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曲直瀬道三

1572年 四月。

 春の霞が岐阜城下の長良川を淡く包む早朝、城門に一騎の早馬が駆け込んだ。


「京より急使――曲直瀬道三(まなせどうさん)様、岐阜城へ参上の由!」


 その名が告げられた瞬間、広間に集っていた近習(きんじゅ)たちの空気が一斉に張り詰めた。


 曲直瀬道三。

 朝廷御用を務める医家の棟梁(とうりょう)にして、帝の脈を取り、摂関家の命を預かる、当代随一の名医。

 医であると同時に、京という都の“理”と“権威”を体現する存在でもあった。


 報を聞いた織田信長は、しばし無言のまま(すずり)の上に視線を落とした。


 やがて、低く短く、笑うでもなく呟いた。



「……来たか」



 その声音には、驚きよりも、むしろ覚悟に近い響きがあった。



 坂本の疱瘡。

 あの“病に勝った”という報せが、京に届かぬはずがない。

 疱瘡――それは神罰と恐れられ、隔離も祈祷も焼却も効かず、ただ死を待つのみとされた天刑である。

 それを、理と術で、しかも女子の医僧が率いる医務衆が鎮めた――。



 信長を含めこの事を知る者たちは既に悟っていた。


これは単なる一地方の治療成功で済むわけがない。

 

「この時代の医の常識そのものを揺るがす異変」なのだと。

 そして、その異変を最初に嗅ぎつけるであろう人物は他ならぬ、曲直瀬道三であろう、と。

むしろこの来訪すら遅いと思うほどだった。


「客人として丁重に迎えよ。礼は尽くす。だが………」


 信長は近習に命じながら、わずかに目を細めた。


「坂本の件、桃慧の名、その医術の内、及び医務衆の事一切、こちらからは語るな」


 警戒は、戦のそれに等しかった。

 刃を交える敵ではない。だが、思想と理で斬り結ぶ相手である。



やがて。

岐阜城の迎賓(げいひん)の間。


 香が焚かれ、京風の几帳が整えられ、織田家重臣が控える中、白髪を束ねた老医が静かに入室した。

 背は高くはない。

 しかし、その佇まいは、武将にも公卿にも劣らぬ重みを帯びていた。


 幾万の命を診、幾万の死を見送ってきた者のみが持つ、沈黙の圧。


「京より参上つかまつる。曲直瀬道三にございます」


「遠路遥々ご苦労。織田弾正忠信長ここに」


 形式的な挨拶が交わされ、茶が運ばれ、当たり障りのない話が続いた。


 京の春の景、御所の改修、将軍義昭の近況、畿内の空気――。


 場は和やかであった。

 だが、信長は知っている。

 この老医が、無為な世間話だけで岐阜まで来るはずがないことを。



 そして、頃合を見計らったかのように。

 道三は茶碗を静かに置き、わずかに首を傾げた。




「ところで――」




 その一言で、空気が変わった。


「近頃、坂本の地にて、疱瘡と熱病が広がったと聞き及びましてな。されど、不思議なことに、ほどなく鎮まったとも……」


 あくまで、噂話のような口調。


 しかし、その目は鋭く、獲物の喉元を見据える鷹のそれであった。


「織田殿の御領内では、医療医術の備えも万全とお見受けする。さればこそ、神仏の御加護も(あつ)かったのでしょうな」


信長は微笑んだ。

だが、その笑みは、戦場で敵を前にした時のそれと変わらぬ冷静さを帯びていた。


「坂本は戦災の地。民も疲弊しておる。たまたま運が良かっただけよ。京には噂が誇張して伝わるものだ」


「ほう……誇張、とな」

 道三は軽く頷きながら、なおも探る。


「しかし疱瘡は、偶然で治る病ではありますまい。祈祷でも、贄でも、奉納でも治らず、民や帝も関係無く多くの命を奪ってきた“天刑”。それが鎮まったとすれば、それは運ではなく、“術”であろうと、老骨ながら思うのですが」


