第二十九話 秘喪最終日②
先に口を開いたのはルーペルトだった。
「ベルの言う通りだ。改竄された部分のインクには香料が混ざっていた。書記局の標準じゃない」
「護符は母の作法で結び、封入した。そこへ偽の紙片が混入する余地があるのは、保管中だけだ」
ヨアヒムも続けて頷く。
その頷きに押されるみたいに、フロリアンが小さく言った。
「つまり、同じ棚に触れられる人間がいる」
「同じ材料に触れられて、同じ鍵の動線を通れて、しかも夜明け前に動ける人間が」
ベルは頷き、最後の布袋を開けた。
香料庫の帳簿——レオンハルトが押さえた記録。
紙の端は指でめくられたばかりみたいに少し波打っていて、急いで運ばれたことが分かる。
「香料庫の基材に触れた者。夜明け前の出入り。鍵の使用。ここに名前があります」
ベルは帳簿をレオンハルトへ渡した。
レオンハルトが一行を指で押さえる。
その指先は迷わない。
そして、淡々と言った。
「執事長補佐」
会議室の空気が一段沈む。
補佐の名が出た瞬間、執事長の指先がほんのわずかに動いた。
白手袋の先が、一度だけ机の縁を押さえる。
ベルはそれを見逃さなかった。
それは『驚き』ではない。
もっと重いものだ。
『覚悟』に近い動き。
ルーペルトが机を叩く。
「補佐が勝手にやった?そんなわけねえだろ。誰の指示だ」
「待て。補佐は『道具』だ」
レオンハルトが低く言うと、ベルも頷いた。
「補佐が単独で、偽蜜蝋、改竄、護符混入、火事未遂を全部回せるほどの権限はありません。鍵が要る。動線が要る。記録を消す余地も要る」
「つまり、棚の『上』だ」
「そうです」
カシミールが軽く笑う。
軽いのに、その声は刃みたいに。
ベルは答えた。
「棚の上にいる人間が、補佐に作らせ、置かせ、燃やさせ、書かせた」
沈黙が落ちる。
視線が自然と——執事長へ向かった。
執事長は逃げない。
逃げないまま、静かに言った。
「……私を疑うのは当然です」
その言い方が、逆に『執事長は真犯人ではない』匂いを持っていた。
罪を否定する人間の言い方じゃない。
『責任を抱える者』の言い方。
自分が疑われることまで含めて、どこかで覚悟していた人の声。
ベルは息を吸い、問いを投げた。
「執事長。あなたは『偽蜜蝋』を持っていましたね」
「……はい」
執事長が頷くと、会議室がざわつく。
ジークムントが静かに言った。
「ほら。盤面の中心は執事長だ。王の印を偽造できる位置にいる」
「ジークムント」
レオンハルトが低く呼ぶ。
だが、ジークムントは止まらない。
「補佐が道具だというなら、道具を持たせた手がある。王の印を扱えるのは、ここでは執事長だけだ」
「順番だと言ったはずだ」
「順番?順番を守って国が守れるのか」
「守れる」
レオンハルトの声は低く、怒りが混じる低さ。
ベルはジークムントを見た。
その声は冷たい。冷たいけれど、どこか『待っていた』声でもある。
この流れを、彼はずっと欲していたのかもしれない。
だからこそ、今ここで執事長へ盤面を寄せたがる。
ベルは執事長へ視線を戻した。
「偽蜜蝋を持っていた理由は?」
「……陛下の命です」
執事長が言った。
誰も息をしない。
「秘喪の間、王の死が漏れれば国が割れる。陛下はそれを恐れられた。必要なら『偽り』を用意しろ、と」
ベルは頷く。
それは守るための偽りだ。
でも、守るための偽りは、悪意にとって最高の刃にもなる。
「偽蜜蝋は、どこに保管していましたか」
「香料庫の封印棚。鍵は私と補佐のみ」
「補佐はいつから鍵を扱えるように」
「……三年前から」
執事長の声は淡々としているのに、喉が少しだけ乾いている。
ベルは問いを続けた。
「偽蜜蝋を作れるのは誰ですか」
「香料庫の技師です。だが技師は鍵を持たない。……鍵がなければ触れられない」
「鍵がなければ触れられない。鍵があれば触れられる。補佐は鍵を持っている。あなたの権限の範囲内で、偽蜜蝋を取り出せる」
