・ギア/セカンド 魂葬者と終わるべきモノ・肆――VS崩界・坐武羅/鉄錆び味に君は微笑む
突然ではあるが、この世界では都合四度の世界大戦が起きている。
三度目の大戦が残り少ない資源を巡って起こった霊魂革命前最後の戦争だとすれば、四度目の大戦は霊魂革命後最初の世界大戦だった。
とはいえ、四度目の大戦は世界大戦と呼ばれるものの中で最も小規模であり、圧倒的な戦力差もあって一年足らずで終戦を迎える事になる。
その戦争の名は『宗教戦争』。
霊魂革命によって、革命前の生と死の概念や倫理観が崩壊した結果、生まれ変わりや輪廻転生、死後の世界を信じる各宗教組織が『鎖縛魂法』や『永久人』を生命と神の冒涜であるとし、著しく倫理観を欠いた行いだと痛烈に批判し各国政府と対立。
その後、一部の過激な信者の暴動から始まった騒動は、ついにゲリラ的な各宗教組織の組織的な武力反抗が起こるまでに成長、他宗教もその流れに乗る形で立ち上がり、世界各地で一斉に宗教組織が『白十字』と『永久人』達に反旗を翻し起こった熱狂と混沌の支配する戦争だ。
その戦争の最中、不死の『永久人』で構成された国連軍に大いに苦しめられていたある宗教組織の中から、『永久人』に対抗できる画期的な兵器が生み出される。
制作者は不明。
だが、とある密教系仏教徒の高僧が雛形を作ったと言われるソレは、皮肉にも『霊魂革命』によって『霊力』関連の技術が向上した結果、量産化と実用化にこぎ着けたと言われている。
仏具や神器、宝剣などを素材に造られるその兵器の名は『魂葬霊具』。
『宗教戦争』の敗北を予期していた高僧は、その後『白十字』によって行われる事になる『宗教解体』をも想定していた。
様々な教典や教本や聖書が禁書として摘発され、その原本から写本に至るまでが根こそぎ焚書されてしまうであろう未来を思い絶望する中、どうにかして教えを残そうと画策し、高僧は『魂葬霊具』に特殊な機能を残す事を思いつく。
それが『霊刻』。
密教における即身成仏の概念を霊具へ組み込んだモノであり、高僧はこの『霊刻』内部に道半ばではあるものの己の『悟りの境地』を封入した。
この霊刻を起動展開する事で悟りを得た心の在り方である第十住心『秘密荘厳心』を顕在化させ、仏と一体になる『顕得成仏』を強制的に発動し、『即身成仏』を果たす。
つまりは未熟者の人の身でありながら、悟りを得た疑似的な『仏』に一時的に到達する事が可能となる画期的なシステムだった。
この霊刻を用いて、彼は後世の人々に仏の教えを口伝以上の形で残そうと考えた訳である。
そうして、戦乱の中。魂葬霊具の作成方法は瞬く間に広がり、戦争が終結してなお高僧の作った雛形を元に多くの霊具が生み出され続けた。
その正式な機能を知らぬまま『霊刻』を刻む為の構造も組み込まれ続け、『悟り』が封入されていない――すなわち『霊刻』が刻まれていない空の霊具が世に溢れかえった。
だが、人の身で一時的な『即身成仏』に至る事が可能な『霊刻』システムは生きている。
そして、『霊具』の使用者が、『霊具』との高い親和性を見せ、悟りにも似た強烈な『心の根源』を有している場合に限り、後発的に『霊刻』が『霊具』に刻まれる事がある。
しかし、この世界は仏の教えが失伝した世界。
結局、高僧の予期したとおりにありとあらゆる教えは根絶やしにされ、口伝や暗号によってかろうじて後世に残されたのは、歪に歪んだ本来のソレとは間違った教え伝承だった。
仏の教えが失われた世界で、未熟者以下の歪な贋作達が辿り着く『悟り』が、真の『悟り』であるハズがない。
