医師は武神に非ず、仏心と医に従う者也
――岐阜城下、医務所。
信長への報告が終わり、その足で医務所に着いた一同は城から医務所までの間無言で書に書かれていた一文を何度も何度も頭の中で繰り返し思い出していた。
長い行軍の後にも関わらず、長い重役たちとの会議の後にも関わらず、疲れなど忘れ、一文を繰り返し思い出していた。
「ただいま戻りました。あやめ、柚子、琴、宗次。留守をありがとうございました。何か変わったことはございますか?」
桃慧の声はいつもと変わらず明るくふんわりとその場の雰囲気を変える。
「桃慧様!お帰りなさい!」
元気よくあやめが桃慧の元へ足を運び、その後を宗次がゆっくりと歩み寄ってくる。
「桃慧様、重傷者の寝床と包帯の捲きなおしは完了しております。荷駄の片づけは皆疲労しておりますので明日にと思い、薬と包帯など重要な物資のみ片付けましてあとは帰しております。」
宗次は顔に疲労を見せつつもしっかりと役をこなし丁寧に報告した。
「宗次、ありがとうございました。すみませんが重要な話し合いをしたいのですが大丈夫ですか?」
桃慧は申し訳なさそうに片づけをしていた面々に頭を下げる。
「はっ、では奥の間を準備致します。」
宗次の指示で各々が準備を始める。
そして医務衆の主だった者たちは奥の講義間に集められていた。
夕刻の光が障子越しに淡く差し込み、部屋は静まり返っている。
一綱、柚、琴、あやめ、宗次、そして治長と宗庵。
誰もが、呼び出しの理由を薄々感じていた。
伊勢長島で見えた医務衆の限界、それは誰の目にも明らかだったからだ。
やがて、静かに襖が開く。
白衣ではなく、簡素な法衣姿の桃慧が入ってきた。
普段と変わらぬ穏やかな顔。
だがその瞳の奥には、あの戦場を越えた者だけが持つ決意の色があった。
桃慧は部屋の中央に座し、ゆっくりと周囲を見渡した。
「……皆さん、集まってくださってありがとうございます。」
声は柔らかい。だが、重い。
誰も言葉を挟まない。
「伊勢長島で……私たちは、多くを救いました。」
頷く者もいれば、拳を握る者もいる。
「ですが同時に救えなかった命もありました。」
空気がわずかに震えた。
桃慧は続ける。
「原因は、技術ではありません。薬でもありません。」
そこで一度、視線が治長に向けられた。
「指揮です。」
沈黙。
あやめが息を呑み、琴がゆっくりと目を伏せる。
「私は、筆頭医でありながら、全体を見られませんでした。治療に入れば、戦場の動きが見えない。全体判断は遅れ、運用は乱れます。」
一綱が小さく首を振る。
「それでも……桃慧様は見事な指揮をしてくださいました。」
「いえ、それは違います。」
やさしく、しかしはっきりと遮る。
「一人で背負い続けることが、正しいとは思えなくなりました。案の定、上様より戦時の指揮を禁ずるとのお叱りと....いえ、指示をいただきました。」
桃慧は長秀から受け取った巻物を皆に見せると一息つき、どこか解放された様でもあった。
しばしの静寂のあと、桃慧は両手を膝に置いた。
「ですので医務衆の編成を改めます。」
一同の視線が集まる。
「私は今まで通り、この医務衆の総大を預かり筆頭医を務めます。」
誰も驚かない。
だが次の言葉で空気が変わった。
「……戦場の総指揮は、治長に任せます。」
治長の瞳がわずかに揺れた。
「……私、に?」
桃慧は頷く。
「記録、物資、搬送、全体の流れ……あなたは誰より見ていました。私は負傷した者たちのために手を動かす者。ですが、戦場の混乱する現場で全体を導くのはあなたです。」
部屋の空気が一段引き締まる。
宗次が静かに腕を組み、柚が真剣な顔で治長を見る。
治長はしばらく言葉を失っていた。
「……私は、とても前に出る人間ではありません。」
桃慧は優しく、しかしはっきりとした言葉で治長に諭す。
