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16 均衡が崩れる時

 私とクレアがコーウェン家のお屋敷で暮らしはじめてから半月が過ぎた。


 この間、ローガン次期侯爵の駆け落ちの件についてノア様がお話しなさることも、新たに尋ねられることもなかった。

 離縁はそれが解決してからになるのだろうけれど私はすでにノア様を信頼していたし、時間がかかることは覚悟していたので、焦れる気持ちはなかった。


 困ったことがあるとすれば、クレアがますますメイさんを慕うようになったこと。

 だけど、実のところクレアばかりでなく、私自身、開き直って甘えてしまうことにしてからメイさんと過ごす時間をただ心地良く感じていた。


 少しでも長くメイさんとクレアと3人でいたい。

 そんな浅ましいことを呑気に願っていられたのは束の間だった。




 その日はお昼休みになってもメイさんが工房に戻ってこなかったので、皆さんがそれぞれ昼食をとりに出て行ってから、私はひとりソファに腰を下ろした。

 メイさんがクレアをお屋敷まで送り届けてくれて、ついでに昼食を持ってきてくれることもすっかり日常のようになってしまった。


 ふいに扉の開く音がした。

 メイさんが使うはずの裏口ではなく、大通りに面した表口。


 咄嗟に振り向くと、金曜日に工房を見学した令嬢の姿があった。

 あの時はメイさんが不在だったから、また来たのだろうか。


 私は急いで立ち上がると、見学の方を迎える時のように頭を下げながら口を開いた。


「申し訳ありませんが、工房は休憩中なので店のほうに回っていただけますか」


 しかし、令嬢は真っ直ぐ近づいてくると、私の顔を覗き込んできた。


「どこかで見たことあるような気がしてあれから考えていたのですけど、あなた、パトリシア様ですね」


 思わず息を飲んでしまったことで、令嬢は肯定と受け取ったらしく「やっぱり」と呟いた。


「人違いではありませんか?」


「そんなはずないわ。あなたほど背の高い女性、なかなかいらっしゃいませんもの。結婚式の時、花婿より大きい花嫁もいるのかと驚きました」


 心臓が嫌な音を立てた。

 あの結婚式の決して多くはなかった参列者の中にいたということは、彼女は……。


「次期侯爵夫人がこんなところで何をなさっていらっしゃるの? ローガン家があなたを離縁したとはまだ聞いておりませんが」


 令嬢に嘲るような視線を向けられて気づいた。

 私は彼女に見覚えがあったのではなく、彼女が私のよく知る人にどことなく似ていたのだと。


「まあ、別にあなたがどこで何をしようが私は構いませんが、なぜアンダーソンドレス工房なのかは気になりますわね。まさか、メイナード様なら夫を持つ身でも誑かせるなんて思っているのかしら?」


