第二話 捨てられるには、あまりに静かな座敷
座敷の空気は、妙に整いすぎていた。
床の間には、季節に合わせた梅の掛け軸が掛けられている。香炉からは淡い香が立ち、茶碗の位置も菓子皿の向きも、きちんと客を迎える形に整えられていた。
けれど弥生には、それがかえって不自然に見えた。
誰かをもてなすための座敷ではない。
誰かに逃げ道を与えないための座敷だ。
直之は弥生の正面に座っていた。いつもなら、少し崩した膝の上に手を置き、気安く笑ってくれる男だった。だが今日は違う。背筋を伸ばし、口元を固く結び、武家の嫡男らしい顔をしている。
その隣に、菊乃がいる。
弥生の妹であるはずの菊乃は、まるで最初からそこに座る資格があったかのように、控えめに膝を揃えていた。目を伏せ、薄紅の袖を重ねる仕草まで美しい。
母は菊乃の方を一度見て、それから弥生を見る。
父は不機嫌そうに口を閉じているが、その不機嫌は弥生へ向けられていた。面倒を起こすな、と顔に書いてある。
弥生は、膝の横に置いた風呂敷包みへ指を添えた。
中には、榊原家から預かっていた証文の写しが入っている。
今日ここへ持ってきた理由は、直之に問いただすためだった。
だが、どうやらこの座敷では、弥生が問いただされる側らしい。
直之が、ゆっくりと口を開いた。
「弥生殿」
「はい」
「急に呼び立てて、すまなかった」
「いいえ。大切なお話と伺いましたので」
弥生は静かに答えた。
直之の眉が、かすかに動く。
この場で泣かれるか、うろたえられるとでも思っていたのかもしれない。弥生が平常の声で返したことに、かえって直之の方が少しだけ戸惑ったように見えた。
直之の母が、扇を膝に置いたまま言った。
「弥生さん。今日はね、少しつらい話になります」
つらい話。
言葉だけは、弥生に寄り添っているようだった。
けれどその声には、もう結論が決まっている者の硬さがあった。
「はい」
弥生はまた同じように返した。
父が咳払いをする。
「弥生。お前ももう子供ではない。家同士のことというものを、よく考えねばならん」
母が続ける。
「そうよ。人の縁というものは、時に形を変えることもあるの。だからといって、すべてが悪い方へ行くわけではないわ」
形を変える。
弥生は、その言葉を胸の中で繰り返した。
割れる、ではない。
壊れる、でもない。
捨てられる、とは誰も言わない。
皆、弥生が傷ついていることを知っている。だからこそ、傷の名前を呼ばない。
直之は一度息を吸い、視線を畳へ落とした。
「弥生殿との婚約を、白紙に戻したい」
鹿威しの音がした。
からん、と乾いた響きが座敷の外で鳴り、また静けさが戻る。
弥生は瞬きを一度だけした。
「白紙に」
「ああ」
「理由を、伺ってもよろしいでしょうか」
直之は苦しそうな顔をした。
それが本当に苦しさなのか、苦しそうに見せたいだけなのか、弥生には分からなかった。
「そなたに、落ち度があるという話ではない」
よくある言葉だ、と思った。
落ち度はない。
けれど選ばない。
責めてはいない。
けれど捨てる。
そういう時、人は相手を傷つける刃を、できるだけ柔らかい布で包む。
「そなたは、昔からしっかりしていた。帳簿にも強く、家のことにもよく気がつく。俺も、何度も助けられた」
直之の言葉に、菊乃がほんの少しだけ顔を上げた。
だがすぐに、また目を伏せる。
「だが」
直之はそこで言葉を切った。
弥生は黙って待った。
こういう時、人は自分で続きを言った方がいい。
言わせた言葉ほど、後で逃げにくくなる。
「夫婦になるとなると、違う」
「何が違うのでしょう」
弥生が尋ねると、直之は唇を引き結んだ。
直之の母が助け舟を出す。
「男は、家に安らぎを求めるものです。弥生さんは立派な方だけれど、少し……そうね、強すぎるのよ」
強い。
弥生は、その言葉に不思議な苦味を覚えた。
強くなどなかった。
ただ、泣いても何も変わらないと知っていただけだ。