「……はい」
ベルは次の問いを投げた。
ここが分かれ目だと、自分でも分かった。
「では、補佐に『偽蜜蝋を取り出させる理由』を与えたのは誰ですか」
「……」
執事長が黙る。
この沈黙は、知らない沈黙じゃない。
名を出せない沈黙だ。
誰かを庇っているのか、誰かに縛られているのか、どちらにせよ口を閉ざす理由がある沈黙。
ジークムントが静かに言った。
「名を出せないなら、答えは一つだ」
ベルはジークムントを見た。
彼の目が、まっすぐベルを見返す。
その目は、被害者の目じゃない。
痛みに耐えている人間の目でもない。
盤面を見て、その上で次にどの駒を動かすか考えている者の目。
ベルの胸の奥が冷える。
やっぱり、と思った。
この人は傷ついただけでは終わらない。傷をそのまま武器の形に変える人。
レオンハルトが静かに言った。
「ジークムント。お前は、どこまで知っている」
「知っている?何を」
ジークムントが微笑んだ。
その微笑みは穏やかに見えるのに、刃の形をしていた。
「私はただ、王宮が腐っていると言っているだけだ。偽蜜蝋、改竄、火事。——全部、王政の末路だ」
ベルは息を吸った。
ここで言葉だけの争いに持ち込まれたら、合議は割れる。
黒幕の狙い通りになる。
だからベルは、理屈に理屈を重ねない。匂いと手順と、行動の癖で切る。
「ジークムント殿下。左耳、聞こえにくいですよね」
「……何の話だ」
ジークムントの声が一瞬だけ硬くなる。
触れられたくない場所に、触れられた時の硬さだ。
ベルは淡々と言った。
「だから会議で『聞き返す』のが嫌で、席順を自分に有利に動かしていました」
「……」
「聞こえる側へ話者を置く。自分が不利にならない位置へ、人を座らせる。ずっとそうしていた」
会議室が静まる。
突発性難聴は、ここでは『被害者の証明』として扱われかけていたはずだ。
それをベルは、『行動の癖』として机の上へ戻した。
「あなたは耳を失った。屈辱だった。だからあなたは、その屈辱を意味に変えようとした。意味に変えて、思想にした」
「侮辱だな」
「侮辱じゃない。観察です」
「観察で人の中身が分かると?」
「少なくとも、今どこへ逃げているかは分かります」
ベルは机の上の紙片を指した。
「護符に混入した紙片の文言——『真名を確認せよ』。これはただの隔離命令じゃない。私を合議の外へ出すだけなら、体調不良でも不敬でも理由は作れる」
「……」
「なのに、そこで『真名』に触れている。あなたは私をただの邪魔者じゃなく、『鍵』として見ていた」
ジークムントは沈黙しない。
沈黙しないまま返す。
「『真名』?そんなものがあるなら危険だ。確認するのは合理的だ」
「合理的」
ベルはその言葉を繰り返した。
その響きが、あまりにも馴染みすぎている。
「便利ですね、その言葉。傷も、恐れも、欲も、全部『合理』に入れられる」
「感情で国は守れない」
「合理だけでも守れません」
ベルは最後の一枚を出した。
火事未遂の現場で採った布片。揮発性の液体の匂いがまだ残っている。
香料庫の基材と、同じ甘く重い匂いだ。
「厨房の火事未遂で使われた揮発性の液体。香料庫の基材油と同じ匂いです。補佐が香料庫に出入りした記録があります」
レオンハルトが低く言った。
「補佐は俺が監視下に置いた。ここ数日、外部との接触はない」
「つまり、命令はもっと前」
ベルが続ける。
「補佐が動いたのは、偽蜜蝋が最初に出回った夜。コンスタンティンの部屋に置かれた夜。あの夜に補佐は香料庫へ入っている」
ベルは帳簿の該当箇所を示した。
日付。時刻。記録は嘘をつかない。人は嘘をつける。
ジークムントが初めて、ほんのわずかに視線を逸らした。
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