 信長は答えない。


 ただ杯を取り、ゆっくりと酒を含んだ。


 互いに、核心には踏み込まぬ。


 しかし、互いに、核心の存在を確かに感じ取っている。


 ――坂本。

 ――疱瘡。

 ――そして、その中心にいる、名も伏せられた一人の医僧。


 この時、二人はまだ、口にしていなかった。

 だが、心の中では、同じ名を思い浮かべていた。


 桃慧。


 時代の理を逸脱し、しかし命を救うという一点において、誰よりも正しい“異端”。



場に沈黙が落ちた。



 香の煙が、ゆるやかに天井へと昇っていく。

 その向こうに、京の都と、坂本の焼け跡と、無数の病者の呻きが重なっているかのようであった。

 信長は杯を置き、ゆっくりと道三を見据えた。



「……曲直瀬殿。そなたは、何を見に来たのか?」


 もはや世間話ではない。


 探り合いの皮を剥ぎ、真意を問う声であった。


 道三は一礼し、静かに口を開いた。


「疱瘡を鎮めた“医”を見に参りました」


 即答であった。


「それが朝廷の理を揺るがし、 医の道の根幹を揺るがし、そして、この国の未来の在り方さえ変えかねぬと感じたからでございます」


信長の眼が細まる。

「異端、ということか」


「はい」


 道三は否定しなかった。


「だが、異端とは必ずしも邪ではない。かつて私もまた、異端でございました」


 その声には、老いた医師の悔恨と、誇りと、そして深い痛みが滲んでいた。そして、懐かしそうに目を細めながら空中を揺蕩う香の煙を眺め、煙が消えるとスっと目線を下に落とす。


「私はかつて、“一人の女医僧”を守れなかった。いや、守るために、都から追い出したのです」


 信長は、その言葉にわずかに眉を動かした。


「石山本願寺にいた、遵慧……あれほどの理と術を持つ者が、朝廷と既存の医の秩序の中では生きられぬと悟った時、私は彼女を“追放”という形で奥州へ逃がした」

道三は、静かに目を閉じた。


「それが正しかったのか、今も分かりませぬ。だが、あの時、都に留めれば、彼女は必ず“潰されて”いた」


信長以前桃慧より聞いていた母の話を思い出していた。


「……そして今、その娘が現れた。……かもしれぬ。となれば………再び嵐になる前にと心配し、この岐阜まで足を運んだ次第。」


道三の視線が、まっすぐ信長を射抜く。


「母と同じ理を持ち、母から受継ぎ技術と知識は研ぎ澄まされ、さらに危うく、故に“時代を越えた”医を行っていると私は考えております。」


 信長は低く笑った。


「そなたの医と、あやつの医は、相反するであろうな」


「ええ、確かに」

道三は即座に頷いた。


「私は脈を読み、人と気を読み、人の身体を“天理”の延長として診ます。病は気の乱れ、陰陽の失調、神仏と人の調和の崩れとして扱い、それに応じた薬と医を行う。」


 そして一拍置き、言葉を継ぐ。


「しかし、あの娘の医は違う。病を“現象”として捉え、穢れでも罰でもなく、理で解ける“仕組み”として見ている。私も新たな薬を使う事もある、新たな治療を研究もする。しかに根本的な医の見方が違う。故に守りたいと思っております。」


 信長は腕を組み、深く頷いた。


「だからこそ問う。そなたの理と相反するその医を、なぜ朝廷から守ろうとする」


老医の眼に、静かな光が宿った。


「道が違っても、辿り着く先が同じだからです」


「人の命を救うということか?」


「はい」

道三は力を込めた。


「神仏の名において救う命も、理の名において救う命も、救われる“命”そのものは同じ。その重さに上下はございませぬ」


 信長は、しばし沈黙したのち、静かに言った。

「……そなたの医は、秩序の医。あやつの医は、未来の医。相容れぬが、共に必要なもの、か」


「その通りでございます。」

 道三は深く頭を下げた。


「ゆえに私は、あの娘を“敵”ではなく、“次の時代を照らす灯”として守りたい」


「なるほど....その意見には同意するほかない」

香の煙が細く揺れる中、信長はゆっくりと立ち上がった。



「……曲直瀬殿。そなたの覚悟は分かった」

 その声には、武将としての決断と、1つの時代を生きる男として感情のが同時に宿っていた。


「余も同じだ。あの娘は、この乱世が生んだ“理の子”よ。刀でも、法でもなく、知で人を救う者。ゆえにこそ、強大な権力に呑み込ませるわけにはいかぬ」


 曲直瀬道三は静かに頷いた。


「朝廷は、必ず目を向けます。将軍家も、諸大名も。“疱瘡を鎮めた少女”など、放ってはおきませぬ」


「だからこそ、隠す」

 信長は即答した。


「医術は見せぬ。理も体系も、余の手の内に置く。あの娘は“織田の医僧”としてではなく、“人の未来”として守る」


 道三は一瞬だけ、目を細めた。

「……ならば、私にあの子の医を私に見せることも?」


「許さぬ」

 信長の言葉は冷徹であった。


「曲直瀬殿であろうと、朝廷の重鎮であろうと、あの医はまだ世に出すには早すぎる。あれは兵にもなり、国にもなり、それは大きな戦にもなりうる」


道三は、その危うさを誰よりも理解していた。


「よく存じております。では……せめて、あの子と言葉を交わすだけでも」

 

