第二十八話 秘喪最終日①
秘喪の最終日の朝、王宮の空気は薄い氷みたいだった。
溶けそうで溶けない。息をすると割れそうで、だから誰も深呼吸をしない。
廊下を行き交う侍女も従者も、足音まで小さくしている。
静かというより、音を立てた瞬間に何かが決まってしまいそうな朝。
ベルは鏡台の前で髪をまとめながら、自分の心臓の音だけがやけに大きいのを聞いていた。
三十日。
たった三十日で、世界が変わった。
最初は手紙だった。次に遺言。
そして偽蜜蝋、改竄、火事未遂、突発性難聴、護符への混入——。
一つ一つを思い返すたび、見えない糸が絡まるみたいに胸が重くなる。
全部が一本の糸で繋がっているのは分かっている。
けれど、その糸の端を握っているのが誰か、それだけがまだ確証になっていない。
今日、それが表へ出る。
そう思うだけで、指先が少し冷えた。
コンコン、と控えめなノック。
扉が開く。
「ベル姉さん」
コンスタンティンが顔を覗かせた。寝衣ではなく、きちんとした服を着ている。
襟も、袖も、できるだけ整えてきたのだと分かる格好。
三十日前と比べて、彼の目は少しだけ強くなっていた。
まだ怯えは残っている。それでも、前みたいにただ守られるだけの顔じゃない。
「……今日だね」
「うん」
コンスタンティンは頷き、机の上の布袋を見た。
偽蜜蝋の欠片。
香料庫で見つかった基材。
第四王子の書記局で押さえた帳簿。
ヨアヒムの護符から出た紙片。
全部が、ベルの鞄の中にある。
ベルが嗅いで、触って、確かめた証拠だ。
言葉だけじゃなく、匂いと手触りで繋いできた線が、今日ようやく形になる。
「怖い?」
「少し」
「僕も」
コンスタンティンは一瞬だけ笑った。
無理に笑っているのではなく、怖いと言えたから少し息ができた、そんな笑いだった。
「でも、ベル姉さんがいると大丈夫な気がする」
「……それ、やめて。私は万能じゃない。最後に決めるのは、あなたたちだよ」
「うん。でも、ベル姉さんがいてくれると、逃げなくていい気がする」
ベルはその言葉に、返事をしなかった。
下手に何か言うと、今度は自分の方が揺れそうだったからだ。
コンスタンティンが何か言いかけた、その時だった。
廊下の先から足音がした。
迷いのない足音。一定の歩幅。急いでいないのに、ためらいがない。
ベルは振り向かなくても分かった。
レオンハルトだ。
扉の前で立ち止まり、ベルを見る。
その目はいつも通り冷静だ。けれど、今日だけは奥に熱がある。
押し殺しているのに、完全には消せていない熱。
それをベルだけが見える。
「準備は」
「できました」
「コンスタンティン」
レオンハルトが弟を見る。
その視線には、兄としての厳しさと、守ろうとする硬さが一緒にあった。
「お前はベルの部屋に戻れ。ここから先は——」
「行く」
コンスタンティンが言った。
レオンハルトが一瞬だけ眉を動かす。
怒りではない。驚きだ。
「聞く権利がある。僕は……逃げない」
声は震えていた。でも、折れていない。
その震えごと前へ出ると決めた声。
レオンハルトは一拍置き、頷いた。
「……分かった。だが俺の後ろを歩け」
「うん」
ベルは心の中で小さく息を吐いた。
この三十日で、守られる側だったコンスタンティンが、守られることを拒むようになった。
それだけで、秘喪が合議の時間だった意味がある。
疑いと痛みばかりではなかったのだと、そう思えた。
会議室の扉の前には、衛兵が二人立っていた。
最終日。
ここで決まらなければ、遺言通り王政は廃止になる。
ベルは鞄の上から証拠の輪郭を確かめる。
紙の硬さ。蜜蝋の欠片。小さな重み。
そして、自分の胸の奥にあるもう一つの鍵の存在も。
今、結末への扉が開く。