故に新たに刻まれ起動する『霊刻』は、致命的に間違った『悟り』に至った者達を『仏』のような何かへ変え、『即身成仏』を果たした覚者達は、その間違った思い込みのまま真理を崩し現実世界を冒す。
『霊刻』の起動による『即身成仏』。
その一連の流れによって発生する己が描いた世界で世界真理を破壊する現象を、仏教用語の『法界』になぞらえ『崩界』と一部識者は呼称する――
☆ ☆ ☆ ☆
「――崩界――『一道無為心煩悩救済』」
斑輝喜逸の眼前に、極楽浄土が顕現した。
「馬鹿、な……」
いつの間に喜逸の背後に回り込んでいたのか――いや、重要なのはそんな事ではない。
振り返った視線の先、そこに佇む坐武羅はその姿形が大きく変貌していた。
まず、長身痩躯はそのままに身体が一回り大きくなっており、肌も黄金に変色。
足元には神々しい白銀に輝く雲が立ち込め、絢爛豪華な五色の後光を全身から発し、凪が如く穏やかな表情で立ったまま瞑目する坐武羅は来迎印と呼ばれる印を結んでいる。
剃髪した頭に刻まれた曼荼羅は脈動しながら神々しく光り輝き、ピアスも光の輪へ変化。
紫の道具衣と金色の大使五条を用いた派手な法衣に身を包んでいた筈が、今は下半身に艶やかな紫の布をパレオの如く緩く巻き付けただけの装いに。
右手に握る土蜘蛛喇叭は、喇叭のように特徴的な斧頭を残したまま、柄が伸びて槍のように巨大化していた。
その姿はまるで神仏の如し。
そしてその例えは、何ら誤りではなない。
「う、……ぐっ!?」
――対峙しているだけで足が竦む。
抗おうという心を挫かれる。
その救いに身を委ねてしまいたいと、心が軋み悲鳴じみた歓喜をあげる。
怖い怖い怖い。何が怖いのか、アレに見放さられるのが怖いと考えてしまう自分がいる。救済の道を失う事を畏れる自分がいる。
肌を焼き焦がす濃密な霊力に、矮小な人を狂わせるその仏威に、喜逸は半ば本能で理解する。
破戒僧坐武羅は、その身一つで即身成仏を成し遂げ仏そのものへと昇華している――
「感謝いたしまするぞ、喜逸殿。貴殿が時間を稼がれたおかげで、こちらも準備が整いました。『霊刻起因』による『崩界』発動には莫大な霊力が必要。しかし、喜逸殿のような強者と戦う以上、持てる全力を尽くさなくてはあまりにも無粋というもの」
「……ちょっと見ねぇうちに随分変わったな。新手のイメチェンか? 似合ってねえぞ」
己の足だった何かが急に木の棒になってしまったかのようにピクリとも動かない。
内心の動揺を覆い隠して、何とか憎まれ口を叩くことに成功したのはせめてもの僥倖というヤツだった。
「何、拙僧も仏の道を歩む者。苦しんでおられる貴殿を、ついでにお救いしようと思いまして」
「……苦しんでいるだと? 俺が?」
「ええ、拙僧にはそのように見えます。貴殿が何をそれほどまで思い悩み、焦燥していらっしゃるのかは分からない。だが貴殿の在り方には無理を感じる。貴殿は、理由がなければならないと申された。しかし、そんな事はないのです。世の中には、理由などより先に、身体が、心が、魂が、感情が、動く瞬間が必ずある。無理に理由を探す必要などありはしない。貴殿は貴殿の思うままを成されればそれでいい。それすら仏の無限の慈悲は許してくださるのだから」
「テメェ……ッ、知ったような事をベラベラと……ッ!」
癇に障る言葉だった。
単なる図星という訳ではない。自分でも理解できていない胸の奥でわだかまるモヤモヤとした不快感を言い当てられた事が、何故か無性に腹が立った。
だが、その激情のおかげで、棒のようだった足の戒めが、解けた。
「その不快な口を、今すぐ閉じろォ……ッ!」
叫び、駆け出す。
