第1話 この仕事、無理かもしれない
家業は、汲み取り屋だ。
し尿の回収や、浄化槽の清掃をする仕事。
正直に言うと――
ずっと、嫌いだった。
臭い。無理だこれ。
「この仕事、無理かもしれない」
そう思ったのは、最初の一日が終わる前だった。
臭い。
とにかく、臭い。
鼻の奥に張り付くそれに、思考が止まる。
逃げたい。
でも、逃げられない。
「彩乃ちゃん、そこ立ってると邪魔」
「あ、すみません!」
慌てて動く。
そして、また邪魔な場所に立つ。
(なんで)
「だからそこじゃねぇって」
「す、すみません!」
何もできない。
分からない。
ただ、立っているだけ。
(帰りたい)
そう思いながら――
私は、バキュームカーの横に立っていた。
きっかけは、一本の電話だった。
母が倒れた、と。
病院の白い天井は、やけに現実感がなかった。
「大丈夫だから」
そう言った母は、全然大丈夫そうに見えなかった。
「しばらく入院になるわ」
「……うん」
それは仕方ない。
問題は、そのあとだった。
「会社、お願いできる?」
「……は?」
一瞬、意味が分からなかった。
「いやいやいや無理でしょ」
即答だった。
「私、何も知らないよ?」
「知ってる」
「知ってて言ってるの!?」
「だからお願いしてるの」
会話が成立していない気がする。
「和也くんに頼むって話じゃなかったの?」
「本人が断ったのよ」
「なんで!?」
「“彩乃がやるなら支える”って」
「なにそれ!」
勝手すぎる。
「……嫌よね」
母が少しだけ笑う。
その顔が、ずるい。
「嫌に決まってるじゃん」
小さく吐き出す。
「ずっと嫌だったし」
“汲み取り屋の娘”。
子供の頃、何度も言われた。
笑われた。
からかわれた。
だから、離れた。
勉強して。
就職して。
“普通”になった。
そのはずだった。
「……お願い」
母が言う。
その一言に、全部詰まっていた。
断れなかった。
揺れ動く気持ちが落ち着かないまま
翌日には勤務先に退職の旨を伝えた。
”家業の手伝い” とだけ伝えたが
詳細は隠したままにしておいた。
一か月後。
会社の前に立つ。
(……帰りたい)
看板には、有限会社 中畑清掃と書いてある。
知ってる場所のはずなのに、知らない場所みたいだった。
ガラッ
「……あ」
中にいた全員の視線が、一斉にこっちを向いた。
(無理)
「おう、彩乃か」
低い声。
「ヒデさん……」
父の弟。昔から知ってる。
けど――
(仕事の顔、怖い)
「久しぶりだな」
「和也……」
従兄弟。相変わらず落ち着いている。
「聞いてると思うけど、しばらく一緒にやることになる」
(軽いな)
「よろしくっす!」
「原です!」
(誰)
「あー、ハラちゃんね」
「スミちゃんでーす」
(ゆるい)
「篠塚です」
落ち着いた声。
何度か遊びに来た時に会っている。
実質スケジュールを回しているベテラン事務員さん。
「今日から色々教えるから、覚悟してね」
(覚悟ってなに)
「じゃあ行くぞ」
「え、もう?」
「仕事だからな」
当たり前だった。
初日はヒデさん、和也と同行らしい。
今日は浄化槽の汚泥引き抜きが5件との事。
一件目の現場。
一般住宅。
「ここな」
ヒデさんが蓋を指す。
「開けるぞ」
ガコン
(来る)
(来る来る来る)
「……っ!」
来た。
(無理無理無理)
一歩下がる。
「離れすぎ」
「す、すみません!」
近づく。
(いや無理)
でも、逃げない。
「ホース引けるか」
「……やってみます」
持つ。
重い。
(なにこれ)
全然動かない。
「こうだ」
ヒデさんが軽く引く。
動く。
(なんで)
「腰使え」
「は、はい」
やってみる。
少し動く。
「いい」
一言。
それだけで、少しだけ嬉しかった。
作業が進む。
見ているだけの時間。
でも、何を見ればいいか分からない。
(何していいか分からない)
立ち尽くす。
「彩乃」
和也が呼ぶ。
「ここ見てみ」
覗く。
「……」
分からない。
「どう見える」
「えっと……」
分からないとは言いづらい。
「……大丈夫そう?」
「まあ、今はな」
“今は”。
その言葉が引っかかる。
作業終了。
「ありがとうございました」
お客さんが頭を下げる。
「いえいえ」
帰り際。
「助かりました」
(……)
なんか、変な感じだった。
結局何もわからず見ているだけで1日の作業が終わる。
夕方。
会社に戻る。
体が重い。
(帰りたい)
「おつかれ」
ヒデさん。
「明日もあるからな」
「……はい」
即答できなかった。
外に出る。
夕焼け。
オレンジと紫の間。
(嫌いなんだよな、この時間)
はっきりしないから。
でも。
今日だけは、少し違った。
(……なんでだろ)
分からない。
でも。
「……もう一日くらいなら」
小さく息を吐く。
「やってみるか」
(どうせ、すぐ辞めるかもしれないけど)
夕焼けが、ゆっくり沈んでいく。
その境界の中で。
私は、まだ立っていた。
――黄昏バキューマーズ