長いオーク材の机。喪布のかかった窓。
光は弱いのに、逃げ場だけはどこにもない。
その下に座る七人の王子——いや、王子と呼ばれてきた七人。
上座にレオンハルト。
その隣にジークムント。片耳の聴力が落ちているのに、姿勢は崩さない。
崩さないことそのものが、いまの彼の武器になっていた。
ルーペルトは腕を組み、苛立ちを押し込めた顔をしている。
フロリアンは緊張した笑みを貼りつけているが、もう以前の『依存の目』はしていない。
カシミールは余裕の笑みを浮かべているが、目の奥はまったく笑っていない。
ヨアヒムは礼拝堂の空気をそのまま持ち込んだように、静かに手を組んでいる。
末席にはコンスタンティン。小さな拳を膝の上で握りしめ、逃げずに前を見ていた。
そして——机の末端に、ベルは座った。
最初に座らされた場所と同じなのに、重さはまるで違った。
もう『呼ばれた少女』ではない。今日のベルは、この会議を動かす側にいる。
執事長が入ってきた。
いつも通り白手袋。いつも通り淡々。
けれど今日だけ、目の下の影が少し深い。
眠れていない顔だ。王宮じゅうがそうなのかもしれない。
「秘喪最終日。合議の結論をお決めいただく日でございます」
執事長の声は整っていた。
整っているからこそ、その文言の重さだけが際立つ。
「全員一致で結論が得られなかった場合、陛下の遺言に従い、王政は廃止——」
「分かっている」
レオンハルトが短く切った。
その一言で、部屋の空気がさらに張る。
「まず、決める前にやるべきことがある」
「……何を」
ジークムントが静かに言うと、レオンハルトはベルを見た。
『行け』という視線。
ベルは頷いた。今日は逃げない。
ベルは鞄を机の上に置き、布袋を並べた。
小さな袋ばかりなのに、この一か月の不穏さが全部そこへ詰まっているように。
「最初に確認します。これは『王位を決める会議』ではなく、『盤面を揺らして合議を割ろうとした者』を潰す会議でもあります」
ルーペルトが鼻を鳴らした。
「今さらだ。とっとと名前を出せ」
「名前だけなら簡単。でも納得が要るでしょう」
ベルは淡々と言い、布袋の一つを開けた。
偽蜜蝋の欠片から、甘い香りが一瞬だけ立つ。
本物の蜂蜜とは違う、喉に残る甘さだ。
「これ、コンスタンティンの部屋に置かれた封蝋と同じ匂いです」
「……」
コンスタンティンが唇を噛む。
ベルはそこで止まらず、次の紙片を出す。
「ルーペルトの書記局で改竄されたインクにも、同じ香料が混じっていました」
「証拠は?」
ジークムントの声は冷たい。
ベルは紙片を差し出した。
ヨアヒムの護符から出た、偽封蝋の欠片付きの短文。
そこにも同じ甘さが残っている。
「香料庫で見つけた基材から作れます。蜂蜜ではなく、香料で甘さを作った匂いです。喉に残る甘さで分かる」
「……感覚の話だな」
ジークムントが言う。
その声音には、切り捨てるための冷たさがあった。
ベルは即座に返した。
「感覚は証拠になります。薬草師は匂いと違和感で命を救ってきた。疑うなら、今ここで嗅いでください」
「嗅げ、と?」
「はい。これは誰にでも分かる差です。本物の蜜蝋はもっと澄んでいる。こちらは甘さが重い。残る。意図して混ぜた甘さです」
ベルが言い切ると、会議室の空気がわずかに動く。
言葉だけじゃない。物がある。匂いがある。
ここから先は、もう『気のせい』では済まない。
一瞬の沈黙に、ジークムントは動かなかった。
動かないことそのものが、逆に答えになる。
反論しない。遮らない。けれど認めもしない。
その静けさが、この場でいちばん冷たかった。
ブックマーク、★★★★★、リアクション
よろしくお願いします( *・ㅅ・)*_ _))ペコ




