拾われた手記
物流街区で仕事を探そうと思っていたんだ。
新交通の改札のゲートに端末をかざしたが、入場が承認されなかった。
もう一度かざしてみたが、結果に変わりはない。
外の日差しは眩しく、人気のない改札のゲートを明るく照らしている。
この街で承認なしにできることは、もう歩くことくらいしか残っていないということらしい。
もう大学には戻れないし、連絡できる先もない。
低くなったとはいえ、ここまでのスコアじゃないと思うが、現実は受け入れざるを得ないよね。
"I'm leavin' town, cryin' won't make me stay"
仕方なく、目的地の会社に向かって、物流街区を歩いていた。
倉庫と倉庫の間が大きく開いていて、古びたアスファルトで固められていた。
そこを斜めに横切るように、真新しい舗装が伸びている。
その舗装の境目の段差に、口を輪ゴムで二重に留めた透明のビニール袋が挟まっていた。
中身は紙。十枚ほどの切り取られたノートだった。
周りを見たが、誰もいなかった。誰かが意図して残したように思えた。
ビニール袋越しに、一枚目の最初の行が目に入った。
「これを読む人間がいるとは思っていない」
袋を拾って輪ゴムを外した。紙は湿気を吸って波打っていた。
青いボールペンで書かれていて、文字がぎっしりと詰まっていた。
本文は四つに区切られ、区切りごとに漢数字が振られていた。
▽ ▽ ▽
〈一〉
これを読む人間がいるとは思っていない。それでも書く。
書くという行為には、読み手がいなくても意味があると思いたい。
最初に断っておくが、私は平凡な人間だ。物流会社の在庫管理を十四年やっている。
テニヤギ物流という小さな会社だ。
埋立地の第三倉庫の二階に事務所があって、窓からはコンテナの列と、対岸のクレーンが見える。
倉庫は段ボールと機械油の匂いがする。十四年嗅いでいるが、嫌いな匂いではなかった。
妻がいて、子供はいない。スコアは703だ。
休日にはよく妻と買い物に行った。
妻は買う気もない炊飯器の蓋を開けては閉め、内釜を持ち上げて重さを確かめ、店員が寄ってくる前に離れる。
結局いつも何も買わない。帰りに一階の食品売り場で見切り品のパンだけ買う。
それが始まったのは、自販機からだった。
三階の給湯室の横にある、飲料の自販機だ。私は毎日昼休みの終わりに缶コーヒーを買う。
銘柄も決まっている。左から二列目、上から三段目。
その日、端末をかざすと、読み取り部の上で赤いランプが点いた。
豆電球ほどの小さな赤い光で、点いたことに気づくまで一秒かかった。残高はあった。
結局は買えずに、自分の席に戻ることになった。
翌日には直っていて、機械は何事もなかったように缶を落とした。
それからも、認証が通らないことがあった。改札で一度。社員食堂の精算機で一度。クリーニング店の受け渡しで一度。
どれも翌日には直っていた。直るたびに、私は安心し、安心する自分に苛立った。
その間、スコアは下がり続けた。システムの運用局に問い合わせても、返答は毎回同じだった。
「総合的評価によるものです」。総合的という言葉は便利だ。何も言っていないが。
私自身は何も変わっていない。同じ時間に起き、同じ経路で通勤し、同じように在庫を数えていた。
〈二〉
同僚の戸川がいなくなったのは、秋のことだった。
戸川は太った男で、夏でも長袖を着ていた。汗だくになりながら、それでも腕をまくることはなかった。
娘が一人いて、小学校の運動会の話をいつもしていた。徒競走の順位が毎年一つずつ上がっていた。
机の上には娘の写真立てと、飲みかけの緑茶のペットボトルが、いつも同じ位置にあった。
月曜に出社すると、戸川の席だった場所に複合機が置いてあった。
灰色をした、腰ほどの高さの業務用複合機で、給紙トレイには紙が補充され、通電ランプが緑に点いていた。前からそこにあったように。
だが、複合機の脚の位置から少しずれたところに、椅子のキャスターが長年擦った跡が薄く残っていた。
私はそれを見てから、総務に行って、戸川さんは異動ですかと聞いた。
総務の若い男は端末から顔を上げて、少し困った顔で、「そういう社員は、いませんが」と言った。
冗談だと思った。戸川とは十年以上、隣の島で働いてきたんだ。
私はロビーに降りて、創立記念の集合写真を確かめた。額に入れられ、受付の横に掛かっている、あの写真だ。
撮影の日は小雨で、何人かの肩が濡れていたのを覚えている。
戸川は二列目の右から五番目にいたはずだ。徹夜明けで、ひどい顔で写っていると本人が笑っていた。
写真の二列目、右から五番目には経理の女性がいる。整然と並んでいる。
私は、その晩から、記録を紙に残すことにした。
そうしておかないと、すべてが消えてしまうような気がした。
