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大奥の帳簿姫~捨てられた武家娘は、女たちの涙と幕府の裏金を暴きます~  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第一話 婚約者に呼び出された日

夜明け前の瀬尾家は、まだ人の気配よりも紙の匂いの方が濃かった。


 障子の向こうで、庭木の葉が薄い風に揺れている。

 台所の方では下女が火を起こし始めたらしく、湿った薪の煙がわずかに廊下へ流れてきた。鶏の声もまだ遠い。江戸の町が目を覚ますより先に、弥生はいつものように文机の前へ座っていた。


 古びた算盤を指先で撫でる。


 ぱちり、と珠が鳴った。


 その音だけが、まだ眠っている屋敷の中で妙に澄んで響く。


 瀬尾弥生は、帳面の端に小さく日付を書き入れた。

 筆先を整え、昨日の支出を順に拾っていく。


 父の酒代。

 母が頼んだ白粉代。

 妹・菊乃の琴の稽古代。

 仕立て屋へ払う小袖の前金。

 米屋への支払い。

 そして、榊原家から預かっている借用証の写し。


 下級旗本の家とはいえ、武家は武家である。表には体面がある。客が来れば茶菓子を出し、季節に応じた衣を整え、親戚付き合いでは貧しさを見せぬように振る舞わねばならない。


 けれど、その体面を支える銭は、畳の上に転がっているわけではなかった。


 誰かが計算しなければならない。

 誰かが支払いを先へ延ばし、どこかを削り、どこかを繕わなければならない。


 それをしてきたのが弥生だった。


 父は、帳面を見るのを嫌った。


「武士が銭勘定に細かくなるものではない」


 そう言うのが口癖だった。


 けれど、銭勘定に細かくならずに済むのは、誰かが代わりに細かくなっているからだ。

 その誰かが娘であることを、父は不思議とも思わない。


 弥生は墨の乾きを待ちながら、榊原家の証文を一枚めくった。


 榊原家。


 弥生が幼い頃から嫁ぐものと決まっていた家である。


 相手は榊原直之。

 明るく、よく笑い、若い武士らしい気安さを持った男だった。弥生より二つ年上で、昔は弥生のことを「弥生殿」と呼ぶたび、少し照れたように目を逸らした。


 その頃の直之を思い出すと、今でも胸の奥に柔らかなものが残っている。


 だが、証文の数字は柔らかくない。


「……おかしい」


 弥生は小さく呟いた。


 榊原家の古い借財は、昨年の暮れにかなり整理したはずだった。直之の父が商人から借り入れていた分も、利息を付け替え、返済の順を組み直し、少なくとも急ぎの催促は避けられるようにしてある。


 それなのに、帳面上ではまだ残っている額がある。


 いや、残っているだけではない。

 利息が増えている。


 弥生は別の紙を引き寄せ、指で日付を追った。


 寛延二年、霜月。

 返済済み。


 その記録は確かにある。

 だが、榊原家から新しく預かった写しでは、同じ借入が未返済のままになっている。


 筆跡もわずかに違う。


 ひと目で偽りと断じるほどではない。

 だが、喉の奥に小骨が引っかかったような違和感があった。


 直之に確かめなければ。


 弥生はそう思い、証文を丁寧に畳み直した。


 襖の向こうで、足音がした。


「弥生。起きているのでしょう」


 母の登勢だった。


「はい」


「なら、少し手を貸してちょうだい。菊乃の小袖のことで、仕立て屋に文を出さなければならないの」


 弥生は筆を置いた。


「菊乃の小袖は、先月も新しく仕立てたばかりです」


「先月のものは普段着でしょう。今度のは、榊原様のお屋敷へ伺う時にも着られるようなものにしたいの」


 母の声には、当然という響きがあった。


 弥生は帳面を見下ろした。

 今月はすでに苦しい。父が急に親戚の寄合へ出ることになり、思ったより出費がかさんだ。米屋への支払いも一部残っている。


「母上、今月は少し厳しゅうございます。来月まで待っていただければ、何とか――」


「来月では遅いのよ」


 登勢は眉をひそめた。


 弥生は顔を上げる。


 母はいつも身なりを崩さない人だった。古びた屋敷の中にあっても、髪だけはきちんと結い、襟元も乱さない。けれど、その整った姿を見るたび、弥生は帳面の中にある白粉代や髪油代を思い出してしまう。


