は容赦なく響き渡っていた。
眠りの浅かった兵たちは飛び起き、兵たちは城外へ目を向ける。城内には慌ただしい足音が広がり、鐘の音が次々と各曲輪へ伝わっていく。
その報せを受けた長政は、静かに障子を開いた。
湿った朝の風が頬を撫でる。
遠く山裾には無数の旗が見えた。
まるで大地そのものが動き出したかのようだった。
長政はしばらくその光景を見つめていた。
驚きはなく、むしろどこか納得していた。
和平の交渉が続いていたからといって、信長が短気を起こしたや、怒りを買っての攻めに出たわけではないことを長政は知っていた。お互いに考えを導き出す、その時が来たと言うことであろう。
(私に気を使ってくれたと解釈するのはおこがましいが時をくれた義兄上に感謝しなければわならい。お陰で腹は十分に決まった。)
長政は一息だけ、深く、深く吸い込み肺にが破裂するほど息を溜めてゆっくりと息を吐いた。見渡せば家臣たちも皆目を瞑り心を整えていた。
外の喧騒が一瞬止まる。瞼の裏に映るのはお市と子供たち、一瞬の時を過ごし瞼を開く。
自分に忠義を尽くしてくれる家臣たちの姿を目に焼き付け号令を下す。
「各々方、勤めを果たされよ!」
「「「「はっ!」」」」
一同は鎧兜を鳴らしかけだす。
織田勢は既に城の傍まで来ている。靄がかる城には緊張感が張っていた。
「義兄上、いざお迎えいたしましょうぞ。」
その呟きは朝風に溶けるように消える。
やがて長政は城壁へ上がった。
眼下に広がる織田軍を端から端まで見渡す。
無数の旗に朝日に輝く槍、押し出される竹束。
長政は戦場を見渡しながら違和感を覚える。
「なぜ、前線の織田兵は梯子を持っておらんのだ?城門から攻め寄せる気か?」
織田軍は城壁を攻め上がってこない。
山道へ雪崩れ込んでくる様子もない。
(小谷城の堅さを知っているからだろうか?にしてもこれはおかしい。義兄上は一体何を考えておられるのだ。)
無理な攻城で損害を出すよりも、まずは守りを探るつもりなのか?
しかしいくら考えてもそう考えるのが自然だった。
竹束や掻楯を前線に押し出し身を隠すように近付いてくる。平野での戦のように矢合わせを行いじわじわと攻めかかるのだろうか?この数ヶ月で次々と城を落とした城攻めの得意な羽柴の旗が全然に見える。
そんな軍が行う策がこんな消極的なものなのかと長政は感じた。
じわじわと近づいてきた織田軍の兵たちは鉄砲や矢の射程に入ると次々に火蓋を開け、矢をつがい、射放ち、銃口からは轟音が響いた。
織田方から白煙が立ち上がれば、それに応じるように城方も鉄砲を撃つ。
双方から雨のように矢が飛ぶ。
すると空を切り裂くように石が雨のように飛ぶ。
両陣営から怒号と叫び声が飛び交う。
矢合わせのつもりで戦う浅井兵は時が経つと混乱し始めた。
「なんだこれは?」
「あいつら攻めかかる気概がないのか?」
城壁を守備する侍大将たちは困惑していた。
戦が始まり数刻経った、太陽は既に頭上を過ぎ去り傾きかけている。
城に近づいてくるのは投石を行う飛礫の隊や弓矢と鉄砲を抱えた小隊のみで槍や刀を構える隊は城から矢弾が届かぬ後方で横隊を組みこちらを眺めるだけ。
「くそぉ、あいつら俺たちに矢と弾を使わせる気か?ふざけやがって!」
「でも信長がこの城を恐れているのは間違いないなガハハッ!織田の兵は腰抜けじゃ」
しかし織田軍はなおも近付いてこない。ただ執拗に攻撃を続ける。