変換する五行は木気。五行相生は一度でも『伽羅俱利腕』へ注ぎ込む霊力の流れが乱れれば最初からになってしまう。
だが構うものか。工夫も何もなく叩き付ける。
「……そう。自力によって救われようと自ら進んで善行を積む信心足らずの傲慢なる善人ですら救われる! ならばァ! ならばならばならばァ! 阿弥陀の絶対的な救済を信じ、ただひたすらに南無阿弥陀仏と唱える他能のない煩悩多き悪人こそ絶対の救済対象! 悪人であればこそ、必ず往生できるのです! それこそが、無限の仏の慈悲。最高の救済の道なればァ!」
効かない。通じない。まるで歯が立たない。
坐武羅の黄金に輝く肉体の大陸を殴りつけるような手応えに、神仏と見紛う超高密度の霊力に、矮小な人の身一つで傷を与えられる訳もない。
仏と化した坐武羅はあまりにも規格外で、触れた瞬間に木気は霧散してしまう。
「故に拙僧は南無阿弥陀仏と唱え続ける! 仏の赦しを乞い、その無限の慈悲に縋り、仏の救済によって極楽浄土へと到達するその日まで! 己の意志の弱さを嘆き、我欲塗れの己を悔やみ、されど自力を過信しない。盲目的な他力本願。それこそが救済の道。正しき信仰の道!」
ならばと相生を重ねる。回転率を上げ、歯車を鳴らし、重ね重ねて、己の霊力を積み重ねる。
『水気』からリスタートし練り上げたのは『金気』。五行相生・土生金。『金行符』斬閃改め――五行四連生・『金剛鉄・鉄鎚慙愧』。自身の腕を金剛の巨大鎚へと変換し――失敗。
「な、あ……!?」
破綻した五行相生に絶句、空白の思考に埋め尽くされた喜逸の頭に、ちなみの悲鳴が響く。
『――【警告】! 御主サマの能力値に異常発生! 全項目の数値が現在凄まじい勢いで低下中! そんな……全ての項目が、一段階低下!? 御主サマの能力値総合B−までダウン!』
無様を晒し、無防備を晒した。
不味い、力が抜けていく。鉛のように重い手足も毒沼に付け込んだような頭も、まるで喜逸の言う事を聞こうとしない。ちなみの言葉すら頭に入らない。
「拙僧は己の煩悩を否定せずされど嘆き。己の煩悩のまま振る舞いされど悔やみ。ただひたすらに赦しと救済を求め――南無阿弥陀仏と、嗚呼、感謝の発露として唱え続けるのです! 我が名は坐武羅、〝百八煩悩肯定せし者〟。さあ、貴殿の欲を我が世界に吠えられよ……!」
次に打つべき一手がある筈なのに、どうしてだろう……頭が、妙にフワフワと軽いのだ。心に、羽が生えたように。
それは今までにない感覚だった。空を泳ぎ飽食を貪り、湧き出る金の泉を頭から浴びるような悦楽が斑輝喜逸を染め上げて――『――じゃあ……は、■■■の■■■■に………! ■■■が…………たら■■が……………るんだ!』――『誰……負けな………い強く……なくちゃ!』――胸の奥に座する衝動の炎が、ぱちんと、火の粉を弾けさせた。
「――あぁ、がぁあああああ!! 俺、はぁ……、誰に、も。負けられなぁあああぁぁああッ!!」
瞬間、喜逸は狂った獣のように己の芯に在ったナニカを曝け出し、仏と化した坐武羅へと涎を垂らしながら襲い掛かっていた。
対する坐武羅はこれまでで最大の歓喜の笑みを引き裂き、
「――それが貴殿の欲の形ですか。拙僧の『崩界』を受け、なお拙僧に立ち向かってきたのは貴殿が初めてです。……僥倖也、喜逸殿、貴殿は実に殺しがいがあって素晴らしい……ッ!」
破戒僧の殺気と狂喜が糸目の奥で一際強く燃え上がる。
長槍と化した土蜘蛛喇叭が、何の警戒も工夫もなく愚直に飛び掛ってくる斑輝喜逸の心臓目掛けて真っすぐに解き放たれて――
「――ぁ?」
頬を濡らす血飛沫の熱に、喜逸は正気を取り戻した。