「菊乃は、今が大事な時期なの。よい縁を逃してはならないわ」


「榊原家との縁は、私の――」


 言いかけて、弥生は口を閉じた。


 母はその沈黙を、都合よく受け取ったらしい。


「あなたはもう直之様との縁が決まっているでしょう。だからこそ、菊乃にもよい話を作ってやらないと。姉妹で差がついては可哀想ですもの」


 差。


 弥生はその一文字を胸の中で転がした。


 母にとって、弥生は「もう決まった娘」だった。

 だから、これ以上手をかける必要がない。

 その代わり、菊乃にはまだ手をかける価値がある。


 昔からそうだった。


 菊乃は、可愛い。

 菊乃は、明るい。

 菊乃は、放っておけない。


 弥生は、しっかりしている。

 弥生は、我慢できる。

 弥生は、任せても大丈夫。


 褒め言葉のように聞こえるそれらは、いつの間にか弥生の首にかけられた紐になっていた。


「分かりました。仕立て屋には、支払いを二度に分けてもらえるよう頼んでみます」


 弥生が答えると、母はようやく表情を和らげた。


「さすがね。あなたは昔から、こういうことに気が回るわ」


 礼ではない。


 それは確認だった。

 弥生は役に立つ娘だという確認。


 登勢が出ていくのと入れ替わるように、軽い足音が近づいてきた。


「姉様、起きていらっしゃる?」


 襖が少し開き、菊乃が顔を覗かせた。


 まだ十七の妹は、朝の薄明かりの中でも華やかだった。頬は白く、目元は柔らかく、笑えば部屋の空気が一段明るくなる。


 弥生にはないものを、菊乃は生まれつき持っていた。


「起きていますよ。どうしました」


「母上が、小袖のことを姉様にお願いしたって聞いて」


「ええ。仕立て屋へ文を書きます」


「ありがとう、姉様」


 菊乃は素直に礼を言った。

 言葉だけ聞けば可愛らしい妹である。けれど、弥生は菊乃が胸元に当てている布に目を留めた。


 薄紅の反物。

 上品だが、安くはない。


「その反物は?」


「あ、これ?」


 菊乃は嬉しそうに広げた。


「直之様が、似合うだろうっておっしゃってくださったの」


 弥生の指が、帳面の上で止まった。


「直之様が?」


「ええ。先日、お屋敷に伺った時に。もちろん、まだ仕立ててはいないのよ。でも、色だけでも合わせてみたくて」


 菊乃は何気ない様子で言う。


 先日。

 榊原家へ。

 弥生は、その話を聞いていない。


「榊原様のお屋敷へは、父上と母上が?」


「いいえ。私だけよ。あ、でも直之様のお母上もいらしたし、失礼なことは何もしていないわ」


 菊乃は少し唇を尖らせる。


「姉様、そんな顔をなさらないで。怖いわ」


「怖い顔をしていましたか」


「ええ。帳簿を見ている時と同じお顔」


 菊乃はころころと笑った。


「直之様もおっしゃっていたわ。弥生殿は難しい顔ばかりしている、と」


 弥生は返す言葉を見つけられなかった。


 直之がそんなことを言ったのか。

 それとも、菊乃がそう言わせたのか。


 どちらでも、痛みはさほど変わらなかった。


 菊乃は部屋の中に入り、弥生の前へ腰を下ろした。


「ねえ、姉様。今日、直之様にお会いするのでしょう?」


「ええ。借用証のことで、少し確認したいことがあるので」


「そういう話ばかりなさるの?」


「必要なことです」


「でも、男の方は、そういうの苦手ですもの」


 菊乃は悪びれずに言った。


「直之様も、姉様と話すと叱られている気分になるって」


 弥生は胸の奥が冷えていくのを感じた。


 叱っているつもりはなかった。

 ただ、困らぬように整えていただけだ。


 直之が催促を受ければ恥をかく。

 榊原家の借金が膨らめば、いずれ弥生が嫁いだ後の生活にも響く。

 だから、今のうちに整えておいた方がよいと思った。


 それを、叱られている気分と言われるのなら。


 弥生はそっと息を吐いた。


「そうですか」


「怒った?」


「いいえ」


「姉様はすぐそう言う。怒っていない、平気です、構いませんって」


 菊乃は弥生の顔を覗き込むようにした。


「でも、そういうところが、少し損なのだと思うわ」


「損?」


「ええ。女は、もう少し可愛らしく頼った方がいいのよ。何でも自分でできる顔をしていると、殿方は離れてしまうもの」


 弥生は、その言葉を帳面の余白に書きつけたくなった。


 可愛らしく頼る。


 その頼った後に発生する支払いは、誰がするのだろう。

 その頼った分の帳尻は、誰が合わせるのだろう。


 そんなことを考えてしまう自分が、たしかに可愛げのない女なのかもしれない。


「覚えておきます」


 弥生はそう答えた。


 菊乃は満足したように微笑み、薄紅の反物を胸に抱えて立ち上がる。


「あまり難しいお話ばかりなさらないでね。直之様、優しい方だから、きっと姉様に合わせてくださっているのよ」


 襖が閉じる。


 部屋に再び、紙と墨の匂いが戻った。