「そんなこと、思っていません」


 強く否定した私を、令嬢が睨めつけた。


「そうですわよね。あなたはそんな格好で縫い物をする姿もお似合いですけれど、メイナード様はこんな場所でドレス作りなどをすべき方ではありませんもの」


「どうして、メイ、ナード様がドレスを作るべきではないのですか?」


 事を荒げるつもりはなかったが、令嬢の言葉が引っかかって訊いてしまった。

 いつものように「メイさん」と呼ぶのだけは何とか堪えた。


「どうして? あなたはメイナード様がコーウェン公爵弟でいらっしゃるとご存知ないの?」


「もちろん知っていますが、それとこれとは関係ないではありませんか。メイナード様は真摯にドレスを作っていらっしゃるのに、そのような言い方は失礼です」


「仰る意味がわかりませんわ」


 令嬢が鼻で笑った、その時だった。

 裏口の扉が開いて、バスケットを持ったメイさんが工房に入ってきた。

 たちまち令嬢が表情を変え、甘い声で「メイナード様」と呼んだ。


 だけど、大股で歩いてきたメイさんは令嬢のことは一瞥しただけだった。


「お待たせしてすみませんでした。お腹空きましたよね。早く食べましょう」


 いつもどおりの笑顔を向けられて、私は安堵を覚えた。


「メイナード様」


 令嬢が存在を主張するように再びメイさんを呼ぶと、メイさんもそちらに視線を向けた。


「騙されてはいけませんわ。その方は悪妻と噂のローガン次期侯爵夫人ですのよ」


 メイさんは小さく嘆息してから口元にだけ笑みを浮かべた。


「どうぞお引き取りください」


 初めて聞くメイさんの冷淡な声に、私までドキリとした。


「客である私をそんな風にあしらってよろしいのですか?」


 令嬢のムッとした表情には媚びが滲んでいた。


「あなたがうちのお客様と言えますか? 確かにあなたはここに何度もいらしてはいますが」


「ドレスはお父様やお母様が別の仕立て屋に頼んでしまうから……」


 令嬢は恥じるように顔を歪めた。


「別にドレスを買っていただかなくても良いのです。来店されるお客様が皆ドレスを買ってくださるわけではありませんし、中にはあなたと同じ目的だろう方も何人かいらっしゃいます。ですが、そういう令嬢方もドレスを見たくて来たんだという振りくらいはするものです。だけどあなたはドレスどころかドレス職人の僕にさえ興味がありません」


「いえ、私はメイナード様にお会いしたくて」


「ええ、公爵弟の僕に、ですよね。それがこちらにとってどんなに迷惑か考えもせずに」


「迷惑だなんて、酷いですわ。ドレスを買ったことはなくても、メイナード様のお力になりたくて頑張りましたのに」


 メイさんが怪訝そうな顔になった。


「いったい何を頑張ったと?」


「こちらのドレスを着ると幸せになれると皆様にお話ししましたわ。それが広まったおかげで最近、注文が増えていますでしょう?」


 令嬢が胸を張ってそう言うと、メイさんは顔を顰めた。


「それこそ迷惑この上ないことです。だいたい、自らくだらない噂を撒いておきながらパトリシアさんの噂は鵜呑みにするなんて、矛盾していませんか?」


「パトリシア様のことは伯母様にお聞きしたのだから確かですわ。それなのにパトリシア様に惑わされて私に向かってそんなことばかり仰るなら、今度はこちらのドレスを着ると不幸になると噂を広めますわよ。ドレスが売れなくなって工房が潰れてしまってもよろしいのですか? もっとも、そうなればメイナード様は本来の公爵弟らしい生活に戻れますわね」


「そこまで言うならあなたには特別にコーウェン公爵弟として対応しましょうか」


 メイさんの纏う空気までがスッと冷たくなった。


「2度とここには来ないでください。それから、僕とパトリシアさんの前に現れないでください。噂は好きに撒いて構いません。ただし、コーウェン家が最大の得意先であるアンダーソンドレス工房が潰れるなんてありえないし、むしろ困るのはコーウェン家を敵に回すハミルトン家だということを覚えておいてくださいね」


