4月8日 水城凜はお姉さまと呼んでくれない。
わたしは桜庭ひより。私立紅花高校の三年生だ。
紅花高校は、今どき珍しい全寮制の由緒正しい女子校である。
この学校には、疑似姉妹制度という少し変わった仕組みがある。先輩と後輩が同じ部屋で暮らし、先輩が後輩の面倒を見るというものだ。
そんな私の同居人は、水城凜ちゃん。
少しあどけない顔立ちに、可愛らしいツインテール。見ているだけで、私の保護欲を強烈に刺激してくる。
その一方で、態度は少しそっけない。
そこがまた堪らないのだ。
「先輩。膝枕ならまたしてあげますから、早く起きてください」
学校の中庭にある大きな樹の下。
どうやら私は、凜ちゃんに膝枕をしてもらったまま眠ってしまったらしい。
「うーん。あと五分」
私は仰向けからうつ伏せになり、凜ちゃんの太ももへ頬を寄せた。
「先輩。もう起きていますよね。変なセクハラをしないで、授業に行きますよ」
「先輩じゃ嫌だなあ。お姉さまって呼んでくれたら起きるんだけど」
私がわざとらしく言うと、凜ちゃんの顔が真っ赤になった。
可愛い。
凜ちゃんは恥ずかしくて、私をお姉さまと呼べないでいるのだ。
「嫌です」
「じゃあ起きない」
「そんな。授業に遅刻しちゃいますよ」
そこまで困っても、私を無理やり膝の上から降ろせない。
凜ちゃんは、やっぱり優しい。
これ以上いじめるのも可哀想なので、私は起き上がり、凜ちゃんへ手を差し出した。
「ごめん、ごめん。一緒に授業へ行こうか」
「はい」
昇降口で靴を履き替えたところで、私はあることに気づいた。
「凜ちゃん」
「今度は何ですか」
「英語の教科書、部屋に忘れたかも」
凜ちゃんの動きが止まった。
「……かも、ではなく?」
「確実に」
「どうしてそんなに落ち着いているんですか!」
「大丈夫。今日は一時間目、古典だから」
「英語は二時間目でしょう!」
「未来の私に期待しよう」
「期待できません!」
凜ちゃんは鞄を開け、英語の教科書を一冊取り出した。
「私の予備です。昼休みまでには返してください」
「予備の教科書を持ち歩いているの?」
「先輩が忘れると思ったので」
私は、しばらく凜ちゃんの顔を見つめた。
「な、何ですか」
「凜ちゃん」
「はい」
「好き」
「……っ!」
廊下を歩いていた何人かの生徒が、こちらを振り返った。
凜ちゃんはさらに顔を赤くして、教科書を私の胸へ押しつける。
「そういうことを大声で言わないでください!」
「でも、本当に助かったから」
「だったら次から忘れ物をしないでください!」
「善処します」
「絶対にしない人の言い方です!」
予鈴が鳴った。
私たちは顔を見合わせる。
「凜ちゃん、走るよ」
「誰のせいだと思っているんですか!」
「青春のせい」
「先輩のせいです!」
階段の手前まで、私たちは並んで走った。
二年生の教室へ向かう廊下と、三年生の教室へ向かう階段。その分かれ道で、凜ちゃんが振り返る。
「先輩!」
「なあに?」
「教科書、なくさないでくださいね!」
「はあい。凜ちゃんも、授業中に私がいなくて寂しくても泣かないように」
「泣きません!」
私が手を振ると、凜ちゃんは呆れたような顔をした。
それでも最後には、小さく手を振り返してくれた。
その姿を見届けてから、私は階段を駆け上がる。
今日もきっと、いつもと同じ一日だ。
授業を受けて、友達と笑って、放課後になれば三〇八号室へ帰る。
そこには、きっと凜ちゃんがいる。
私の机の上に脱ぎ捨てられた靴下を見つけて怒りながら、それでも夕食の時間になれば、必ず私を呼びに来てくれる。
「……あ」
私は自分の足元を見た。
履いている靴下には、ペンギンのマーク。
凜ちゃんのお気に入りの靴下だ。
「まあ、いいか」
始業の鐘が鳴った。
遠くの廊下から、凜ちゃんの声が聞こえた気がした。
「よくありません!」
私は笑いながら、三年生の教室へ駆け込んだ。