「直之様のお考えを伺いたく存じます」
弥生は直之から目を逸らさなかった。
直之は困ったように眉を下げる。
いつもならその顔を見て、弥生は助け舟を出していた。言いにくいことを先回りし、帳尻を合わせ、場が丸く収まるように言葉を選んできた。
だが今日は、助けなかった。
直之はようやく言った。
「そなたといると、叱られているような気がする」
その言葉は、覚悟していたものよりずっと幼かった。
弥生は何も言わない。
「そなたは悪くない。だが、俺は……家へ帰った時、帳簿の誤りや借財のことばかり聞かされるのは、苦しい」
「榊原家の借財は、放っておけば苦しむのは直之様です」
「分かっている」
「では」
「分かっているが、それでもだ」
直之は初めて声を強めた。
「俺は、夫として立ててくれる妻が欲しい。細かな間違いを正す女ではなく、隣で笑っていてくれる女がいい」
座敷の中で、誰も動かなかった。
菊乃だけが、ほんのわずかに頬を染めた。
弥生は、その色を見逃さなかった。
「それが、菊乃なのですね」
直之は答えなかった。
答えないことが、答えだった。
母が急いで口を開く。
「弥生、誤解しないで。菊乃があなたから奪ったわけではないのよ。ただ、縁というものは――」
「母上」
弥生は母の方へ顔を向けた。
「私はまだ、何も申しておりません」
登勢は言葉を詰まらせた。
父が苛立ったように畳を指で叩く。
「弥生、口を慎め。ここは榊原家だぞ」
「承知しております」
「ならば、聞き分けよ」
聞き分ける。
それは弥生がこれまで何度もしてきたことだった。
父が酒代を使いすぎても、聞き分けた。
母が菊乃の小袖を優先しても、聞き分けた。
菊乃が弥生のものを欲しがっても、聞き分けた。
榊原家の帳簿の乱れを押しつけられても、聞き分けた。
聞き分けた結果が、これだった。
直之の母が、今度は少し声を柔らかくする。
「菊乃さんは、直之にとてもよくしてくださるの。明るく、素直で、家の中も和みます。もちろん、弥生さんにも感謝しているのよ。これまで帳簿のことなど、本当に助かりました」
感謝。
また、その言葉だ。
弥生は膝の横の風呂敷包みを見た。
この中にあるのは、感謝の証ではない。
未返済にされた証文。
付け替えられた利息。
瀬尾家の印に似せた、不審な印影。
直之の母は続ける。
「けれど、妻となる方には、また別の務めがございますでしょう」
「では、私は何の務めを果たしていたのでしょうか」
弥生の問いに、座敷が静まった。
「婚約者としてでしょうか。帳簿係としてでしょうか。それとも、榊原家の借財を見えなくするための都合のよい者としてでしょうか」
「弥生」
父が低く唸る。
だが弥生は、もう止まれなかった。
声を荒げているわけではない。
ただ、いつも飲み込んでいた言葉を、飲み込まなかっただけだ。
直之が顔を上げた。
「そんな言い方をすることはないだろう」
「では、どのように申し上げればよろしいのでしょう」
「俺は、そなたを侮っているわけではない」
「はい」
「ただ、妻としては――」
「息が詰まる」
弥生が代わりに言うと、直之は黙った。
菊乃が小さく身じろぎする。
「姉様、そんな怖い言い方をしなくても……直之様もお苦しみなのよ」
弥生は妹を見た。
菊乃の目には、確かに涙が浮かんでいた。
けれど、それは自分の立場を守るための涙だった。
「菊乃」
「はい」
「あなたは、いつから直之様とお会いしていたの」
菊乃の肩が揺れた。
母が慌てて口を挟む。
「弥生、そのような問い詰めるような真似は――」
「問い詰めているのではありません。確認です」
弥生の声は淡々としていた。
直之が菊乃を庇うように言う。
「俺が会いたいと言った。菊乃殿を責めるな」
「責めておりません」
「ならば、なぜ」
「日付が必要だからです」
直之は眉をひそめた。
「日付?」
弥生は風呂敷包みを解いた。
畳の上に、証文の写しを一枚ずつ並べていく。