次第に双方で負傷者が続出する。礫に頭を殴られ倒れる者。矢が肩を貫く者。鉛玉が肉を削ぎ落とし身体の中で暴れ狂う。
「腕がっ!俺の腕!」
「負傷者を下げよ!」
負傷した兵は側に居た足軽たちが肩を貸す形で次々に後ろに下げられる。
「くそ、城壁に登れればこんな城すぐに落とせるのに!」
織田方でもこの戦への疑問が出始めている。
しかしそれ以上に混乱しているのは浅井兵たちであった。
小谷城の曲輪の1つ、京極丸。かつて京極氏が住まう曲輪のひとつであったが今は家臣たちの控えとして使われる。
その薄暗い一室は、その日の昼過ぎには血と汗と呻き声に満ちた場所へ変わっていた。
城中から次々と運び込まれてくる負傷者たちは、皆が同じ場所へ集められるわけではなかったが、金創医の前へ通されるのは、侍大将や名のある家に仕える郎党、鉄砲頭や弓頭など、城の守りを保つために失えぬ者たちが主であり、足軽や城下から集められた雑兵たちは、よほど運が良いか、あるいは運び込んだ者に力がなければ、入口の外で布を渡され、自ら血を押さえるしかなかった。
それは誰かが冷酷だったからではない。
それがこの時代の当たり前だったのである。
医者は少なく、薬は限られ、酒も布も湯も余るほどあるわけではなく、何より一人の金創医が一日に診られる傷の数には限りがあった。だから金創医は、苦い顔をしながらも、誰を先に診るかを決めねばならなかった。
「その者は外へ。腕の傷なら布で縛れ。こちらへは大野殿の郎党を入れよ、肩を抜かれておる」
金創医の声は荒くはなかったが、疲れが滲んでいた。
入口で膝をついていた若い足軽は、左腕から血を流しながら一瞬だけ口を開きかけたが、室内に横たえられている侍の顔を見て、何も言わずに頭を下げた。自分より位の高い者が先に診られることに、怒りを覚えないわけではない。痛みは同じであり、血も同じように流れている。けれど彼は、その順番がこの世の理であることも知っていた。
外へ出ると、古参の足軽が汚れた布を裂いて差し出した。
「歯を食いしばれ。きつく巻けば止まる。」
若い足軽は頷き、袖を噛んだ。布は新しいものではなかった。誰かの血を洗い落とした後のものかもしれず、汗と泥の匂いも残っていたが、彼らにそれを気にする考えはない。血を止めることが先であり、布が清いかどうかを問う余裕など、戦場にも籠城の城にも存在しなかった。
室内では別の兵が叫び声を上げていた。
矢が肩へ深く刺さっている。矢柄は既に折られていたが、鏃は肉の中に残っていた。金創医は額から流れる汗を袖で拭い、その袖が既に別の患者の血で黒ずんでいることなど気に留める暇もなく、弟子へ短く命じた。
「おい、酒を」
弟子は桶の傍らに置かれた徳利を取り、傷口へ酒を注いだ。兵が身を反らせて絶叫し、二人がかりでその身体を押さえ込む。酒は傷を洗うためであり、同時に痛みを紛らわせるためでもあったが、桃慧が用いる清創水のように強さを分けられ、用途に応じて管理されたものではない。城内にある酒を、あるだけ使う。それ以上の発想は無かったし、その酒がどれほど清いかを測る術も無かった。
金創医は小刀の刃を布で拭うと、鏃の位置を探るため傷口へ指を入れた。
兵が再び叫ぶ。
「押さえろ。暴れれば余計に裂けるぞ!」
金創医の声は冷静だったが、その目には焦りがあった。後ろにはまだ何人も待っている。廊下には呻く者が並び、外では別の負傷者が運び込まれている。丁寧に診たい。出来ることなら一人ずつ時間をかけ、傷の具合を確かめ、明日も明後日も様子を見たい。だがそれは許されなかった。