信長はしばし沈黙した。


桃慧の顔が脳裏に浮かぶ。 血に染まった坂本で、焼け落ちる家々を背に、ただ命だけを見つめていた少女。



「……話だけだ。術も、処置も、理の詳細も、一切語らせぬ」


「それでよろしゅうございます」

道三は深く頭を下げた。


「私は、遵慧の影を持つその娘に、一人の医師として、一人の老人として、ただ会いたいのです」

 

信長は頷き、障子の外へ声をかけた。

「呼べ。桃慧を」



 ほどなくして、足音が近づく。

 法衣の裾を整え、静かに一礼して入ってきたのは、

 医僧としても異端な長い黒髪を纏め頭巾で隠し、幼い顔をした少女であった。


 しかし、その眼には、戦場と疫病と死を越えてきた者だけが持つ、澄んだ覚悟の光が宿っている。


「上様、お呼びでしょうか」


 その声を聞いた瞬間、

 曲直瀬道三の胸に、かつての面影が重なった。

 石山で、理を語り、人の臓腑を開き、命を“仕組み”として見つめていた、


あの女医僧と

 同じ眼。

 同じ気配。

 同じ、時代に馴染まぬ“理の匂い”。


 道三は、ゆっくりと膝を進めた。


「……お名を」


「桃慧と申します」

桃慧は丁寧に平伏し手を揃え畏まる。


 その名、その声を聞いた瞬間、老医の胸の奥で、長く閉じられていた記憶が、音を立てて開いた。


「……やはり」


信長の視線は、いつもより鋭い。


そして正面に座す老人――白髪を整え、背を正し、静かな威を湛えたその男からは、医として、人として、長き年月を生き抜いた者の気配が濃く漂っていた。


「こちらへ」


信長の一言に従い、桃慧は膝を折る。

その所作に、道三の目が止まった。


(……違う。だが、似ている)


「此度、話を聞いておきたいと思い、呼んだまでだ」

それ以上は語らぬ。


許したのは面前だけであり、踏み込むことではないという意思表示だった。


道三は一礼し、名を明かす。

「私は曲直瀬道三。京にて医を務めておる」


桃慧の目が、わずかに見開かれた。


その名は、母・遵慧が、かつて語ったことのある名だった。

敬意とも、警戒ともつかぬ感情が、胸に広がる。


「....曲直瀬道三様っ!………存じております」

その一言で、道三は確信した。


「やはり遵慧の娘か……?」


「はい、私は遵慧の娘です。母をご存知でしたか。」


この少女は、医の世界の内側を知っている。

信長は、そこで初めて、わずかに声色を変えた。



「今日のところは、医の話はせぬ。ただ互いに、顔を知っておけ」



それは許しであり、同時に枷でもあった。


桃慧は静かに頷き、道三もそれ以上を求めない。

場に、再び沈黙が落ちた。


信長は言葉を挟まぬ。


この先は、医と医の間にしか存在し得ぬ領域だと悟っていた。


曲直瀬道三は、ゆっくりと息を吐いた。


それは老いた医師の溜息ではない。

長年、胸の奥に沈め続けてきた言葉を、今まさに引き上げようとする者の呼吸だった。


「……桃慧殿」


穏やかな呼びかけだったが、どこか痛みを含んでいた。


「そなたの母、遵慧という名を、私はよく知っている」


桃慧の背筋が、微かに強張る。

母の名を、他人の口から聞くことは、これまでほとんどなかった。


「20年ほど前だろうか……石山本願寺あの地に、奇妙な噂が流れていた」


道三の視線は、遠く過去を見ていた。

「僧でありながら、刀も経も頼らず、人を救う少女がいる、と。病を“祓う”のではなく、“理”で解く。傷を塞ぎ、膿を抜き、命を繋ぐ。しかもそれを、老若男女、身分を問わず行うと」


