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夏の日〈下〉

『夏の日ver夏樹』はここで終了。次回から『夏の日ver司』です。

 病室の窓から見渡す風景は白く陰っていた。


「ごめんな。司君、ごめん」


 シーツに沈む司君は応えない。


 柔らかな日差しが司君の白く滑らかな肌に触れていたが、空を漂う雲が太陽を横切ったのか、彼の顔にゆっくりと影が下りた。


 私は手にした紙パックの珈琲牛乳を握り締めた。突き刺さったストローごとグシャリと歪んで潰れた。先ほど綾音がくれたものだ。「良かった」と、そう言って綾音は私を抱き締めた。「軽い脳震盪です。もう少し検査の必要はありますが、安静にしていれば大丈夫」。医者は笑って言った。「目覚めるまで側にいなさい」。父はそれだけ言って去っていった。全ての煩雑なやり取りを父と潟無の関係者が片付けるのだと察した。一年前と同じように。


 もしかしたらこの事故は無かったことにされるのかも知れない。「日本って日本人が思うほど民主化されてないからなぁ」。一年前、綾音が自嘲気味に呟いた言葉を思い出す。「地方の有力者はお殿様」この地域では潟無家がそれに当たるのだろう。アンタッチャブル。たぶん私が警察の取り調べを受けることはないだろう。あの場所から私たちの存在は抹消される。


 そうなれば私の行動を責めることが出来るのは私だけだ。


 呻くような溜め息が漏れ出した。私は司君に対してどのような責任の取り方が出来るのだろうか? 父から与えられた役目は側にいること。体調が戻るまで私が司君を介護するのは当然だ。でも、もし再検査でもっと悪い怪我が見つかったらどうしよう?


「ごめんなさい、ごめんなさい」


 泣く資格なんてないのに涙が流れた。うなだれて呻く。おこがましくも司君に縋りつこうと伸ばした手を胸に抱いた。そんなことする資格なんてないし、……否、本当は怖くて出来なかった。最低だ。


 それからどれ位経っただろうか?


 ぼんやりと司君の顔を眺めていると、男の子にしては長すぎる睫毛がピクリと揺れるのに気が付いた。


「‥‥司君?」


 声を掛けるとうっすらと司君の瞼が開いた。視線が私に向けられる。


「‥‥な、つき、さん‥‥?」


「司君、大丈夫?」 我ながら馬鹿な質問をしてしまったと言った直後に後悔した。


 今の状況などまるで分からないだろうに、司君は私を安心させるようにか、とても穏やかで柔らかな笑みを微かに浮かべた。


「ええ、大丈夫ですよ」


 その言葉に思わず安堵してしまった私は愚かな子供だった。



 司君が目覚めてからの病室内での幾つかの煩雑なやり取りを私はぼんやりと眺めていた。


 少し疲れてしまったのかも知れない。


 綾音が明日見舞いに来ると父が話しているのを、どこか遠くの出来事のように聞いていた。


「衝突の瞬間に脱力していたこと。跳ばされた先がコンクリートではなく土であったこと。それを加味しても奇跡的です。やはり衝突や着地の瞬間に、上手く力を受け流したとしか‥‥おそらく殆ど無意識的にやってのけたのでしょう。流石は潟無さんの所の方だ。常人からは及びもつかない離れ技です」


 医者が興奮して言う。当然だ。司君は天才なのだ。私からも及びがつかないほどに‥‥


 医者が去ってから、父と私と司君の三人だけが病室に残された。父は私に道場へ帰って休むことを勧めたが、私は固辞した。


 これと言ってやることもない私はパイプ椅子に座りながら相変わらず他人ごとのように父と司君の会話を聞き流していた。


「‥‥‥‥だから、司君はゆっくりと養生して欲しい。それ以外のことは大人達がキチンとけじめをつけるから、何も心配することはないよ。司君は正しいことをした。それは確かなことだ‥‥‥‥」