父がぎょっとしたように目を見開いた。
「弥生、今はそのようなものを出す場ではない」
「いいえ、父上。今だから必要です」
「何?」
「婚約が白紙になるのでしたら、私は榊原家の帳簿を見る立場ではなくなります。ですから、お預かりしていたものはすべてお返しいたします」
弥生は直之へ向き直った。
「ただし、いくつか不審な点がございます」
直之の顔色が変わった。
「弥生殿、今その話は」
「この証文。昨年末に返済済みのはずですが、こちらでは未返済として残っております」
弥生は一枚目を置く。
「次に、こちら。瀬尾家の印に似たものが押されておりますが、我が家の印ではございません。外枠の欠けが違います」
二枚目。
「さらに、こちら。利息の計算が合いません。過去の返済分が、別の借入へ付け替えられております」
三枚目。
座敷の中で、直之の母が扇を握りしめた。
直之は額に汗を浮かべている。
菊乃は、何の話か分からないという顔をしていた。
おそらく本当に分かっていないのだろう。弥生が見ていた世界は、菊乃が見ないで済んだ世界だった。
「弥生殿」
直之は低く言った。
「婚約の話をしている時に、金の話を持ち出すのか」
「婚約の話でございますから」
「何?」
「私は、婚約者として榊原家の帳簿を見てまいりました。今後その立場でなくなるなら、帳簿も証文も区切りをつけねばなりません」
弥生は、直之の目を見る。
「それとも、妻には望まれずとも、帳簿だけは今まで通り見よとおっしゃいますか」
直之は答えられなかった。
直之の母が、少し声を尖らせた。
「弥生さん、あなたは傷ついているのね。だから、そのように意地の悪いことを」
「意地ではございません」
「女がこのような場で証文を並べるなど、はしたないわ」
「では、証文の不備は見なかったことにいたしましょうか」
弥生がそう返すと、直之の母は口を閉ざした。
見なかったことにはしたい。
しかし、そう言えば不備を認めることになる。
弥生はそこまで考えて言ったわけではない。
だが帳簿の前では、人は勝手に逃げ道を失う。
父が顔を赤くしていた。
「弥生、お前は瀬尾家に恥をかかせる気か」
弥生は父を見た。
「恥は、証文にございます」
「黙れ!」
怒鳴り声が座敷に響いた。
菊乃が小さく悲鳴を上げる。
母が菊乃の肩を抱く。
弥生は黙った。
だが、頭は下げなかった。
直之が苦しげに言う。
「弥生殿、俺はそなたを嫌っているわけではない。ただ、菊乃殿を……その、守りたいと思った」
「そうですか」
「菊乃殿は、そなたのように強くない。誰かが傍にいてやらねばならない」
弥生は、不思議なほど心が静かになっていくのを感じた。
そういうことなのだ。
守られるのは、弱い者。
頼る者。
泣く者。
可愛らしく困る者。
黙って支える者は、守られない。
支えられるだけだ。
そして支える手が疲れても、誰も気づかない。
「直之様」
弥生は言った。
「菊乃をお守りください」
菊乃がはっと顔を上げた。
直之も驚いたように弥生を見る。
「それが、直之様のお望みなのでしょう」
「弥生殿……」
「ただし」
弥生は証文の束を直之の前へそっと押した。
「こちらは、必ずご確認くださいませ。私が今後、榊原家の帳簿を見ることはございません」
直之の目に、明らかな動揺が走った。
「それは困る」
その一言が、あまりに早く出た。
出た後で、直之自身がしまったという顔をする。
弥生は小さく頷いた。
「やはり、困るのですね」
「いや、そういう意味では」
「どのような意味でございましょう」
直之は言葉を探した。
だが見つからなかった。
弥生は、畳の上に置かれた証文を見た。
紙は沈黙している。けれど、何より雄弁だった。
母が泣きそうな声を出す。
「弥生、お願いだから、これ以上みっともない真似はやめてちょうだい。菊乃の幸せを祝ってあげなさい。あなたは姉なのよ」
姉。
その言葉は、弥生にとっていつも命令だった。
姉だから譲れ。
