第35話 最終話 黄昏の、その先へ
その日が来た。
午前中は、いつも通り仕事だった。
浄化槽清掃。
点検。
電話対応。
いつもの朝。
でも。
少しだけ空気が違う。
皆、どこか落ち着かない。
「若社長、緊張してる?」
スミちゃんがニヤニヤする。
「してません」
「顔カチカチだぞ」
「スミさん静かにしてくださいよ!」
ハラちゃんが笑う。
そのやり取りだけで。
少し肩の力が抜けた。
昼。
食事会の席で就任の挨拶をすることになっている。
会場は、昔からお世話になっている鰻屋だった。
祖父の代から付き合いがある店。
父も。
母も。
何度もここで食事をしてきた。
もちろん、私も。
座敷には、席が並ぶ。
社員たち。
母。
そして。
ゲスト席。
西本社長。
鹿取社長。
定岡雅和社長。
さらに。
江川美咲の姿もあった。
「今日はありがとうございます」
彩乃が頭を下げる。
「こちらこそ」
美咲が笑う。
皆が揃い。
席に着く。
司会は篠塚さん。
こういう時、本当に頼りになる。
「それでは皆さま、本日はお忙しい中ありがとうございます」
明るい声。
場が自然とまとまる。
ゲストへのお礼を終えたあと。
「まずは先代社長よりご挨拶をお願い致します」
母が立ち上がる。
少し痩せた。
でも。
ちゃんと社長の顔だった。
「本日はお忙しい中ありがとうございます」
静かな声。
「病気療養中の私に代わりまして」
「娘の彩乃が、中畑清掃の社長に就任することとなりました」
一拍。
「まだまだ未熟な社長ではありますが」
「今後とも、中畑清掃を」
「そして新社長、中畑彩乃を」
「宜しくお願い致します」
深く頭を下げる。
自然と、皆も頭を下げていた。
「それでは新社長、お願い致します」
篠塚さんに促される。
立ち上がる。
緊張している。
でも。
不思議と足は震えなかった。
ふと。
ヒデさんが見えた。
優しい目をしていた。
今まで見たことないくらい。
柔らかい目。
それだけで。
少し勇気が出た。
「本日はお忙しい中ありがとうございます」
「中畑清掃5代目社長に就任致しました」
「中畑彩乃でございます」
「今後とも、ご指導ご鞭撻のほど宜しくお願い致します」
頭を下げる。
顔を上げると。
皆、笑っていた。
温かい顔で。
その空気に背中を押される。
「私が社長になった時」
「やりたいと思っていた事がいくつかあります」
少しざわつく。
「母や篠塚さんとも話し合い」
「了承を得られましたので」
「今日は、そのうち三つを発表させていただきます」
スミちゃんが「おぉ」と反応する。
「まず一つ目」
「長年使ってきた“有限会社中畑清掃”という社名ですが」
「この機会に変更する事にしました」
社員たちがざわつく。
和也も少し驚いていた。
「新しい社名は――」
一拍。
「“株式会社 あんしんサポート なかはた”です」
さらにざわめく。
“株式会社”。
そして。
汲み取り屋っぽくない名前。
「もちろん理由があります」
彩乃は続ける。
「業界のイメージアップもあります」
「でも、一番は」
「私自身が現場で気づいた事です」
皆が静かに聞いている。
「私たちは、汲み取りや浄化槽管理をしています」
「トイレや水回りが使えなくなれば」
「お客様の生活は困ってしまう」
「だから」
「安心して暮らしていただけるように」
「不安や不満を取り除けるように」
「生活の“安心”を“サポート”できる会社でありたい」
一拍。
「そんな願いを込めました」
静かだった。
でも。
皆、ちゃんと聞いてくれている。
「うちの社員の皆さんは」
「それが出来る人たちです」
「私は、このメンバーに相応しい社名だと思っています」
優しい空気。
西本社長が、うんうんと頷いていた。
「次に」
少し空気を変えるように。
「作業着を統一します!」
「おぉ?」
「今まで皆さん自由でしたけど」
「せっかくなら、オシャレでカッコイイの着ません?」
ちょっと笑いが起きる。
「これもイメージアップか?」
スミちゃん。
「そうです」
彩乃は頷く。
「変えたいんです」
「悪いイメージを」
静かになる。
「実は私自身」
「この仕事、嫌だった人間なんです」
「でも」
「今は違います」
「この仕事がないと」
「お客様の“当たり前”は守れないって分かったから」
「もっと誇れる仕事なんだって分かったから」
自然と。
和也が口を開く。
「いいんじゃねぇの」
「ですよね!」
ハラちゃんも笑う。
「じゃあこれは後で皆で決めましょう」
場が柔らかくなる。
「三つ目は」
「本日お越しいただいている江川社長の会社と」
「業務提携をする事になりました」
美咲が軽く頭を下げる。
「緊急対応や」
「油脂詰まりなど特殊清掃を協力して頂きます」
「そりゃ心強ぇな」
和也が笑う。
彩乃と美咲が目を合わせる。
あの出会いが。
ここに繋がった。
「あの人綺麗だなぁ」
スミちゃん。
「聞こえてますって!」
ハラちゃんが慌てて口を押さえる。
笑いが起きる。
その空気の中。
「あ、あと最後にもう一つ」
「え、まだあるんすか」
ハラちゃんが身を乗り出す。
「皆さんのお給料なんですが……」
一瞬で静まる。
全員が息を飲む。
「来月から――」
わざと少し溜める。
「全員10%アップしまーす!」
「よっしゃあ!!」
「マジか!!」
一気に沸く。
スミちゃんが立ち上がりそうになる。
ハラちゃんは本気で喜んでいる。
和也まで笑っていた。
その中で。
ヒデさんも。
少しだけ。
笑っていた。
その時。
鰻が運ばれてくる。
香ばしい匂い。
「うわぁぁ!」
ハラちゃんのテンションがさらに上がる。
「今日は飲み放題でいいよ!」
店主が笑う。
「社長就任祝いだ!」
「よっしゃ!」
一番早いのはスミちゃんだった。
「あたしも飲んじゃおうかしら」
篠塚さんまで笑う。
そこからは。
もう宴会だった。
笑い声。
酒。
騒ぎ声。
でも。
嫌じゃない。
むしろ。
愛おしい。
ふと。
ヒデさんを見る。
あれ。
今。
涙を拭いたような。
気のせいかもしれない。
でも。
気づかないフリをした。
きっと。
色んな思いがあるのだろう。
兄のこと。
会社のこと。
ここまでの時間。
全部。
背負ってきた人だから。
宴会が終わる。
皆を見送る。
「若社長、頼んだぞ!」
西本が笑う。
「こちらこそ宜しくお願いします」
美咲にも頭を下げる。
本当は。
もっと伝えたい事がある。
でも今日はやめておく。
今は。
この時間を大事にしたかった。
外に出る。
夕刻。
いつもの時間。
黄昏。
母と二人。
空を見る。
赤と。
オレンジと。
紫の境界。
綺麗だった。
一番。
綺麗に見えた。
この先。
不安もある。
きっと苦労もある。
でも。
今なら思える。
この会社を。
この人たちを。
守っていきたい。
黄昏は。
終わりじゃない。
次の景色へ変わる時間だ。
だから私は。
この景色の先を見てみたい。
皆と一緒に。
ゆっくりと沈んでいく夕日を見ながら。
そんな事を思っていた。
――黄昏バキューマーズ 完――