ようやく鏃が抜けると、血が一気に溢れた。
弟子が慌てて布を押し当てる。
「お師匠様、血が!」
「わかっておる、焼き鏝を」
火鉢の中で赤く熱せられていた鉄が取り出されると、部屋の空気が一瞬で重くなった。兵はそれを見るなり顔を青ざめさせ、口の中で何かを唱え始める。神仏の名か、母の名か、聞き取れない。
金創医はその表情を一瞬だけ見た。
そして力むような声で言う。
「耐えよ。ここで止めねば死ぬ」
赤い鉄が傷口へ押し当てられた瞬間、肉の焼ける匂いが立ち上り、兵の絶叫が壁を震わせた。
押さえていた者の顔にも苦痛が走る。見ている弟子の唇も震えていた。だが誰も手を離さない。これが命を繋ぐ術であると知っているからだった。
金創医は決して下手ではなかった。
むしろ、この時代の金創医としてはよく鍛えられていた。
矢傷の処置も知っている。
止血も知っている。
なにより膿めば危ないことも経験として知っている。ヨモギやオトギリソウ、ドクダミを傷へ使うことも知っていた。だが彼が知らぬものがあった。
なぜ膿むのか。
なぜ熱が出るのか。
なぜ同じ部屋に寝かせた者たちが次々と弱っていくのか。
それを、理としては知らなかった。
傷口に触れた指が、先ほど別の患者の血に触れていたことも、桶の水が何人もの傷を洗った後で赤黒く濁っていることも、布を替えずに何度も使うことも、彼らにとっては悪ではなかった。
なにより籠城時の水は貴重であり自由に使える分は少なく、綺麗で清潔な布は足りず、たよりの酒は尽きかけている。
湯を絶えず沸かし、道具を煮て、患者ごとに布を替えるなどという発想は、そもそもこの城の現実から遠すぎた。
弟子が濁った桶へ小刀をくぐらせ、布で拭って師へ返す。それで十分だと誰もが思っていた。
実際、その場で血を止めるにはそれしかない。
金創医は次の患者へ向かいながら、背後の兵へ声をかけた。
「今宵、熱が出ねばよい。水を飲ませ、身体を冷やせ。膿んだらすぐ呼べ」
そう言ったものの、呼ばれてもすぐ行ける保証はなかった。
廊下にはまだ負傷者が並んでいる。
しかもその多くは、名のある家中の者たちだった。足軽たちは外で仲間同士、傷へ草を揉んで当て、布を巻き、古くから伝わる民間療法に習い呪いのような手法をするものすら居る。
酷く痛む者は酒を少し口へ含んで痛みを誤魔化している。彼らは医者に見捨てられたのではない。最初から、医者へ届く場所にいなかったのである。
別の隅では、石に腿を砕かれた侍が横たえられていた。
その脚は不自然に曲がり、血と泥にまみれている。
金創医はその傷を見た瞬間、思わず目を細めた。
ひと目でわかる、骨が砕けている。
肉の奥へ泥が入り、血は止まりきっていない。残せば腐るかもしれない。だが斬れば助かるとも限らない。斬るには人手もいる。痛みに耐えさせる薬も足りない。切断した後に熱が出れば、結局は死ぬ。
医者はしばらく黙っていた。
侍が掠れた声で問う。
「助かるか」
その問いに、金創医はすぐ答えなかった。嘘をつくことも出来た。大事ないと言ってやれば、相手は少し安心するかもしれない。だが彼はそれをしなかった。
「命を繋ぐには、脚を捨てる覚悟が要るやもしれませぬ」
その言葉に周囲が静まり返った。
侍は目を閉じた。
唇が震えている、怖くないはずがない。武士であっても、脚を斬られる恐怖は同じだった。
それでも彼はしばらくして、小さく頷いた。
「……殿のため、まだ死ねぬ」