穴だ。
大きな穴が空いている。
喇叭のような土蜘蛛喇叭の歪な刃が傷口を押し広げる為、生じた穴は小さな子供の頭くらいなら余裕で入りそうだった。
ぼたぼたと、ありえない量の血が零れ出し足元に赤黒い水溜りを作っている。喜逸はそれを、しばしの間呆然と眺めて――
「な、んで……」
――ドクンっ。ドクンっ。鼓動が、早鐘のように走る脈動がうるさい。
酷い耳鳴りがする。心がどこかに行ってしまったみたいに空虚だ。
足元の世界に色がない、現実味がまるでない。
喜逸を庇うように体当たりをして槍の軌道に割り込み、その胸に大穴を穿たれた妖狐の姿を、斑輝喜逸は喉も声も瞳も身体も震わせながら呆然と立ち尽くすようにして眺めていた。
「よ、かった。きーつは、……無事、か。…………げぶっ」
淡い桃色がかった乳白色の長髪が凄絶な朱色に染まっていく。
何故か陶然と微笑む妖狐は、喜逸の無事を認めるとほっと安堵したように吐息を吐こうとして、血塊を吐いていた。
少女の胸から槍が引き抜かれ、羽毛みたいに小さく軽い体が崩れ落ちる。
それがまるで、積み木の城が崩れるような不可逆的な物に思えてしまって、喜逸は自分の状況も忘れ、倒れた少女の元へと全力で駆け寄っていた。
「おい……、おい! お前! なんで、此処に……なんで俺を庇ってんだよ、お前が……っ」
「……童の姿をした妖狐の怪異を連れた魂葬者……そうか。では、喜逸殿が件の――」
その場に跪き、軽すぎる妖狐の身体を抱き起す。
無防備を通り越して殺してくれと言わんばかりの隙を晒す喜逸を放置し、思案顔でブツブツと何かを呟く坐武羅の言葉も聞こえない。
理由の分からない焦燥が加速する。
身を焼き焦がす衝動の炎が身体を内側から焼き切ろうと燃え盛り、思い出すべき何かがある筈なのに一向にそれを思い出せない自分への苛立ちが際限なく膨れ上がっていく。
感情が制御できない、どうしてこんなに懸命になっているのか、自分でもその理由が分からぬまま、堰を切ったように意図せぬ言葉が口から溢れ出していく。
「おい、死ぬなっ。目を開けろッ、こんな所で何してるんだって聞いてんだよ、俺は……っ!」
「……なんだ、ぼくを心配してくれるのか。きーつは。……ふふふ、命無き怪異は、君が滅ぼす。敵なんじゃ、なかったか……?」
首を振る。違う。そうじゃない。心配なんかしていないするものか。命無き怪異は喜逸がその信念に掛けて終わらせるべきモノであり敵だ。だから、断じて心配などしていない。
「それに、そんな存在に、向かって。死ぬなって、……おかしなことを言う、きーつだ……」
「分からねえんだよ、俺はお前がッ。……どうして俺に付きまとう、なんで怪異のお前が魂葬者の俺を命懸けで助けた? それが分からねえのが気持ち悪いって言ってんだよッ、答えろ!」
理由が分からないのは気持ちが悪い。
妖狐が喜逸に付いてくる理由も、警戒心ゼロに好意をぶつけてくる理由も、出会って数日の喜逸を命懸けで助けようとした理由も、何もかも分からないのが嫌なのだ。
斑輝喜逸は何が妖狐にそこまでさせるのか、その理由が知りたかった。
「……四日と半日。俺とお前が旅をした時間だ。たったそれだけ、思い出らしい思い出なんざ、五分もあれば語り尽くせる。たったそれだけの時間の為に、千年を生きるお前がどうしてそんななんだよッ! ……俺には分からねぇ、分からねぇんだ。だから……ッ」
何故妖狐がこんな愚行に打って出たのか、その馬鹿な理由を聞いて、腹を抱えて笑ってやらなければ気が済まない。
だから、死ぬなと叫ぶ。
だから、ふざけるなと怒る。