「だからこそ、です。私はどうも一つの物事に集中すると周りが見えなくなるようです。それではこの衆を預かる身としては不適格、罪ですらあります。そこで記録や全体の流れを見れる治長が全体を見て指示して頂けると助かります。」
桃慧の声は柔らかい。
「前に出る必要はありません。ただ、全体を見て指示をしてください。迷ったら私に声をかけてくれれば一緒に考え答えを出しましょう」
その言葉は、信頼そのものだった。
やがて治長は深く息を吐き、ゆっくりと頭を下げる。
「……承ります。桃慧様が人命のために手を止めずに済むなら、それが最善です。」
小さな拍子木のような音が胸に響いた。
桃慧は次に視線を一綱へ向けた。
「一綱。」
「はっ!」
まるで犬のように背筋を伸ばす。
「医務班の指揮役をお願いします。」
一綱は一瞬だけ目を見開いた。
それは誇りと、そして少しの戸惑い。
「私が......ですか。それこそ桃慧様が……」
期待の眼差しから母から見捨てられた子犬のようにしょんぼりと肩を落とす一綱。
「あなたは誰より現場を知っています。皆があなたを信頼しています。あなたの指示は医務班を的確に動かしていました。私が居なくとも坂本では見事やり遂げてくれたではないですか。」
「いや、あの時も桃慧様からの指示があったから....」
一綱は少し泣きそうになりながら答える。
「私と一綱、二つの指揮があると下の者は戸惑いますから。一綱ならできます。治長と同じく困ったら私を頼ってください。いいですね。」
一綱は黙り込んだ。
そしてゆっくり膝をつく。
「……桃慧様の為に全身全霊で務めさせていただきます。」
琴がくすりと笑い、柚が小さく頷いた。
あやめはというと、
「えっ、じゃあ治長さん偉くなるの!?じゃあ私の薬草申請も通りやすくなる!?」
宗次に軽く頭を叩かれていた。
「話を聞け、戦場だけの事だ。」
「え?そうなの?」
あやめは少し残念そうに口を尖らせる。
「あやめ、薬のことは私にね?治長が困るでしょ?」
桃慧は手のかかる妹や娘を宥める様に優しくあやめに話す。
「だって桃慧様ずーーーと忙しそうなんですもん!」
少し笑いが起き緊張が、少しだけほどける。
桃慧は周囲を見渡しキリッと姿勢をただした。
「宗次は救走班をお願いします、止血の仕方をもう一度教えなおしてください。この度の混乱の一因です。最初が躓くと全体の流れに不和を招きます。」
「はっ、厳しく指導いたします。」
宗次は頭を下げる。
「柚と琴は治癒医療教育を行軍している間の治癒治療は見事でした。あやめも引き続き薬事班の教育をお願いします。」
皆が頷く。
「でも桃慧様はどうするの?」
あやめが少し戸惑ったように問いかける。
「戦場では一綱の指揮下に入りますかね?」
再び犬のようにピンっと背筋を伸ばし頬を赤らめる一綱
「えぇ!?私の下に桃慧様が!?」
「安心してください、私がこの医務衆での頭であることには変わりません。上様はきっと私に武将のような全体の指揮をするのではなく医者として力を尽くせと言う事なのでしょう」
桃慧はゆっくりと皆を安心させるように話す。
「いや私も武将という役には.....」
治長が頭を下げて否定する。
「あっ、すみませんそういう意味ではなく私が戦場まで指揮をする器ではないだけです。」
「い、いやそれも私には....」
治長は少し頭を抱える
「治長殿、いざとなったら桃慧様も手を貸してくださるのですから、まずはやってみましょう。私もお力添えいたします故」
宗次が治長の肩を叩き慰める。
「治長よ、何かあればこの老いぼれの力も貸せる、年の功に頼っても構わない。そこまで気を負う必要はない、それに総大将は桃慧殿だ、そこは変わらないのだ」
宗庵も教えを与えるように優しく説得し、治長の表情が少し朗らかなものになる。
戦場の地獄をと共に味わった一同には確かな忠義と団結が生まれていた。
