第3話 味
「……う、ん……」
光に目を刺激されて、嫌々ながら瞼を持ち上げる。
まだ起きたくないと駄々をこねる体に活を入れてベッドから這い出ようと体を横に向けた時、目の前に見知らぬドアがあった。
「……ぅ、あ……?」
なんだあれ。あんなの、昨日まではなかったはず。
寝ぼけているのかと思ったが、何度目を擦ってもそれは消えなくて。
眠気が、一気にどこかへと吹き飛んだ。
「えっ……あ、えぇ……?」
どうしよう。心臓が嫌な意味でバクバクしている。冷や汗が出てきた。
なんで急に部屋にドアが生えてきたんだ、まったく意味が分からない。
……1回、玄関から入りなおしてみたら消えていたりしないか……?
そう思い、一度横に向けた体を正面に向け直す、と。
スライドドアがあるはずの場所には、普通のドアがあった。
「……えっ?」
思わず首を動かして、2つのドアを確認してしまう。
え、何、どういう事?
えっ、俺が寝ている間に、何が……。
「……っ!」
俺は弾かれたように、俺の部屋に存在しないはずの横のドアに向かって走り出した。
確かめないと。もしあれが本当なら、この先に広がっているのは……!
「わっ……」
ドアを開けた瞬間、まばゆい光と共に、びゅう、と強い風が襲い来る。
髪が、服が、ばさばさと絶えず動くほどの強い風。……ここ、ベランダか?
心臓が一層強く、痛いくらいに脈を打つ。ほとんど答え合わせが済んだようなものだったけれど、それでも。この目でしっかりと確かめるまでは、まだ、分からないじゃないか……!
光と風に耐えて目を開けた先。手すりの向こう側に待ち受けていたのは。
どこまでも青い空と、眼下に広がる、街並みだった。
「……は、はは……」
普通に生きていたら、一生知るはずのなかった景色。出来る事なら、一生知らないままで居たかった景色。
俺、本当に。この家に軟禁されたんだ。
これ以上何も見たくなくて、俺の部屋……を、模した部屋のベッドに戻り、頭から布団を被る。
夢なら覚めてほしかった。
誘拐されて。知らない男の子どもを、それも指定された性別の子を産むまで無理矢理この家に閉じ込められたなんて。悪夢ですら見たくなかった光景だ。
まだサインしてないからあれだけど、契約したうえでこの家に残るんだから無理矢理じゃないだろって言う人もいるかもしれない。
だけど、あんなもの、ただの形だけのモノだって。俺にYES以外の選択肢なんか、最初からないんだって。それくらいの事は、さすがに分かっていた。
「瀧浪様?」
びくん、肩が跳ねる。知らない人の声だ。男の人のもの、だとは思うけど、ちょっと高めの。
ドア越しだから、ちょっとこもった感じに聞こえるその声の主は。少し間を置いて呟いた。
「物音がしたんだけどな……。瀧浪様、お目覚めですか?」
このまま寝たふりを決め込もうか、でも無視をするのも悪い気がする。
……いやいや、俺を誘拐した連中の仲間になんで罪悪感なんて抱いてるんだ俺は。無視だ無視。
毛布の中で固く目を瞑るのとほぼ同時に、もう一度その人物は俺に話しかける。
「もしお目覚めでしたら……先ほど、簡単にですが食事を冷蔵庫にご用意させていただきました、温めてお召し上がりください。お飲み物、お風呂、着替えも、全てご用意がございますよ。まだ洗濯が終わるまではおりますので、お困りのことがあったらお申し付けくださいね」
足音が、遠ざかっていく。
布団の中でふぅ、と息を吐いた俺は、そこでようやく自分の服装に気が付いた。
上はワイシャツ、下はスラックス。ジャケットは……。
もぞもぞと布団の隙間から外を見てみると、壁にかけてあった。
流石にちょっと寝づらさを感じた俺は、そのままもそもそと布団から抜け出して、クローゼットを開けてみる。そこには、見慣れた服が詰まっていた。
「……本当に、俺の家から持ってきたんだな」
脳裏に、引っ越したばかりの時のあの家がよぎる。
きっと今頃、あの時の状態に戻っているんだろうな。前の住人の生活感なんてきれいさっぱり消え去った、あの状態に。
それは、なんだか。とても寂しい事に思えて。
「……やめよう、考えるの」
