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子守り男子の日向くんは帰宅が早い。  作者: 双葉三葉
【四章 結実の冬、足跡を残して。】
122/172

喉元過ぎれば熱さを忘れる。

 第十ゲームが開始され、現在のカウントは30-0(サーティ・ラブ)

 次のポイントも日和が得る事が出来れば、このサービスゲームを日向がブレイクする可能性は著しく低下する。

 二階の観戦席も終盤になるにつれて段々と声援は静かになっていったのだが、その中で蕾の声援だけは絶えずにずっと鳴り響き続けていた。


「おにーちゃん、ひよりちゃん、がーんばってー! がんばってー! ……こほッ!」


「蕾ちゃん、ちょっと休もう? 声が嗄れちゃうよ……ほら、これ飲んで」


「うんー……」


 声の出し過ぎで少し咳込む蕾の背中を擦り、悠里は蕾用に購入してあるペットボトルのキャップを開けた。一時はどっちを応援しようか迷っていた蕾だったが、結局は二人とも応援する事にしたらしい。

 そんな蕾の姿を見ていると、悠里達も本格的に日向を責める言葉を言えなくなり……勿論それは冗談半分ではあったのだが、もう半分の一言ぐらい言ってやらねば気が済まない気持ちは、蕾に免じて……という感じになってしまっていた。


「なんだかんだ、蕾ちゃんってやっぱり日向君の妹よね。決めたら一直線っていうか、それ以外は目に入って来ない感じ……」


「あるなぁ、それ。つーか段々と似てきたって言う方が正しいんだけどな。あいつがテニスから離れて最初の頃なんて、全然俺等とは話してくれなかったし」


「そうなの?」


「あぁ。なんつーか、むしろ日向を怖がってたぐらい。家にほとんど居ない、歳の離れた兄貴だ。無理も無いと思うんだけどな……それが、なぁ。こうして今は、日向の試合を応援してくれてるなんて、あの頃からは想像も出来ねぇよ」


「今の姿からは、想像出来ないね……」


 悠里が出会った時、既に二人は仲睦まじい兄妹で、きっとそこに至るまでの物語は日向から聞かなければ知る事の出来ないものなのだろう。


(同じように、今……あそこで試合してる二人の過去も、私からすれば別世界の出来事みたい)


 聞きたいと思うと同時、聞くべきではないとも思える。日向の事をもっと知っていきたい、そう強く想うと同時に、踏み込むべきではない聖域がある事も分かってしまうのだ。


「人生、どうなるか分かんねぇよなぁ。良い方に転んだり、悪い方に転んだり……」


 コートの中の二人と蕾、そして悠里や唯を順番に眺めてから雅がしんみりとした表情で言うと、頬杖を突いた唯が眉を寄せて苦い顔をした。


「あんたの人生で良い方に転ぶ事ってあるの?」


「あるよ?! 俺の人生お先真っ暗みたいな言い方やめてくんねぇかな?!」


 今日何度目か分からない雅と唯の掛け合いを聞いて笑みを零しながら、悠里はいつ終わるとも知れない試合の行方を眺めた。

 ペットボトルから口を離した蕾が、キャップを絞めながら息を整えている。その額は汗で濡れており、悠里はハンカチを取り出すと、そっとその額を拭いてあげた。


「ゆうりちゃん、おにーちゃん、すごいねー! ひよりちゃんも、かっこいいねー!」


 白い歯を剥き出しにして笑う蕾に、悠里は頷いて答える。

 これが終わると、きっとまた何かが変わる。予感というよりも確信に近いものを抱きながら、悠里はコートの中でぶつかり合う二人の勇姿を焼き付けようと、口元を引き締めた。



 日和は残る体力を絞り出すかのように全身を使いサーブを打ち、日向のリターンを左右へ大きく振り分けてイニシアチブを握り続ける。

 楽に勝てる試合だとは決して思わなかったが、ここまで苦戦を強いられる事は本当に想定外だったのだ。特に、男子との試合自体は高校に入ってから一度も行っていない。

 部活動という単位では練習こそ一緒にやる事があるものの、試合自体は男女別に行われる。

 そういう意味では、スクール時代の実力主義という尺度は日和にとってありがたいものでもあった。

 男子生徒と試合をして慣れて行けば行くほど、日向との距離が縮まる……その事実は、日和の向上心を存分に底上げするものだった。


 けれど、それが無くなってから、自分が何の為にラケットを握り続けるのかを迷う事が多くなった。

 追うべき人が居なくなり、ただ意地になって続けていた。いつか、この場所に戻ってきてくれる事を信じて。

 そうして今、この瞬間……願いは叶い続けている。


(私も流石に、腕がパンパンになっちゃってる……力が入り辛い……)


 日向の剛球を全身で返し続けた日和の身体も、パフォーマンスを十分に出せる状態では無くなってきていた。ここから先は、お互いに一つのミスからペースを奪い合う事になるだろう。


(防戦になれば負ける。攻めなきゃ!)