「治長を指揮役に任するに伴い少々班の編成と役割を見直します、それは後日皆様にお知らせします。」
桃慧が一息つき、疲れを見せる会議の場にひとまずの区切りをつけた。
「「「はっ」」」
一同が声を合わせて桃慧に頭を下げる。
「この件について相談することもあるかと思いますのでよろしくお願いします。それでは本日は解散です、ゆっくり体を休めてください。お湯を沸かしますので湯船に浸かりたい方はお手伝いお願いします。」
「「「はっ」」」
そしてこの日は解散した。
―その夜—
皆が寝静まり、診療所の見回りを終えた一綱はふと診療所の外の蔵、所謂遺体安置所に光が灯っているのを見つける。
まだこの夜に死人は出ていない。それなのに安置所に光はおかしい。
丑三つ時、空には薄黄色の欠けた月がこちらを覗いている。
一綱は恐る恐る蔵の方へ歩み寄る。
すると中からすすり泣く女の声が聞こえる。
蔵の戸の隙間へ顔を近づけ中を覗く。
蔵の中に居るのは紛れもなく桃慧であった。
黒い髪を束ね上げ、白い法衣を纏い、なにやら台へ向いボソボソと囁きながら幽鬼のように手を動かしている。
処置代の上には恐らく検体用に預かった身元不明の遺体
非人道的かと思われるが既に息絶えた肉の塊、ありがたく使わせていただき供養する。
それが戦国の習わし。
そんな遺体に桃慧は無言で布を敷き、刃を手に取る。
格子戸より注ぐ月の光が刃先をかすかに揺らした。
「……南無阿弥陀仏」
小さな呟きとともに、仰向けの遺体に刃が走り腹を裂く。
肉が開き切り開かれた腹膜から腸を丁寧に取り出す。
そして腸の一部に墨で点を何か所かつける。
硬直した足を揉み解し軽く膝を立たせる。
脱腸の状態を再現し、布を敷いて位置を整える。
伊勢長島で見た、あの若い兵の姿が脳裏に蘇る。
腸がこぼれ、必死に助けを求めていた顔。生きたいと望む声。
――今は助けられない。
そう断じた自分の声。
桃慧は強く目を閉じ、涙をこぼす。
「……ごめんなさい」
先ほど墨を付けた壊死していると想定される箇所を塩と酒を混ぜた水で洗い、切除し素早く健全な腸同士をつなぎ合わせる。速やかに針を取り、糸を通す。一針、また一針。
手は迷いなく動く。
だが、速度はさらに速く、さらに正確に。
腹壁を閉じ、結紮の位置を確かめる。
終えると、深く息を吸い再び、刃を入れた。
今度は別の角度で裂く。
腸の一部を捻じり、血流を止めた状態を作り、壊死の可能性を想定する。
縫い、解き、縫い直す。
何度も。
何度も。
何度も。
返り血が白い法衣に飛び、布が赤く染まっていく。
破れた腸から漏れた内容物が手袋代わりの布を汚す。
だが桃慧は一切手を止めなかった。
速やかに洗浄、消毒、そして元に戻す。
「腹の中は常に清潔で...」
臭気も、冷たさも、ただの情報。
すべてを記憶に刻み込む。
「………これで助かるのか…」
「これ以上の処置は....別の方法は」
「いやもっと早く、苦しませないように……」
独り言のように、声が漏れる。
まるで誓うように。
処置台の周囲には、使い終えた糸や布が積み重なり、床には水と血が混じった跡が広がっていた。
夜の静けさの中、桃慧の涙を抑える嗚咽と鼻をすする乾いた音。トラツグミの声のように闇夜に深く、不気味に響く。
やがて桃慧の動きが止まる。
深く息を吐き、刃を置いた。
震える手を見つめる。
助けられなかった命。
見捨てた命。
知識のために失わせた過去。
それらすべてを背負ったまま、彼女は立っている。
「……次は、救う」
静かに言う。
それは誰に聞かせるでもない誓いだった。
灯明の火が揺れる。
血に濡れた白布の上で、桃慧はもう一度針を手に取った。
夜が明けるまで。
彼女は、ひとりで縫い続けた。
夜明けの霧がまだ城下に残るころ、医務所の庭にはすでに人の気配があった。