 父がいつものように穏やかに話す内容を、司君も落ち着いた雰囲気で静かに聞いていた。


「‥‥家族の方もとても心配していらした」


 その言葉を耳にするまでは‥‥


 ぞくりと背筋に悪寒が走った。


「……家族ですか」


 司君の顔には相変わらずの微笑み。だが、目だ。瞳があの目になっている。輝きのない目。これは司君が集中している時か緊張している時に見せるものだ。


 僅かな沈黙があった。「……その、下世話な話なんですが入院費とか大丈夫なんですか?」


 それは司君にしては随分と空気の読めない発言だった。


「勿論、心配いらないよ」


 父はにこやかに応えた。安心させようという気遣いが垣間見えた。


「ああ、良かった。すみません。何だか色々な事が気になってしまって……」


 あはは。と頭を掻きながら司君は照れ笑いをした。


「ふふ、あっ……そうそう、家の人は何か言っていましたか?」


 ふと、気になったとでも言うような声色。


「うん。君の様態をとても気にかけていらしたよ」


 父は座ったパイプ椅子の上で、組んだ脚を組み直したがら言った。


 司君は乾いた笑い声を漏らす。


「電話に出たのは僕の父ですね?」


「うん。そうだよ」


 頷く父を司君は真っ直ぐ見ていた。否、観察していた。まるで稽古の最中かのように。


 それは瞬間的なもので、次の瞬間にはふっと息を吐いて緊張を解いた司君がいた。何だか私は彼ばかり見ているような気がする。


「……すみません。少し喉が渇いてしまいました」


 司君が申し訳なさそうに訴えると父は私に自販機でジュースを買ってくるよう頼んだ。


 私は財布を片手に部屋から出た。珈琲牛乳を買おう。私はあれが大好きだ。


「って、司君に何欲しいか訊いてないやん」


 馬鹿か、私は……


 クルッと廊下に踏み出した足を軸に反転すると部屋のドアに手をかける。司君は炭酸苦手かな? スポーツ飲料かお茶が良いかも。珈琲牛乳は……嫌いな人とかいないだろ。


「……! ……!」


 ……?


 部屋から何やら声が聞こえる。別段可笑しな状況ではないにしても、何となく扉を開けるのに戸惑いを感じさせる雰囲気を肌に感じた。

 普段の私なら、きっと部屋に入ることはなかっただろう。けれど、司君が目覚めたことによる安堵と積もり積もった疲労が私を不用心にさせたのだ。

 伸ばした指を惰性のままにドアノブにかけ、至極暢気な心持ちで閉ざされていた部屋を開いた。


「……それで、あの人は幾ら請求したんですか」


 司君の声だ。私が部屋に入ったことに気が付いていないようだった。


「隠さなくとも分かります。……あの人ならそうする筈です」


 父さんは応えない。


「……お願いです」


 司君はベッドから飛び降りるかのような勢いで両膝を立て、そのまま土下座しようとした。あまりにもいきなりな司君の行動に驚いた父さんが慌て止めようとするが、司君はシーツに頭を押し付けたながら言い募った。


「母さんを軽蔑しないで下さい! あの人とは無関係なんです! だから母さんの事まで軽蔑しないで下さい!」



 何が起こったのか、この目で見ていながらそれを理解することが出来なかった。ただ一つはっきりしていることは私の前で初めて司君が感情的になった姿を見せたという事実だ。


 あの後、父さんが何とか場を諫めて、独りになりたいと言う司君の要求に応える形で私と父さんはその場を後にした。正直、普段からは考えられないような不安定さを見せた司君を独りにするのは良くないのではないかと思わずにはいられなかったが、自分から側にいると言い出せる勇気もなく、父さんに従って部屋から去ったのだ。

 それから司君の事が気になって仕方がなかった。翌日の朝には、私は司君の病室の前に一人訪れた。

 扉を前にして私は動けなくなった。手には100円の珈琲牛乳が握られていた。


『……私はどうしてここに来てしまったんだろう』


 顔を合わせれば気不味くなるに決まってる。


『私はまだ司君にちゃんとしたお礼を言っていない。でもそれは私の都合だ。多分……司君は今私に会いたくない……と思う』


 司君の目を思い出した。光さえも映さない瞳。無感情に無機質に人を観察する彼はきっと躊躇無く人を壊すことの出来る人間だと私は疑いも無く信じていた。


『……けれど、司君は身を犠牲にして人を救った。知りもしない他人……それも、悪人を……』


 何故……?