斑輝喜逸は妖狐を心配しているのでは断じてない、だから、何でもいいから何か言ってくれと、地面に叩き付けた両手の爪に土を喰い込ませながら、何かを堪えるように拳を握り締めて、
「……思い出か、確かに、ぼくと君の間に。そう、呼べるものはあまりないのかもしれないな」
「だったらっ、どうして――」
喜逸の腕の中。辛そうに瞳を閉じてイタズラっぽく笑う妖狐に喜逸が思わず言葉を荒げると、妖狐の両の手が喜逸の頬に伸びて、予想外に強い力で己の元へ引き寄せた。
唇に、感触。歯と歯がぶつかり、がちりと嫌な音を立てる。
直後、脳髄にまでじわりと広がる鉄の味。咥内に他人の熱が侵入し、異物に蹂躙される奇異な感覚に驚愕が走り身体は硬直、全身に震えが伝播するが、どちらの物かも分からない。
抵抗する事も出来ず痺れるような快感が喜逸の時間を止める。
噛みつき貪り喰らうような獣の口づけは、やはり少女が人間ではなく狐の成れ果てた怪異である事の証明のようで――ぷはぁ、と艶やかな吐息が漏れると共に頬を押さえる両手の戒めが解け、二人の距離が離れ濡れる唇に粘着く赤いきざはしが掛かった。
蕩けるような歓喜と恍惚の表情を浮かべていた妖狐と目が合って――一転、彼女は純粋無垢な幼子のような透明な笑みを弾けさせた。
「ぼくはきーつを愛している。ぼくにとって、生きる理由すらそれ一つで事足りる」
「……だから、それが分からねえって、俺は……っ」
「それに、思い出も出来た」
そこで喜逸は、今にも消えてしまいそうだった妖狐に血の気が戻っている事に気が付いた。
「ごちそうさま、きーつ。……ファーストキスの味はどうだった?」
なんて言ってイタズラげに笑う妖狐の目を、喜逸はもう直視できなかった。
「……不味い。鉄錆びの味がしやがる」
☆ ☆ ☆ ☆
喜逸と妖狐が合流した時点で戦意を失っていたようだった坐武羅は、あの後すぐに元の姿に戻ると、不穏な呟きを残して撤退した。
『――この戦いの決着はいずれ。然るべき時、然るべき場所にてまた会いましょう、喜逸殿。妖狐殿。それまでどうか、お二人とも壮健であられますよう』
再戦を意味する言葉。それは、喜逸にとっても願ったり叶ったりの申し出だった。
生きている人間を殺す坐武羅を放置することは出来ない。
何より負けっぱなしは許せない。
斑輝喜逸は誰よりも強い最強の魂葬者となって、終わらない終わりを終わらせるのだから。
「すまない、きーつ。結局ぼくは、きみに迷惑を掛けている……」
異常な偏りをきたした陰の気の塊である怪異は、大きな目で見れば霊力の塊であると考える事も出来る。
故に、致命傷を負ったとしても、余所から霊力を取り込む事が出来れば回復は可能だ。
身体に大穴が開いていた妖狐は、喜逸の霊力を喰らって一命を取り留めたのだ。
あの強引な口づけの際、喜逸から霊力をごっそりと奪って行ったこの狐は、やはり人間などではなく怪異の主なのだと改めて喜逸は実感した。
だが、こうして背中におぶっていると、その存在を忘れてしまいそうになる程に妖狐は軽くて儚げで、燃えるような体温だけがその存在を感じさせるものだから、調子が狂ってしまう。
「……別に。いるのかどうかも分からねぇお前を背負ったくらいで迷惑になるような鍛え方はしてねぇ」
「そうか。それもそうだな、きーつは強くてカッコイイ最強の魂葬者だものな」
「……お前に言われると嫌味にしか聞こえねぇな」
完全に日は落ち、空には白く輝く月が昇っている。
坐武羅に殺された村の人たちのお墓を掘って、一人一人の前で軽く手を合わせていただけでかなりの時間が過ぎてしまったらしい。