井戸端ではあやめが桶を並べ、柚と琴が薬箱の整理をしている。
宗次は救走班の朝稽古の指示し、他の面々は荷駄車の荷を下ろし装具を洗い、消毒し一体となって作業していた。
その中で、一綱だけが落ち着かなかった。
昨夜の光景が、どうしても頭から離れない。
血を浴び、魂を削るように小刀と指を動かしていた桃慧
あれが、普段皆の前に立つ彼女と同じ人間だとは思えなかった。
「……桃慧様は、まだ……」
思わず口にしたその時だった。
「おはようございます、皆さん」
柔らかく澄んだ声が庭に落ちる。
一綱は振り返った。
そこに立っていたのは、いつもの法衣に身を包んだ桃慧だった。
朝日に照らされた黒髪は整えられ、深夜までの乱れは微塵もない。
頬には薄く紅が差し、穏やかな笑みが浮かんでいる。
まるで、夜の出来事など最初から存在しなかったかのように。
「一綱さん、夜番ありがとうございました。眠れていないのでは?目が赤いですよ。」
先に気遣われたのは、自分のほうだった。
思わず言葉を失う一綱に、桃慧は首をかしげる。
「……あの、昨夜――」
言いかけた言葉を、彼女はやさしく遮った。
「今日お片付けを頑張りましょうね。一綱、昨晩の患者の診なさんの容態はどうでしたか、見せてください」
声は穏やかで、指示は的確で、どこまでもいつも通りだった。
柚が苦笑する。
「桃慧様.....少し休まれても」
「休みましたよ。大丈夫です」
そう言って笑うその表情は、まるで春の陽だまりのようだった。
宗次が低く呟く。
「……さすが長だな」
庭の空気が、自然と引き締まっていく
。
桃慧は一人一人の様子を見て歩き、薬の補充を指示し、救走班の動きを確認し、薬草を納めに来た農民の腰の具合まで気にかけ軽く揉んであげて薬を塗る。
組織の中心に、静かに立つ。
緩むところは笑顔で包み、締めるところは凛とした声で整える。
昨夜の幽鬼のような姿は、どこにもない。
一綱は、ただ呆然と見つめていた。
(……この人はきっと背負い過ぎているんだ)
呼ばれて、はっとする。
「ぼーっとしてますよ。疲れてるんですか?」
いつもの、少しだけ困ったような笑顔。
一綱は慌てて姿勢を正した。
「い、いえ! 問題ありません! 本日もお供します!」
その声に、周囲がくすりと笑う。
桃慧も、楽しそうに目を細めた。
「いいから仕事を引き継いだなら休みなさい、休むのも仕事ですよ。」
その一言で、胸が熱くなる。
昨夜の光景を思い出しながら、一綱は静かに決意する。
この人は、花のように美しいだけではない。
誰よりも泥に触れ、血を浴び、重さを背負って立っている。
だからこそ、自分は側にいる。
守るためではない。
支えるために。
朝の光の中、桃慧はいつも患者たちの元へ通り歩き出した。
「桃慧様~、新しい薬草植えようよ~」
「そうですね、植えてみたい薬草があるのですが、丹羽様にバレない様にしないとですね」
【医務衆改変報告】
このたびの大殿の命により、医務衆を改変いたしましたので以下の通りの編成となります。
【医務衆筆頭 御医頭】
・桃慧
・医務衆の最上位指示役 筆頭医 医務・管理・運用指揮者
【御医頭後見人】
・宗庵
・御医頭補助 指導役
【記録班×→医監班】20名
・総指揮役 治長(戦場での総指揮/記録確認/物資の総合管理者)
・物資 人員 記録 等の管理
【医務班】30名
・総医指示役 一綱
・医術的処置 医の管理 指導 新理探求
【薬事班】12名
・筆頭薬師 あやめ
・薬草の管理 薬草畑の管理 調薬 投薬役
【救走班】 人員196名(救走係90名 荷駄係103名)
・総指示役 宗次
・救務補佐役 元則
・荷駄長 一茶
・傷病見立て 搬送 応急処置役 荷駄車の運用管理 物資輸送
【治癒班】90名
・治癒長 柚
・副治癒長 琴
・患者の継続的治療 衛生管理