 弥生はしばらく動けなかった。


 やがて、ゆっくりと榊原家の証文をもう一度開く。


 可愛げ。

 頼る。

 難しい顔。

 叱られている気分。


 言葉は、紙よりも軽い。

 けれど時に、紙より深く人の心を切る。


 弥生は証文の日付に目を戻した。

 ここには、誰の気分も書かれていない。

 ただ、いつ、誰が、いくら借り、どのように返したかが残っている。


 数字は不親切だ。

 慰めてもくれない。

 だが、媚びもしない。


 弥生にとっては、それが救いだった。


 昼前になり、瀬尾家の玄関先に榊原家の使いが現れた。


 弥生は母に呼ばれ、文を受け取った。


 封を開くと、直之の筆で短く書かれていた。


 本日、榊原家まで来られたし。

 大事な話あり。


 それだけだった。


 証文の件だろうか。


 弥生はそう考えた。

 不自然な借用証のことを、向こうも気にしているのかもしれない。もしそうなら、早い方がよい。婚礼前に金の流れを整えておくことは、両家にとって悪いことではない。


 けれど、文の文面はどこかよそよそしかった。


 いつもの直之なら、末尾に「寒さ厳しき折、身体を大切に」くらいは添えた。たとえ形式的な言葉でも、そういう細やかさはあったはずだ。


 今日は、それがない。


 弥生が文を見つめていると、母がそわそわした様子で尋ねた。


「榊原様から?」


「はい。今日、屋敷へ来るようにと」


「まあ。なら、着替えなさい。あまり地味ではいけませんよ」


「証文の話かもしれませんので、このままで」


「またそういうことを言う」


 母は呆れたように息をつく。


「直之様はあなたの婚約者なのよ。会う時くらい、少しは女らしくしなさい」


 女らしく。


 朝から、同じような言葉ばかり降ってくる。


 弥生は逆らわず、母が選んだ小袖に着替えた。

 薄藍の、控えめなものだった。派手ではないが、弥生にはこれくらいが合っている。


 髪を整え、証文の写しを風呂敷に包む。


 玄関へ向かう途中、菊乃とすれ違った。


 菊乃は弥生の姿を見ると、にこりと笑った。


「姉様、行ってらっしゃいませ」


「ええ」


「直之様によろしくお伝えしてね」


 その声は明るかった。


 明るすぎるほどに。


 弥生は何か言いかけたが、結局、軽く会釈するだけにした。


 外へ出ると、冬の名残を含んだ風が頬を撫でた。

 江戸の空は白く霞み、遠くで物売りの声がする。


 榊原家までは、歩いてさほど遠くない。

 いつもなら、道すがら直之に話すべきことを頭の中で整える。どの証文を先に見せるか。利息の計算をどう説明するか。榊原家の父に角が立たぬよう、どの言葉を選ぶか。


 けれど今日は、考えがまとまらなかった。


 菊乃の薄紅の反物。

 直之の「叱られている気分」という言葉。

 文のよそよそしさ。


 そのすべてが、風呂敷の中の証文よりも重かった。


 榊原家の門は、いつもと変わらず開かれていた。


 案内に出た女中は、弥生を見るとわずかに目を伏せた。

 いつもなら「弥生様」と笑顔を見せる女中である。今日は妙に堅い。


 座敷へ通される。


 襖の前で、弥生は足を止めた。


 中から、低い話し声が聞こえた。

 直之の声。

 直之の母の声。

 父の声。

 母の声。


 そして、菊乃の声。


 なぜ、菊乃がここにいるのか。


 弥生の指が、風呂敷の結び目に触れた。


 襖が開く。


 座敷の中に、皆が揃っていた。


 上座に榊原家の父母。

 その脇に直之。

 向かいに瀬尾重信と登勢。

 そして直之のすぐ近くに、菊乃が座っていた。


 菊乃は、朝見せていた薄紅の反物ではなく、すでに仕立てられたような美しい小袖をまとっていた。

 髪には、淡い珊瑚色の飾りが挿してある。


 弥生は、その髪飾りを見た瞬間、息を忘れた。


 それは以前、直之が何気なく言った品に似ていた。


「祝言の折には、弥生殿に珊瑚の簪を贈りたい」


 そう言った時の直之は、確かに照れていた。

 弥生も、確かに嬉しかった。


 その記憶が、畳の上に落ちた水のように冷たく広がっていく。


「弥生殿」


 直之が口を開いた。


 いつもの笑みはなかった。


 弥生は座敷の端へ進み、静かに膝を折った。


 風呂敷を膝の横へ置く。


 証文の話ではない。


 そのことは、もう分かっていた。


 けれど弥生は、逃げなかった。


 ただ、背筋を伸ばした。


 座敷は奇妙なほど静かだった。

 庭の鹿威しが、遠くで乾いた音を立てる。


 直之は一度だけ視線を菊乃へ向け、それから弥生を見た。


「今日は、大事な話がある」


 弥生は答えた。


「はい。伺います」


 その声は、自分でも驚くほど穏やかだった。


 だが胸の奥では、算盤の珠がひとつ、音もなく弾かれていた。

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