プロローグ:メイドと女神
皿が震えていた。
機械的な不具合ではなく、そんなことは許されなかった。これは、状況の“重み”による震えだった。
中村すずめは走っていた。
彼女の足取りは軽快で正確で、まるで振り付けられた舞のようだった。メイド服は優雅に揺れ、細部に乱れはなかった。すべてが訓練された動きだった。
その手には
オムライスがあった。
完璧に仕上げられた一皿。ケチャップで描かれたハートは寸分の狂いもなく、その隣には繊細な文字があった。
「♡ お帰りなさいませ、ご主人様 ♡」
この一皿の行き先が、すべてだった。
(絶対に落とせない……何があっても……)
瞳は鋭く集中し、呼吸を制御している。周囲の世界は、すでに消えていた。
客は雑音だった。 同僚は無関係だった。
全宇宙は、ただ一つの目的に向かって収束していた。
完璧に仕えること。
その瞬間
(あ)
足が何かに触れた。
いや、正確には触れなかった。
床に。
ほんのわずかなバランスの崩れ。ミリ単位の誤差。
時間が、ゆっくりと引き延ばされる。
皿が、危険な角度に傾く。
すずめは即座に反応した。
体をひねり、オムライスを守り、角度を調整し、軌道を修正した。
完璧だった。
皿は安定した。
ケチャップのハートも無傷だった。
任務完了。
その代償に、彼女の体は床に落ちた。
静寂。
「……」
闇。
再び目を開けると、世界は変わっていた。
いや、正確には意味を失っていた。
そこは、白い空間だった。果てしなく広がる、床も天井も方向もない場所。
それでも、彼女は立っていた。
当然のように。
すずめは制服を整えた。
乱れはなかった。汚れもなかった。
「……よかった」
「おおっ!目が覚めた!」
やけに大きな声。
すずめは振り向く。
そこにいたのは――何か。
おそらく神のような少女だ。荘厳さを演出しようとしている服装だが、どこか崩れていた。王冠は片方に傾き、周囲には紙がふわふわと漂っていた。いくつかは逆さまだ。
手にはクリップボードのようなものがあった。これも逆さま。
「ようこそ死後の世界へ!私は担当の女神です!たぶん!シフトによるけど!」
すずめは完璧に礼をした。
「お会いできて光栄です。お茶はいかがですか?」
「ここにお茶はないよ!」
「なるほど。重大なインフラの欠陥ですね」
「ちょっと!?」
女神は咳払いをして、威厳を取り戻そうとする。
「こ、こほん!本題に入るね!あなた、死にました!」
「はい」
「反応それだけ!?」
「オムライスは無事に提供されましたか?」
女神は瞬きをした。
「え……たぶん?」
すずめは目を閉じた。
安堵した。
「では、悔いはありません」
「その優先順位どうなってるの!?」
女神はため息をつき、逆さまの書類をめくる。
「名前:中村すずめ……年齢:19歳…死因:転倒事故……分類:極めて……間抜け……」
「正確な記述です」
「同意しなくていいの!」
女神は深呼吸した。
「とにかく!補償として、あなたは異世界に転生します!」
「承知しました」
「さらに、特別な能力を授けます!」
「奉仕能力の向上が望ましいです」
「え?」
女神は首をかしげた。
「普通は魔法とか、伝説の剣とか、不死とか――」
「より洗練された礼儀作法など」
「想定外すぎる!」
女神はクリップボードをひっくり返し、また戻し、さらに間違いに気づいてもう一度ひっくり返した。
「もういいや!適当に選ぶね!」
突然、空中にインターフェースが現れた。
リスト、選択肢、クラス。
女神は高速で操作を始めた。
「戦士……違う……魔法使い……違う……あっ!『メイド』!ぴったり!」
「ご配慮に感謝します」
カチッ。
妙な音がした。
「ん?」
さらにクリックする。
速くなる。
「ちょっと待って、これなんで……?」
ボタン連打。
「いやそれ違う…あっ…」
画面が点滅する。
文字が増殖する。
数値が上がる。
上がる。
上がる。
「……」
すずめは静かに見ていた。
「あ」
女神が固まる。
ゆっくりと画面を向ける。
そこには
クラス:究極メイド
レベル:999
ステータス:……エラー……エラー……エラー……
スキル:EX / EX / EX / EX / EX
沈黙。
「……」
「……」
「説明できるよ!?」
「理解しました」
「いや絶対わかってない!」
女神はパニック状態だった。
「だ、大丈夫、直せるから」
カチッ。
エラー。
カチカチカチ。
エラー。
「なんで悪化してるの!?」
さらにウィンドウが増える。
さらに数値が増える。
さらに壊れる。
「ああああ追加しちゃった!」
「問題がありますか?」
すずめはわずかに首をかしげる。
「業務に支障がなければ問題ありませんが」
「世界が壊れるレベルなの!」
「質の高いサービスのためなら」
「その答えは違う!」
女神は止まった。
深く息を吸った。
画面を見る。
すずめを見る。
「……」
「……」
「……まあ、いいや」
手を上げる。
光の円が現れる。
「このまま送るね」
「ありがとうございます」
すずめは完璧な礼をした。
「異世界においても、全力でお仕えいたします」
女神は小さく呟いた。
「やらかしたなあ……」
光がすずめを包む。
彼女の体が消え始める。
「頑張ってね……いや、世界のほうが頑張ることになるか……」
そして
闇。
どこかで。
新たな人生が始まる。
誰も知らぬまま
とんでもない存在が、システムに紛れ込んだことを。
……たとえ異世界でも。
メイドは、メイドのままなのだから。
警告:この後長文になります :
というわけで、ここまでお付き合いいただきありがとうございます。作者です。
『異世界では、中村すずめはレベル999のメイドです』のアイデア誕生秘話なんですが、いや本当に大した話じゃないんですよ。むしろ「こんなんで書き始めていいのか?」って自分でも思ってます。
ある日のこと、私はただ、のんびりイチゴ味のチョコレート菓子をもぐもぐしていました。人生における生産性ゼロの時間です。むしろマイナスかもしれない。そんなときです。
ふと、脳内に謎の電波が走りました。
「もし……最強主人公じゃなくて、最強のメイドだったらどうだろう?」
いや、なんで?
自分でもツッコミました。でももう遅い。こういうのって、一度浮かぶと消えないんですよね。チョコの甘さと一緒に、じわじわ脳に染み込んでくる。
気づいたら「レベル999のメイド」というパワーワードが完成していました。強すぎる。家事どころか世界救いそう。
そこからはもう転がるように妄想が膨らみ、「あ、これいけるな(何が?)」という謎の確信とともに、このウェブ小説の構想を練り始めたわけです。
なお、そのとき食べていたイチゴチョコはちゃんと全部食べました。創作のエネルギー源として重要なので。たぶん。