姉だから我慢しろ。
姉だから助けろ。
姉だから怒るな。
姉だから祝え。
弥生は母を見た。
「母上」
「何です」
「私は、菊乃を祝えばよろしいのですね」
「ええ。そうよ。それが家族というものでしょう」
弥生は、菊乃へ向き直った。
菊乃は不安げな顔をしていた。
その顔は確かに可愛らしく、守られることに慣れた娘の顔だった。
「菊乃」
「……はい、姉様」
「おめでとう」
弥生は言った。
声は震えなかった。
「直之様に、よく守っていただきなさい」
菊乃は、一瞬だけほっとしたような顔をした。
けれどすぐに、弥生の言葉の奥にある冷たさに気づいたのか、唇を結ぶ。
「姉様は、やっぱり怒っているのね」
「いいえ」
「怒っているわ。そんな言い方、祝っている人の言い方ではないもの」
弥生は少しだけ考えた。
たしかに、心から祝ってはいない。
妹の幸せを願うほど、自分は立派ではなかった。
だが、怒りだけでもなかった。
もっと深く、もっと静かなものが胸の底に沈んでいる。
「私はただ、覚えておこうと思っているだけです」
「何を?」
「今日のことを」
菊乃は黙った。
弥生は証文の束を直之の前に残し、風呂敷だけを畳んだ。
「お話は承りました。婚約破棄、謹んでお受けいたします」
直之の母が安堵の息をついた。
父も、ようやく肩の力を抜いた。
母は「分かってくれたのね」とでも言いたげに目を潤ませている。
その安堵が、弥生には一番堪えた。
皆、弥生が飲み込むことを信じていた。
そして実際、弥生は飲み込んだ。
ただし、今までと違う。
飲み込んだものは、腹の底で消えるのではない。
いつか形を変えて、必ず残る。
弥生は座敷に手をつき、深く頭を下げた。
「これまで、お世話になりました」
直之が何か言いかけた。
だが弥生は、それを待たずに立ち上がった。
廊下へ出ると、先ほどまで香の匂いが強かったはずなのに、鼻の奥に残っているのは紙と墨の匂いだった。
座敷の中で、父の低い声が聞こえる。
「弥生も、ようやく分かったようで……」
母の声も続いた。
「あの子は昔から聞き分けだけはよい子ですから」
聞き分けだけは。
弥生は廊下の途中で立ち止まった。
庭先に、まだ早い梅が一輪だけ咲いていた。
誰かに見られるためではなく、ただ寒さの中で咲いている。
弥生はその花をしばらく見つめた。
涙は出なかった。
泣けたら、まだ楽だったのかもしれない。
しかし涙は出ず、代わりに胸の奥で、冷たい算盤の珠がひとつ鳴った。
榊原家の門を出る時、女中が気まずそうに頭を下げた。
弥生は会釈を返す。
外の風は、座敷の香よりもずっと澄んでいた。
胸に刺さるほど冷たく、それでも息がしやすかった。
弥生は、空になった風呂敷を抱え直した。
もう榊原家の帳簿は持っていない。
けれど、あの座敷に並べた証文の違和感は、弥生の中に残っていた。
返済済みのはずの借金。
瀬尾家の印に似せた不審な印。
菊乃の髪を飾っていた珊瑚。
そして、直之の「それは困る」という声。
婚約は終わった。
けれど、帳簿の嘘は終わっていない。
弥生は歩き出した。
背後の榊原家を振り返らなかった。
今はまだ、何も持たない。
家へ帰れば、母にまた諭されるだろう。父には叱られるだろう。菊乃はきっと、怯えた顔で「姉様が怖かった」と言うだろう。
それでも弥生は、もう以前の弥生ではなかった。
捨てられた女。
そう呼びたければ、呼べばいい。
けれど、捨てた側の証文に嘘があるなら、話は別だ。
弥生は袖の中で指を折り、先ほど並べた証文の日付を思い返した。
一枚目。
寛延二年霜月。
返済済み。
二枚目。
同じ借入が未返済扱い。
三枚目。
瀬尾家の印に似た偽りの印影。
忘れない。
何一つ、忘れない。
江戸の町のざわめきが、少しずつ近づいてくる。
物売りの声、車輪の音、遠くの寺の鐘。
その中で、弥生はひとり、静かに歩いた。
春にはまだ遠い風の中で、心だけが妙に冷えていた。