 五条司という人間像がブレて定まらない。私は何も知らないのだ、彼のことを。あの瞳が何を映していたのかを……


 意を決して個室のドアに手を伸ばした。


 部屋の中で司君はベッドに深く沈んでいた。彼の胸元が呼吸に合わせて上下する。

 私は彼の眠りを妨げないように注意しながら、ベッドの脇にある椅子に腰掛けた。


 昨日とは逆に眠っている彼に安心している自分がいた。

 柔らかな髪質の黒髪、小さく整った顔のパーツ、長い睫毛、すっきりした鼻筋。かつて司君は母親に似ているのだと、どこか照れくさくそうに、けれど確かに嬉しげに話していた。安らかに眠る姿は天使のようだと凡俗な例えが脳裏に浮かんだ。


「……司君」


 小さく名前を呟いてみると、目蓋がピクリと動いた。彼の瞳が細く緩やかに露わになる。力なく開かれた唇から息が漏れた。ひどく幼げな印象を与える目覚めの寝ぼけ顔だった。


「おはようございます。夏樹さん」


「おはよう」


 気だるげになされた挨拶に応える。


「調子どう?」


 手の中で珈琲牛乳を弄ぶ。


「……良い感じですよ」


 司君は拳を額に当てた。呟くと同時にニヤリというように唇を自嘲気味に歪めた。今までに見せたことのない表情だった。


「昨日は……すみません。あんな醜態を見せて。恥ずかしいですよね」


 彼はそう言うとため息を吐いた。随分陰鬱な様子だった。私は少し居心地の悪さを感じて、身じろぎした。普段の司君はとても上手く感情をコントロールしているから、他人をこんな気分にさせることなどあまりないのに……


『……って、何でやねん。私、年上やろうがっ! 何でいっつも年下に気ィ遣わしてんねん。司君に甘えようとしてんちゃうで……あほ』


 ここは年上だからこそ果たすべき役割があるだろう。司君は2歳も年下なのだ。それなのにいつも周りに気を使って自分の感情を表に出すことをしない。

 今こうして司君は私に弱さを見せている。見せずにはいられなかった。

 悩みや苦しみがあるのならただ聴いてあげるべきなのだ。アドバイスなんて出来るほど私はたいした人間ではないけど、聴いてやることくらい出来るのだから。


「その……司君」


 椅子に座り直して姿勢を正す。そのまま深く頭を下げた。


「本当にごめんなさい。私の軽率な行動で司君にこんな怪我をさせてしまって、申し開きのしようもないと思っている」


 ゆっくり顔を上げて司君を見つめた。今の私は情けなく映るだろうか。でも、誠意だけは通じてほしい。それは身勝手な願いかも知れないけど。


「……そして、ありがとう。彼を助けてくれて。私は私の覚悟もないままに誰かを殺さずに済んだ」


 「殺すだなんてそんな……」と司君は困り顔で呟いた。結局、私は彼を困らせているのか。ちょっとだけ怖じ気付いた。私はやっぱり自分勝手だ。


「殺していたかも知れないだ。……司君もそうなっていてもおかしくなかった。私は……」


 息が詰まった。何で喉が震えるんだ。意気地なし。


「私は……司君を殺していたかも知れないんだ」


 言葉にしてしまった。恐ろしい可能性だったけど、事実としてそうなっていても何ら不思議ではない状況だったのだ。握り締めた拳が震えた。泣くなよ。卑怯者。泣いて許されたいのか。違うだろ。拳で涙を拭った。


