修学旅行編④:雪化粧と夕映えの中。
スキーの練習が始まっておよそ一時間、日向達B班は既に三度目となるリフトへの騎乗をする為、列を形成して順番を待つ。
「うぅ……太腿、パンパン……」
「悠里は普段から運動しないからねぇ。なんで運動しないのにその体型を維持出来てんのか、あたし……ほんっとにそこだけはあんたが憎いわ……」
「あ、やめ、やめてぇ……今痛いの、そこ痛いの……」
ストックに体重を預けるようにして身体を休めていた悠里の太腿を、唯が掌でぐいぐいと触る。
最近は運動を適度に行っているとはいえ、日向も慣れぬ動きで身体のあちこちに疲労が溜まってきているのを実感する。
「これ、今日のお風呂とか気持ち良さそうだね」
隣に立つ西口壮馬へと日向が声を掛けると、西口は疲れ切った表情で頷いた。
「むしろ、ホテルに帰ったらそのまま寝ちゃいそうな気がする、きつい……」
「もしかすると、夜更かし防止の為に昼間の内に体力を存分に使わせようって事かもしれないね」
「あぁ、なるほど。確かに、これで半分ぐらいは大人しくなりそうな気がするね。……あ、Aクラスだ」
西口が指差す列の後方には、今しがた滑り終えてきた小野寺教諭率いるAクラスの面々が次々と並び始める。動きの一つ一つが洗練されており、同じ学校の同じ生徒とは思えぬ程の統率だった。
「おお……ありゃまるで軍隊だね、ひぇー……」
唯が驚いたような呆れたような声を出す。
「唯もあっちに入れられなくて良かったね?」
「……恵那さん、もしかして結構滑れる人?」
悠里の一言で気付いた日向が唯に視線を送ると、唯は意味深なウィンクと共に舌を出してみせた。
「嘘はね、女の方が上手いのよ」
「はは、成程……雅みたいなヘマはしない、って事だね」
「そういう事。まぁほら、ガッツリ滑るのも確かにいいけどさ、こういう時はのんびりやりたいじゃない?」
唯のパフォーマンスを考えると、スキーが上級者であっても不思議ではない。
むしろ爪を隠してBクラスに紛れ込んでいるという真実の方が、何故かしっくりくる。
「でも、唯がカッコよく滑る所……私、ちょっと見てみたかったな。麗美達もそうだけど……皆、いつもとは別人みたいで、凄いもの」
「あぁ、うん。分かる分かる、俺も普段より雅がカッコ良く見えてる気がしてた。本人は多分ゴーグルの下で情けない顔している頃だと思うけど、ね」
悠里と二人で頷き合う日向をちらりと横目で見た唯は、幾度か視線を泳がせる。
「……そ、そうなんだ……まぁ、最後の方に、ちらっと滑るぐらいなら……いいかな」
「じゃあ、その時を楽しみにして、もうちょっと頑張ろう」
「いや、そこまで楽しみにされるとやり辛いったら無いんだけど……」
もにょもにょとした喋りをしつつ、唯はニット帽を深く被り直し、日向の視線から逃れるように顔を背けた。
分かり易い照れ方に、日向と悠里が顔を見合わせて笑い合うと、そのやり取りを見て更に拗ねた唯が悠里の太腿を執拗に小突くといった応酬が続くのだった。
時間一杯滑り倒したスキーも次でラストランとなる頃合いになり、最後はBクラスの中でも自信のある者は下まで一気に自由滑走、不安な者は先導する教師と一緒に滑るという内容になった。
「うーん、どうしよう……日向君、どうする?」
「この際だから、一気に滑ってみようかと思う。初心者用コースなら、そんなに危ない事も無いだろうし……ボーゲンは結構出来るようになってきたから」
日向は生粋の運動神経で、ほぼ基礎的な事ならばほとんど問題無いぐらいの成長を見せていた。一方で悠里は、滑れはするものの、まだまだ覚束ない感じが所々に垣間見える。
後は純粋な体力差で、傍から見ていても悠里がバテ気味なのがよく分かった。
「時間制限がある訳じゃないから、ゆっくりでも滑ってみようか。何かあれば恵那さんが助けてくれると思うし」
日向からの視線を受けた唯は肩を竦めると、ポンポンと拳で自分の胸を叩いてみせた。
「この辺りならスピード出して滑ってくる人も居ないだろうし、いいんじゃない? 悠里がバテたら、あたしがお姫様抱っこしてロッジまで運ぶわよ」
「ふふ……うん、なら最後は三人で滑りましょ。二人とも、先導宜しくね」
話も纏まり、三人は教師に下まで自力で滑る事を伝える。
既に何人かの生徒は滑走を始めており、滑り終わった者はロッジに帰還してもいいという事だった。
「それじゃ、悠里に先行して貰って、その後を俺と恵那さんが付いていくよ。自分の好きな所で止まって休んで」
「う、うん……頑張る」
教師の先導が無い為か、心無し不安そうな悠里へ日向が励ますように声を掛けると、悠里はゆっくりとしたスピードで滑走し始めた。
悠里との距離が少し離れた所で、その光景を見ていた唯が日向の隣へとやってくると、少しだけ顔を寄せてくる。
「新垣君」
「うん?」
「悠里の事、宜しくね。あたしは……滑るっ!」
「え、え……」
それだけを言って、唯はストックを思い切り斜面に突き立てると、勢いを付けて一瞬で加速する。
「恵那さーん!?」