亡父の遺品に、未使用のノートが何冊かあった。
戸川の名前、娘の名前、キャスターの跡。書けることは全部書いた。
本当に役に立つのかは分からなかったが。
次にいなくなったのは隣人だった。隣の部屋に住む老人だ。
白い小型犬を飼っていて、左の耳だけ茶色かった。
老人は毎朝六時半にゴミを出し、エレベーターで一緒になると会釈をする。
それだけの間柄だ。
ある日、犬の鳴き声が聞こえなくなった。
数日して老人の部屋の表札が消えた。
取り付け用のボルトの跡は残っていたし、表札が掛けてあった壁は、そこだけ日に焼けていなかった。
妻に言った。妻はアイロンをかけていた。私のワイシャツの袖のあたりだったことを覚えている。
妻はアイロンを置き、しばらく私の顔を見てから言った。
「隣は、前から空き部屋よ」
それから、優しい声で続けた。
「最近、疲れてるのよ。一度診てもらったら。そういうのは早いほうがいいし、放っておくと、スコアにも響くんじゃないかしら」
妻は私を心配していた。それは本当だと思う。
だが、その心配の中にスコアという言葉が混ざることに、私は寒気を覚えた。
〈三〉
その次は職場だ。建物ごと。
いつもの通りに歩いて、いつもの角を曲がると、社屋のあった場所を、見覚えのない高架が横切っていた。
継ぎ目のない灰色の橋脚が等間隔に並び、その上をモノレールが、当たり前のような顔をして通過していく。
まるで、この高架が最初からそこにあったかのように。
私は公衆端末で会社の代表に電話をかけた。
「該当する番号は存在しません」
次に私の就業記録を照会した。
「三年前から求職中です」
次の週には駅。
駅の案内図からその路線だけが抜けていた。抜けた跡には、残りの路線が等間隔に並び直されていた。
窓口で聞くと、親切そうな係員は、そんな路線は昔からありませんよ、と丁寧に教えてくれた。
乗客はほとんどいなかった。
暇なのか、奥から路線図を持ってきて、ほら、そんな駅はないでしょうと教えてくれた。
私は、駅員の善意に満ちた笑い顔に合わせて、いやあ、勘違いでした、と微笑んでみせた。
そして、駅が無くなっただけでなく、段々と歩いていける範囲も狭まっていった。
駅に向かう道路は途中で途切れ、その先には灰色の岩場があった。
岩には断面があり、断面には層があった。灰色と赤錆色の細い縞。
手を当てると冷たく、わずかに湿っていて潮の匂いがした。
ある朝目が覚めると、妻が台所にいなかった。いつも妻はそこにいるはずだった。
洗面所にもいなかった、風呂場にも。玄関には靴が残されている。
あちこちに電話をかけて、最後には役所で婚姻の記録を照会した。
結果は書くまでもない。
呆然とする私の目に留まったのは、冷蔵庫の下でかすかに光るものだった。
のぞき込むと、イヤリングがひとつ落ちていた。安物の銀色の小さな輪。
留め具のバネが緩くて、よく落ちると妻が言っていた。
失くしたと言って、二人で一時間も探して、見つからなかったものだ。
〈四〉
私はもう終わりが近いのだろうと思いながら、自分の部屋にいる。
なぜなら、そこにしか居場所がないからだ。
廊下だったものは、白くなだらかに続く砂の道で、突き当たりに灰色の岩が見える。
ドアの下の隙間からは砂が入ってきて、薄く積もっている。
廊下の向こうの玄関だった場所は岩の連なりで、その向こうは海だ。
こんなに手際よく私の世界が消えていくものだろうか。
私の周りにこれまであった世界は消えていく。
岩と砂、そして海がそれに取って代わる。
現実とは何かを考えてみる。私の知覚や認識に関わらず、外部に存在するもの。
だとすれば、妻は今も私の傍にいて、私を痛ましそうに見つめていて、しかし、私にはイヤリングしか見えないのかもしれない。
段々と砂が増えてきた。イヤリングはポケットに入れた。
私は、自分一人の認識が歪んでいると信じる。
妻はいるし、世界は続いている。
この混乱した手記を拾う人よ。私はいた、紛れもなく。
検索してほしい。調べてほしい。私の番号は、3412。3412だ。
△ △ △
最初、僕は、これを病人の記録だと思っていたんだ。
半分くらいまでは、そう読んでいたと思う。
そう読めなくなったのは、「総合的評価によるものです」の一行からだ。
同じ文面を自分の端末でも見たことがあった。
3412を検索してみる。
「該当するレコードが見つかりません」
この言葉に覚えがあったのさ。
僕はその言葉に引きずられるように、昔のことを思い出す。
頭上では配送ドローンが一機だけ、何事もないかのように通り過ぎていった。
◇ ◇ ◇
────────────
NODE-0928 承認ログ抜粋 対象:多賀谷
信用スコア:588 → 571(基準未達)
記録台帳照会履歴:対象レコード不存在エラー 1件
────────────