 長いストローク戦から一転し、日和は前に出る。相手の打球が弱ってきている今、前衛で叩いてしまうのが得策だと判断し、それは概ね正解でもあった。


「くっ……。……ふっ!!」


 日向が苦しそうに返したボールを、日和は逃がさず冷静に逆サイドへと振っていく。その打球は再び日向へと補足され、日和のバックサイド側のストレートへと放たれた。


(ここを抑えれば、完全に崩れる!)


 腕を目一杯に伸ばしてラケットの面を作り、ボールの軌道へと割り込ませる。渾身の力で差し向けたラケットは、しっかりとボールを捉えて日向の足元へ一直線に落ちていく。

 その場から動けず、想定以上に鋭い角度で斬り込んで来たボールに対し、日向が不安定な姿勢で打ち返したボールは十分なドライブを与えられずに高めの位置、日和からはクロスへのボレーが行える絶好の軌道を描いてしまった。


(――――崩れた!)


 日向側に完全なオープンスペースが出来上がり、一歩踏み込む。体重を乗せ、相手コートの深い場所へとボレーを叩き込もうと、ラケットを振り下ろそうとして。


 ぞくり、とした。


「……………え」


 視界の端で日向が、既に体勢を整えて動き出しているのが視えてしまう。

 鋭い視線が、日和の動きに集中され、微かな動きも見逃さないという程に不気味な気配に満ちていた。

 追い詰められた者の視線ではない、これはむしろ。


(日向先輩の……誘い込み……!)


 振り下ろすラケットは止められない、強引にコースを変えればエラーになり、どちらにしろポイントを奪われる。日和のラケットがそのままボールを捉え、予定通りのコースへと突き進む。

 そしてその打球を、まるでそこに来るのが分かっていたかのように、日向が走りながらバックハンドを構える。

 ふっ、という日向の鋭い呼吸音と共に、強烈なドライブが加わった打球が日和の手が届かぬ位置へと突き刺さった。


 壁にバウンドして跳ね返ったボールが、足元へと転がってくる。

 動揺する内心を抑えつつそれを拾い息を整えてから、日和は日向へと向き直った。


「そういえば、そんなのも……ありましたね」


「こういう場面でこそ、真価を発揮する一手、だからね……いや、しかし……危なかったなぁ、もうちょっとアングルがあったら取れなかった」


「無茶し過ぎなんじゃないですか? 息が上がってますよ。……普通、あれを取る人って居ないと思うんですけど、あの状況から持ち直すって、どういう体幹してるんですか……」


 日和の言葉に、日向はラケットを上げて応じ、リターンのポジションへと戻っていく。

 その後ろ姿を戦慄と共に見送りながら、日和は息を吐いた。


 30-15のカウントをコールする。まだポイント上はこちらが有利だ、40まで持っていけば、追い上げられてもデュースへと持ち込む事が出来る。


「ふぅーっ……ふっ!」


 トスを上げて、思いっきり身体を伸ばし、渾身のサーブを打ち込む。

 その打球を、日向は、一歩更に踏み込んで。


「……っ、らぁ!」


 今までのより、更に強い呼気と共に打ち返して来る。そのタイミングもまた、今までのよりも更に速い。


(ライジングのリターン!!)


 日和が放つスピンサーブはバウンドが大きく、相手がベースラインの深い場所から打たせる為のものだ。それを日向は、バウンドした直後に捉えて返球した。

 一歩間違えればアウトになる、リスクがあるリターンは日向の持ち味である堅実なプレイスタイルとは違う、執念の一打。

 全霊を籠めたドライブ回転は、日和の目からはあり得ない程の下降ラインを辿って、ぐん、と落下した。


「つぁっ……」


 届かせるのが精一杯の打球を、窮屈な状態から打ち上げる。落下地点には既に前に出ている日向が居て、動けないままで居る日和のコートへと叩き落とした。


 30-30……遂に並んでしまったポイントをコールし、日和は無心でサーブを放つ。

 ライジング対策にワイドへ放ったサーブは、狙い通りに日向のライジングを封じて通常のリターンが返ってくる。


(負けたくない……)


 ダブルハンドのバックで返球し、そのまま前に出る。威力で劣るのなら、速さで勝負する……どんな球が返って来ても、全て打ち返す、その決意を以て。

 日向のストロークをボレーで相手のバックハンドサイドへと落とし込み、体勢を崩す。

 完璧な流れは、プレーとしては最適のものを選び続けていた、筈だった。再び空いたオープンスペースを確認して、一歩踏み出した所で、身体が動かなくなるまでは。


(これが、狙い……だった?)