唯一助かった女性は、喜逸と妖狐に泣いて礼を言っていた。殺された人の中に、彼女の夫がいたのだ。
夜も遅いから今日は泊っていって下さいと言う彼女の厚意を断り、喜逸は村を後にした。彼女を救ったのは喜逸ではない。
妖狐がその霊術で頭の傷を癒したから彼女は助かった。
それだけの事実がしこりになって引っかかっていて、何となく泊まる気にならなかったのだ。
「……人を殺す魂葬者と、人を助ける怪異の主。……俺の敵はどっちなんだろうな」
「それはきーつが決めればいい。きみに殺されるのなら、ぼくに文句はない」
「聞き耳立ててんじゃねぇよ……。お前を倒せねえから困ってるんだっての、こっちは」
ぼそりと口の中で呟いただけの独り言に反応されて、何となく居心地が悪い。
「狐は耳がいいからね、ぼくをおぶってドキドキしているきーつの心臓の音まで丸聞こえだ」
「してねぇ。着物のごわごわで胸が当たってんのかも分からねぇまな板の分際で調子乗んな」
「ふふん、本当はそういうのも好きな癖に。健全な青少年が我慢は身体に悪いぞ、きーつ」
人気のない村の外れ。
退廃と緑に覆われた朽ちた道を進む二人を、川の水音と鈴のような虫の合唱が優しく包み込んでいる。
だからだろうか、今は会話のない静かな時間も心地が良い。
夜の太陽の如く輝く月を背に、歩く道に薄すらと影が伸びる。二人分が重なり合い影は一つ。
そんな自分たちの影を見て嬉しそうに笑う妖狐が何を考えているのか、喜逸には分からない。
理由が分からないものは気持ちが悪いとやはり喜逸は思う。でも同時に、理由なんて必要ないくらいに、真実が伝わってしまう事だってあるのかもしれないとも、今日、少しだけ思った。
強引に唇を重ねたあの時、怯えるように震えていたのはどちらだったのか、喜逸は本当は気づいていた。その怯えが、何に起因するものなのか、そこまでは喜逸には分からない。
けれど、それは確かに大切な物を失う事を心の底から恐れる怯えだったから。
だから。
「……なあ、妖狐」
「? どうした、きーつ」
「お前に……もう一度言っておく。何度だって言うが、俺はお前を仲間と認めた訳じゃねえ。出先で問題を起こしても俺は関知しねえし、むしろお前が妖狐だとバレた瞬間、積極的に殺しに行く。これはこの先何があろうと、俺が魂葬者でお前が妖狐である限りは変わらねぇ……」
突き放すように冷たく告げても、相変わらず妖狐の表情は微塵も揺らがず微動だにしないのだろう。そのはずなのに、その黄金と赤の瞳が悲しく揺れたように見えたのを思い出す。
そうして、そんな凍り付いた能面のようになってしまった妖狐が本当は、今にも壊れてしまいそうな儚い人形のようにか弱く震えている事が、彼女と触れあう今の喜逸には分かるから。
「ああ、ぼくだって子供じゃない。それくらい分かって――」
「――耳と尻尾だ」
「?」
「だから、耳と尻尾。それから強過ぎる陰気も隠しとけ。俺達が向かってるのは、お前が俺と来る限りこれから先も世話になる場所――『反永久人軍』のベースキャンプなんだから」
俺達だなんて言葉で仲良く一括りにして。
あまつさえ本来必要もない忠告までしてしまった。
苦々しく口の端を歪めながら、喜逸は反吐の出る自分の甘さに舌打ちをする。
……どうしてだろう、理由の分からないものは気持ちが悪いはずなのに。怪異の主である千年妖狐は喜逸が滅ぼすべき敵であるはずなのに――
――数刻前まで妖狐に対し抱いていた嫌悪感も苛立ちも殺意も、今では全て嘘だったようにすっかり消えてしまっていて、この奇妙な関係への不思議な心地良さだけが残っていた。
薄らと伸びる影法師が、月明りに嬉しそうに飛び跳ねていた。