明らかに初心者ではないパラレルで、自在にターンを決めながら滑っていく唯は、途中で悠里を追い越し、左手を軽く挙げて挨拶染みた事をすると、そこでも止まらずに滑走していった。
日向が慌てて滑り始め、斜面の途中で止まる悠里の所へ辿り着く。
「……あれ、唯だよね?」
「うん、恵那さんだったね。実に恵那さんらしい、型に嵌らないやり方であった……」
「という事は、私達だけで滑り終えないといけないって事だね……」
はぁ、と溜息を吐いた悠里は、既に豆粒ほどの小ささになってしまった唯を遠くに見てから「むっ」と気合を入れ直した。
が、すぐに不安そうな表情になり、日向を窺うように見る。
「……な、何かあったら宜しくね、日向君」
「この斜面では俺は大して役に立たないだろうけど、分かった……」
「よし、行こう!」
覚悟を決めた悠里が再びストックを手に持って滑り始めると、日向はその後ろをあまり離れぬように追随する。
時折、悠里が不安そうに後ろを振り返り、日向の姿を確認しては安心して笑顔を見せた。
中腹までは順調といっていい滑りだったものの、そろそろ悠里の足も限界だったのか、遂にはターンに失敗し、こてん、と倒れ込んでしまった。
「悠里、平気?」
「う、うん……もうね、足がガクガクで、上手くターン出来ないの……」
悠里に手を差し出して引き起こすも、立ち上がるのも辛そうに膝に手をついてしまう。
休憩を入れれば大丈夫だと思うのだが、この斜面の途中で座り込むのは流石に危ういと判断した日向は、一旦悠里をコースの外側へと誘導した。
「ご、ごめんねぇ……私、一人でも降りるから、日向君は先に滑って?」
「まさか。この状況の悠里を置いて行くと、後で恵那さんにどやされるし……」
「うん……」
「何より、蕾に叱られそうだ」
「ぷっ、ふふ……何それ。日向君が心配してくれるから、とかじゃないんだ?」
呆れたような笑いと共に、悠里が少しだけ元気を取り戻した表情で日向を見上げる。
気が付けば日没が近く、オレンジ色にゲレンデを照らす夕陽が、悠里の背後から顔を覗かせた。
滑るのに夢中で気付かなかったのだろう、悠里は斜面の向こうに見える街並みを見て、感嘆とした声を洩らした。
「綺麗……北海道の空気って、本当に澄んでいるね。遠くの景色まで、クリアに視える」
眼下に広がる町を囲むようにして、大自然が広がる。この光景に魅せられた人間の中には、そのまま定住してしまう者も居るという話を思い出した。
「こうして、自分達の街から外に出ると……世界って広いんだなぁ、ってつくづく実感するよね。日本の外に出た事すらないんだけどさ」
「日向君は、試合とかで結構全国各地に行った事があるんだっけ?」
「各地って程じゃないよ。開催する場所によるけれど、大きな都市が多かったぐらいで……それも数回だし、一番遠出したのが全国だった、ってぐらいで」
もしかしたら、どこかで道が違っていれば。
この手は、足は。今頃は、世界に指先の一つでも掛かっていたのだろうか。
そんな幻想が日向の脳裏に過るも、日向はその考えをすぐに一蹴した。
他愛も無い、未練の一つ。ただの可能性であり、それも極僅かな……些細なものだ。
日和がいつか言った通り、決して甘くはない道程であり、一度でも手を離した日向にとってはもう既に遠い出来事に過ぎない。
だからこそ、今見えるこの景色を大事にしようと、そう思える。
これは今の選択があったからこそ見える景色なのだから。
「悠里、ちょっとそこに立ったままで」
「……?」
首を傾げる悠里の前で、日向はウェアのポケットからスマートフォンを取り出す。
夕陽と悠里の組み合わせは、写真に残しておきたい程に絵になったし、何よりもこのスキー中にまだ一枚も撮れていなかったのだ。
「蕾に送るから、何かポーズが欲しい」
「えー! こ、こんな所で恥ずかしいよ……」
「大丈夫、皆さん滑るのに夢中で、誰も見てないって」
「んむ……なら、こう!」
えっちらおっちらとスキー板を履いたまま、悠里が日向の傍に寄ってくると、その腕を引っ張った。
そして、斜面で不安定な身体を支えるように日向の腕にしがみつく。
突然の悠里の行動に、今度は日向が狼狽える番だった。
「ちょ、ちょっとちょっと……?」
「私一人で恥ずかしい想いするのは嫌だもん。どうせ誰も見てないからいいんでしょ?」
「蕾は見るけどね……」
「蕾ちゃんならいいのよ、変に思わないだろうし!」
にっ、と笑った悠里の顔は、寒さのせいか僅かに紅潮していた。
その中には羞恥も含まれていたのだろうが、それでも腕を決して離そうとはしない悠里に日向は仕方ないと笑い、カメラのモードを切り替えた。
「……逆光、大丈夫かな?」
「ちょっとぐらい逆光の方が、いい……かも」
カメラに焦点を合わせたままの日向は、隣からの悠里の声に心の中で同意した。
きっと、二人とも少しだけいつもと違う日常に、ハイになっている部分があるのだろう。
ウェア越しに伝わる悠里の感触を感じながら、日向はシャッターボタンを押した。
ラブコメの波動を感じられました。
最近とんと感じられなくて、このままただのファミリードラマになるんじゃないかと冷や冷やしてました(手遅れ感)