「私は司君に大きな恩義と責任がある。必ず償いをするつもりだ」


「止めて下さい。夏樹さん。そのようなことを僕は望んでいません。……自分がしたことの責任は自分で取ります。夏樹さんの行動は確かに軽率だったかも知れません。けれどそれ以上に軽率で愚かだったのは僕の行動です」


 そう言うと司君は頭を下げた。


「ごめんなさい。たくさん心配させて。迷惑もたくさんおかけして……ごめんなさい」


 困ったのは私だ。おかしい。こんな筈じゃなかったのに。


「い、いや! 司君こそちゃうやろ! 頼むから謝らんとって」


 席から立ち上がって司君を肩を掴んで顔を上げさせる。か、顔が近い、って何やってんだ私は! アワアワとしてしまった。い、いけない。席に座るとゴホンと咳払いをする。呆気にとらえていた司君はクスクスと笑った。


「そ、その……司君! やったらこうしょ。私は司君の味方になるわ。どんな時でも誰に対してでも司君の味方になる」


「味方ですか?」


「そう。絶対に裏切らへん」


「……そんな」


「もういい! せやないと気が済まへん。私の身勝手やけど、貫かせてもらう」


 スッと息を吸って決意を込めて言う。


「私は司君の味方や」


 司君は驚いた顔をしている。その瞳には一瞬の光が見えた気がした。見間違いでも良かった。その瞳に映るものを私は知りたいのだ。

 い、勢いが大切だ! でえいやっと腕を伸ばして司君の手を握った。ってうわー、ハズい。想像を絶してハズい。


「……!? えっ、あの、その。こういう時に、何と言えば良いのか……あの! ありがとうございます。……う、嬉しいです」


 美少女風な司君がテンパると、私がナンパしてるみたいで何か変だ! いや、司君でもテンパるんだな……って感心している場合じゃない。


「……だからな、司君。悩み事や辛い事があっても、私に頼ってほしいねん。私が味方やねんから、もう1人で苦しむ必要ないねんで」


「……はい。その……やっぱり昨日の事ですよね?」


「正直に言うとそれもあるんやけど、私に聞かせたくないやったら話さなくていいんやで? ただ話し聞くだけでも私にはできるし。1人で抱え込んでおくには辛いこともあるやろ?」


 司君は暫く考え込んだ。思わずキュッと彼の手に力を込めてしまった。「助けになりたい」その思いが通じてほしいと、ただ願った。


「……分かりました。お話しようと思います」


 でも、と言葉を続ける。


「明日以降いらっしゃってくれる機会にお話します。今日のところはこれくらいで勘弁して下さい」


「うん。ごめんな、急に押し掛けて」


「いえ。ありがとうございます」


 手を放した。冷たくて握り心地の良い手だった。


「じゃあ。司君。体労って養生するんやで?」


「はい。夏樹さん」


「じゃ。またね」


「……あの!」


 部屋を去ろうとした時、司君に呼び止められた。


「僕も夏樹さんの味方になります。ならせて下さい!」


 私は思わずクスリと笑ってしまった。好敵手で味方なんて、それはもうただ仲間じゃなくて……


「じゃあ、私達は友達やな! 宜しく司君!」


「ぁ……、よ、宜しくお願いします。夏樹さん」


『あぁ……司君。そんな表情も出来るんやね。泣き笑いなんて……あかん。私も貰い泣きしそうや』


 最後にサヨナラと空元気でも精一杯の笑顔で手を振って部屋を出た。

 堪えていた涙を廊下の壁にもたれて流した。

 司君はずっと1人で何かと戦って傷付いてきたんだ。私もそうだ。私もいつか彼に話さないといけない、あの時のことを。


「よしっ」


 袖で目元を強引に拭って歩き出す。今更ながら周りの目が向けられていたことを知って恥ずかしくなった。


「あ……」


『……珈琲牛乳』


 左手には握り締められて変形した珈琲牛乳があった。忘れていた。もしかしてずっと握っていたのか。

 司君の病室を暫く未練がましく眺める。


『しまらんなあ』


屋上で飲んで帰ることにした。

ここを区切りに本編を改修しようかと思います。中途半端で申し訳ないです。

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