 令嬢は顔を青ざめさせながらも、口を開いた。


「未亡人の次は夫に捨てられた人だなんて、メイナード様は趣味が悪すぎますわ」


 令嬢はそう言い捨てて工房を出ていった。

 扉が閉まると、メイさんが眉を寄せて私を見下ろした。


「嫌な思いをさせて、すみませんでした」


 私は「いえ」と首を振った。

 様々なことが頭の中のグルグル回っているが、まず確認すべきことは決まっている。


「メイさん、あの方はハミルトン侯爵令嬢なのですか?」


「面識があったわけではないんですか?」


「多分、5年近く前に1度だけお会いしたのだと思います。ハミルトン家はローガン侯爵夫人の実家、あの方は姪です」


 結婚式の参列者もきちんと紹介してもらえなかったので顔は曖昧だが、13か14歳の令嬢がいたのは覚えていた。


「そうだったんですか」


「申し訳ありません。先週、彼女が工房に来た時に隠れていればよかったのに油断していました」


「大丈夫ですよ。パトリシアさんが外で働いている以上こういう可能性があることくらい折り込み済みだ、ってノアが言ってましたから」


「ノア様が」


 それは心強い。


「でも、しばらくは要注意ですね」


「はい」


「今はとりあえず、急いでこれを食べましょう」


 メイさんにバスケットを示されて、昼食がまだだったことを思い出した。

 いつものように向かい合ってソファに座り、メイさんが並べてくれたサンドウィッチを食べた。


 メイさんに訊いてみたいことは他にもあったけれど、私が訊くべきではないとも思って黙っていたが、顔に出ていたのかメイさんが首を傾げた。


「何か?」


「あの、メイさんはやっぱりノア様の弟なんですね。あんなお顔もできるなんて」


「ああ、貴重ですよ、滅多にしないので」


 メイさんはそう言って笑ってから、何か考えるような表情になった。


「ずっと両親やノアに守られてきたから、する必要がなかったんです。だけど、いつまでも甘えてばかりはいられないですよね。僕はドレス職人だけど、コーウェン公爵弟でもあるんだから」


 ふと、私とハミルトン侯爵令嬢の会話は工房に入って来る前からメイさんの耳に届いていたのではないかと思った。

 ハミルトン侯爵令嬢に対してまるで私がメイさんをわかっているかのようなことを言うなんて、私こそ失礼だったのではないだろうか。


 それに、ハミルトン侯爵令嬢が私の知らないことを知っているのは間違いない。

 おそらく彼女が口にした「未亡人」はメイさんの特別な方だったのだ。

 どんな方なのだろう。もしかしたら、今もメイさんにとって特別なのだろうか。

 休憩時間が終わってからも、針を動かしながらそんなことばかり考えてしまった。


 メイさんの特別な方のことが気になるのはなぜなのか。

 こちらの疑問の答えはすぐに出てしまいそうで、考えないようにした。




 いつものように荷馬車の御者台にメイさんと並んで座ったが、いつもと異なり馬車が走り出してもメイさんは黙ったままだった。

 メイさんも何かを考えている様子だった。


 コーウェン邸が見えてきた頃、沈黙に耐えかねて私が「あの」と声をあげると、ほぼ同時にメイさんの「あの」が聞こえた。


「パトリシアさん、先にどうぞ」


「メイさんがお先に話してください」


「いえ、パトリシアさんからで」


 このままでは堂々巡りをするうちにお屋敷に到着してしまいそうだったので、考えていたことを口にした。


「縫製のお仕事も在宅でできるのでしょうか?」


 少し間が空いてからメイさんが答えた。


「それはできますけど、なぜそんなことを訊くんですか?」


「ローガン家と離縁できて実家に帰ってからもお仕事は続けたいのですけれど、メイさんも仰っていたとおり家の馬車で送迎してもらうわけにはいきませんから。せっかく仲良くなれた皆さんと一緒に働けないのは残念ですが」


「それなら別に今までどおりでいいじゃないですか」


「コーウェン家から実家までは少し離れていますし、いつまでもメイさんを頼ってばかりでまた今日のような誤解をされたら申し訳ありません」


「誤解、ですか」


 馬車はコーウェン家の門を潜り、お屋敷に向かっていた。


「ハミルトン侯爵令嬢だけでなく、メイさんの大切な方が私との関係を誤解なさったら大変でしょう?」


「僕が今、一番誤解されたくない人はパトリシアさんです」


「え?」


 聞き間違いかと思わずメイさんの横顔を見上げた。わずかに怒っているように見えた。


 馬車が玄関の前に着くと、先に降りたメイさんが私に手を差し出した。それを借りて私も馬車を降りた。

 だけど、私の両足が地に着いてもメイさんの手は私の手から離れず、逆にギュッと握られた。


「メイさん?」


「僕が今、誰よりも大切にしたいのはパトリシアさんです」


 次の瞬間、メイさんの顔が近づいてきて、私の唇に柔らかくて温かいものが触れた。

 それがメイさんの唇だと気づくまで少し時間がかかり、気づいた時にはメイさんの手を力いっぱい振り解いてその場から逃げ出していた。


 自ら扉を開けて玄関に飛び込み、奥から迎えに出てきたクレアを抱き上げてそのまま客間へ。


「おかあさま、どうしたの? メイは?」


 混乱するあまり、クレアの問いかけに返事をすることさえできなかった。


 どうしてメイさんは私に口づけなんかしたのだろう。

 あんなことをされたら、出すつもりのなかった答えが勝手に心の奥から溢れてきてしまう。

 私にとって、メイさんは特別な方なのだと。

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