今はとにかく着替えて、
ぐうぅうぅぅうぅぅぅ~……。
「……」
静かな空間に鳴り響いた間抜けな音の発生源は、俺の腹しかなくて。誰もいない部屋で、俺は一人、顔を真っ赤にした。
そういえば、昨日の晩飯から何も食ってないもんな……腹も減るか……。
とはいえ、誘拐犯の用意した食事を摂るのは抵抗が……。
「……どうしよう」
「瀧浪様?」
「ひえっ」
ドアの向こう側から、再び声がする。さっきと同じ声だ。
「ごめんなさい。たまたま通りがかったら、お腹の音が聞こえたので。……ご気分は優れないかとは存じますが、どうでしょう。少しだけでも食べてみませんか?」
優しく声をかけられて、ぐらりと気持ちが傾いていく。
けど、だけど。良いのかな。信用して。
もしも、何か混ぜられてたりしたら……。
くうぅうぅうぅ~……。
「……」
空腹に負けて、隙間から、こっそりと顔を覗かせてみる。
「……あ! おはようございます、瀧浪様!」
ドアの向こうにいたのは、筋肉質で大柄な、茶色の短髪が良く似合う男性だった。
すぐに温めますね、と手際よく準備をしてくれている彼は山城さん、というらしい。
「普段は熾仁様の身の回りのお世話を担当しております。今後は瀧浪様のお世話もさせていただくことになっておりますので、どうぞよろしくお願いしますね」
いかにも人の良さそうな笑みに、思わずほだされそうになる。
忘れるなよ、いくら良い人そうでも、こいつも誘拐犯の仲間なんだから。俺に優しくするのだって仕事だからで、子どもを無事に産ませる必要があるからなんだから。
この家に、俺の味方なんていないんだから。
耐えきれない現実に順応しそうになる心を引き締める俺の前に、食事が並べられていく。
焼き鮭、豆腐とわかめの味噌汁、ほうれん草のおひたし。
思っていたよりも普通の食事だ。金持ちもこういうの食うんだ。
「瀧浪様のお好みが分からなかったので、スタンダードなものをご用意させていただきました。この家でお料理なんて久しぶりでしたから、お口に合うといいのですが」
「久しぶり……?」
この人、普段から熾仁の身の回りの世話をしてるって言ってたのに……?
訝しげな俺の声に、山城さんは眉を八の字にして笑った。
「熾仁様は、食事に楽しみよりも効率を求める方なんです」
「と、いうと……?」
山城さんが視線をさまよわせながら言葉を二、三度口の中で転がす。
その間も俺が意味を察せないでいると、とうとう視線が俺の方を向いた。
「……お食事は、バランスバーを中心に、不足する栄養素をサプリメントで補って済ませておられるんです。何度かきちんとお食事を摂って頂けないかお願い申し上げたのですが、無駄だからと……」
一瞬、何を言っているのか分からなかった。だって、人間ってそんな無機質な食事で生きて行け……るのか……? いやいやいや、絶対体おかしくするだろ。
「余計な話でしたね。さ、冷めないうちに召し上がってください」
山城さんに勧められるまま、なんだか高そうな箸置きに置かれた、なんだか高そうな箸を手に持ち、なんだか高そうな食器に盛られた、一見普通の料理に手を付ける。
とりあえず、まずは味噌汁。
「……!」
すっげぇ出汁の香り……鰹、と、昆布か?
口に含んだだけで旨味が一斉に口の中に広がって、飲み込むと香りがぶわっと鼻に抜けていく。
実家の顆粒出汁の味噌汁とは全然別物だ。
美味しい。
美味しい、んだけど。
「……っふ、ぅ、うぅ……」
「た、瀧浪様?! えっ、ど、どうしたんですか?! そんなにお口に合いませんでしたか?! も、申し訳ありませんっ!」
「ちが、違うんです……」
見た目は普通なのに、高級感のある、上品な味わいの味噌汁。俺の知っているそれより、格段に上質なそれが。俺が、根本から何もかもが違う、分不相応な世界に迷い込んでしまったのだと。俺に突き付けてくるようで。
それが、空いた腹にひどくしみて。
「なんでも、なんでもないんです、本当に……」
寂しい。怖い。逃げたい。
帰りたい。家に。
山城さんは、また眉を八の字にしながら、俺が落ち着くまで背を撫でていてくれた。