金創医は深く頭を下げた。
「必ず生かすよう努めます」
それは誓いではあったが、保証がある訳ではないのは皆知っている。この時代の医療とはそういうものだった。
医者は必死に手を尽くす、持てる知識を使い、薬を使い、火を使い、刃を使う。それでも最後は、患者自身の体力と神仏の加護に委ねるしかない場面があまりにも多かった。
部屋の外では、足軽たちが壁にもたれて座っていた。
矢が頬を掠めた若者が、笑いながら仲間へ言う。
「これしき、唾でも付けておけば治る」
周囲は笑った。だが頬の傷は汗と泥で汚れており、血はじわじわと流れ続けている。別の男は手の甲を鉄砲の破片で裂かれていたが、布を巻いただけで再び城壁へ戻ろうとしていた。戦える者は戦う。それが忠義であり、それが武士に従う足軽の誇りでもあった。
誰も、その小さな傷が後に高熱を呼ぶとは思っていない。
誰も、汚れた布と汗と泥が命を奪うなどとは考えない。
ましてや、その傷を負った者が城内を歩き回り、同じ水桶へ手を入れ、同じ藁の上で眠ることが、やがて別の病を呼ぶなどとは夢にも思わなかった。
夕刻が近づくにつれ、部屋の中の空気はますます重くなっていった。血の匂い、酒の匂い、焼けた肉の匂い、薬草を煎じる匂い、人の汗と恐怖の匂いが混ざり合い、そこに夏の湿気がまとわりつく。
弟子の一人は吐き気を堪えながら布を洗い、別の弟子は火鉢へ炭を足している。金創医は声を枯らしながら次の患者を呼び、また傷を開き、また血を止め、また祈るように包帯を巻いた。
「先生、この者は外の足軽ですが、腹を押さえて倒れております」
弟子が迷いを含んだ声で言った。
金創医は一瞬だけ顔を向けた。腹の傷は危うい。
だがその時、奥では名のある侍の切断が始まろうとしている。
手は一つしかない。時間もない。薬もない。
医者は目を伏せた。
そして苦しげに言った。
「息が浅く、腹が硬ければ……助からぬ。水を含ませ、楽な場所へ寝かせてやれ」
弟子は言葉を失ったが、やがて小さく頷いて去った。
その背中を見送りながら、金創医は唇を噛んだ。
救いたくないわけではない。
足軽だから命が軽いと思っているわけでもない。
だがこの城には、全ての傷を等しく診るだけの医者も、薬も、人手も、理も無かった。
それがこの時代の限界だった。
そして、その限界の内側でなお、彼らは必死に命を拾おうとしていた。
夜が近づく頃、浅井兵たちは織田軍を退けたと歓声を上げていた。城壁の上では「小谷は落ちぬ」と叫ぶ声が響き、矢を受けた腕に布を巻いたまま笑う者もいた。彼らは勇敢だった。長政に従い、浅井家へ殉じる覚悟を固めつつあった。
だが城の奥では、別の戦が始まっていた。
声を上げる力もなく藁の上で震える者。
熱を帯び始めた傷を押さえる者。
夜を迎え、自ら動けぬほどの痛みに必死に耐え、水を飲ませてくれる者を待つ者。
そして、もう誰にも呼ばれなくなった足軽。
医務衆ならばまず、傷を洗っただろう、布を替えただろう、水を分けただろう、看護の者を付けただろう。
身分ではなく、救えるかどうかで順を決めただろう。
しかし小谷城には桃慧はいない。
医務衆もいない。
あるのは、この時代に生きる金創医たちの懸命な手と、彼らがまだ知らぬ理の空白だけだった。
彼らは無能ではなく、怠惰でもなかった。
人を救いたいと願う心も、血まみれになって働く覚悟もあった。
ただ人を救うための理が、まだこの城には届いていなかった。それだけであった。