当時の医の常識からすれば、それは異様だった。


医とは、身分に仕え、権威に寄り添い、神仏の理と矛盾せぬ範囲で許される技である。


「当時朝廷に認められ始め、権力に寄り添っていた私は、その噂に強く引かれ弟子たちに調べさせたのだ。」


道三は断言した。


「細かく調べ上げ、それは噂話ではない。実在する医であり、しかも私が積み上げてきた医の理よりも、なお先を行く可能性を秘めていた事を知った。なんと素晴らしい、私もその理を知りたいと強く願い遵慧へ何度か教えを乞いに行った。」


桃慧の喉が、無意識に鳴る。


母が、そんな評価を受けていたとは知らなかった。


「だが――」


道三の声が、わずかに低くなる。

「それが、朝廷の耳に入った」

そこから先は、語らずとも想像できた。


異端。危険。秩序を乱す存在。


「遵慧殿の医は、正しかった。だが“正しすぎた”」


道三は、そこで初めて桃慧を真正面から見た。

「私は……選んだのだ。医の未来を守るために、追い出すという選択を」


桃慧の目が、震える。

「迫害されたのではない。私が、私が.......京から遠ざけた」


それは懺悔だった。

だが、言い訳ではない。


「朝廷に残れば、いずれ殺される。あるいは、名を奪われ、そして医を奪われば“権力の道具”として使い潰される」


道三は立ち昇る香の煙を散り無色になるまで見つめながら語る。


「だから、奥州を選んだ。都から最も遠く、権力の手が届きにくい地を。…その医を…彼女を…生き延びさせるために」


道三の拳は、畳の上でわずかに震えていた。

「それが、私の犯した罪だ、どうしようもなかったのだ。許してくれ」


しばし、誰も言葉を発さなかった。


やがて、桃慧が、静かに口を開く。


「……母は」

声は幼いが、揺れてはいなかった。

語る覚悟を決めた者の声だった。


「私が幼い頃からよく申しておりました。“医は、信仰では人を救えない”と」

道三の眉が、微かに動く。


「祈りは、人の心を支えます。けれど、血は祈っても止まらない。熱は祈っても下がらない。ならば、知り、触れ、考えねばならない、と」


それは、まさに異端の思想だった。


「母は、人の身体を“神の器”ではなく、“理で成り立つもの”として見ていました」

桃慧の視線は、どこか遠くを見ている。

「そして……私が十三のとき、母は病に倒れました」


胃の病。胃の傲り。(胃癌)


今なら名を付けられるが、当時は“不治の呪い”と呼ばれたもの。

血を吐き、たべのものを受け付けず痛みにもがき苦しんだ。


「母を信仰していた信徒の方々は、祈りました。一晩中、毎日……そして人の指で作った薬や信者たちが考え調薬した薬を無理やり母に飲ましたら一時的に回復したように見えた時もありました。」


だが、結局治らなかった。


「だから私は、母の許しを得て、死にゆく母の身体を、開きました」


道三は、息を呑んだ。


その一言に含まれる意味を、正確に理解したからだ。


「幼い頃より母に教わり多くの体を開いてきました。肉の温もり、臓の動き、臓腑の位置、血の巡り、急所どれも母の元で見て、行い、教わりました。しかし活動を終え徐々に冷たくなる臓腑の動きを見たのはそれが初めてでした。そして理解しました。.........もっと早く開きたかったと。」


桃慧の表情は後悔や悲しみの表情ではなくどこか自分を口惜しさが滲むようだが無表情で恐ろしい表情だった。


「母は、最後に申しました。“怖がるな。知ることを恐れるな。理を知る者が、次の命を救う”と」


桃慧は、そこで一度、言葉を切る。


「母は、恐らく異端でした。でも…私の中ではそれが常識であり…母は誰よりも、人の命を大切にしていました。信者達だけでなく旅の途中で倒れた者、戦に敗れ逃げてきた武家の方、どんな人も救いました。」


そして、はっきりと告げた。


「私は、その医を継いでいます」


沈黙。


曲直瀬道三は、深く、深く頭を下げた。

「……すまぬ」


その謝罪は、母ではなく、娘へ向けられたものだった。


「だが、よく生き延びた。そして……良くここまで来た」


信長は、黙したまま二人を見つめていた。


この場で交わされているのは、過去の清算ではない。

未来を、誰が守るのか

その確認だった。

そして、三人は理解していた。

ここから先は、もう引き返せない場所に来ているのだと。

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