 ギリギリの状態で、日和は一瞬だけ迷ってしまった。先程の日向のプレーから、この流れもまた日向によって作られたものではないかと。

 その一瞬が、日和の返す打球のコースを甘くしてしまい、逆にカウンターのショットが日和のオープンスペースへと叩き込まれた。


 30-40……一瞬にしてマッチポイントに切り替わった状況に、日和が呆然とする。

 プレー自体に悪い部分など無かった。しかし、その悉くを打ち破る目の前の相手が、あまりにもイレギュラー過ぎた。


(届かない……二年も時間があったのに、まだ……届かないの……?)


 揺るがない筈の心に、ほんの少しだけ亀裂が入りそうだった。

 僅かなポイント差、僅かな年齢の差、その全てが……たったそれだけの距離が、永遠に埋まらないのではと思う程に。


「日和が、今日のこの時間を……どういう気持ちで迎えたのか、俺には分からない、けど」


 立ち尽くす日和へと、日向が静かに声を掛ける。


「俺は、全部を勝つつもりで捧げてきたよ。それがきっと、今の俺に必要な事でもあったと思うから。その為に……無茶だと思った事をして、無謀だと思う道筋を考えて、その瞬間だけ蕾の事を母さん達に任せた。そうしないと……日和には絶対に届かないと思ったから」


「……え?」


 胡乱気な視線を向ける日和を日向は真っ直ぐに見る。

 伝えたい言葉はきっと沢山ある。けれど、今の日和に日向が伝えるべき言葉は、一つだけしかなかった。


「長い間、待たせて、ごめん。ずっと追い駆けてきてくれて、ありがとう」


「あ……」


「この約束をした時から、決めてたんだ。ちゃんと、強い俺に戻ってから日和にただいまを言おうって」


 ずっと聞きたかった言葉が、そこにあった。


「だから、勝つよ。日和が望んだ俺に戻る為に、勝つよ」


 ずっとずっと、追い駆け続けてきた姿が、そこにあった。


「そして日和も、俺が憧れた日和に戻って欲しい」


 日向が望む自分、そんなものがあるとは、日和は考えた事も無かった。いつも追い駆けるのは日和で、憧憬を抱き続けたのも、自分だと思っていたから。

 日向が、自分に憧れる事なんて、あり得る筈が無いと思っていた。

 太陽にはいつも、手が届かないように。よくあるドラマや小説のように、自分は太陽の光を受けて輝く事の出来る月のような存在なのだと思っていた。


「俺にとって日和は……小さく見えても力強く輝いて、傍に居る俺に温かさをくれる。そんな子なんだ」


 お互いの名前がそう響き合うように、互いに影響を与え続けずにはいられない。

 日向と日和は、そういう関係だった。当人達が思うよりも深く、背中合わせに温もりを与え合う、二人で一つの存在でもあった。


「私も、そうです。私だって、日向先輩に勝ちたくて、ずっと憧れていて……」


 折れそうな心を無理矢理に立ち上がらせて、願望という燃料を糧に闘志を燃やす。

 この瞬間の為に、自分は今までやってきたのだと、そう思って言葉を紡いだ日和に、日向は真っ直ぐに答えた。


「なら、そんな……これで満足だなんて表情をしないで」


「……え?」


「もっと、先が見たいんだ。例えプロになる道を選ばなくても、そんなの関係無いぐらいに真っ直ぐに進む日和を、俺は見ていたいんだ」


 日向の言葉に心臓が跳ね上がるのを感じ、日和は顔を赤くしてその視線を受け止めた。自分を見つめる瞳を眺めて、くすりと少しだけ笑みを零す。

 日向本人は何を言ったのか自覚はないんだろうけれど、受け止め方によっては、プロポーズみたいなものだ。


「……殺し文句ですね、それ。後で皆さんに言いふらしてもいいですか?」


 弱気になった心を引っ込め、自身でも分かるぐらいに、にやけてしまう表情で日向へと問い掛ける。


「……ちょっと格好付け過ぎた感があるので、それは」


「いーえ、言いふらします。決めました、こんな歯が浮くセリフをほいほいと別の女性に使われては、私としては堪ったもんじゃないので。……でも、そうですね。現状満足なんて甘い考えを残しながら、日向先輩を捻じ伏せるなんて思い上がりでした」


 日和がラケットを持ち上げ、日向へと向ける。強い想いを届けるように、そして新たな宣戦布告をする為に。


「勝ちます」


 その一言で、最後の応酬が再開された。



 その後の顛末として、日向と日和はスクールの廊下で二人揃って床に突っ伏している。

 疲労で、ではなく、完全な羞恥で。


「こ、ここここ公衆の面前で私は何てことを、なんてことを……!」


 日和が頭を抱えてゴロゴロと床を転がり、呪詛のようにぶつぶつと先程から同じ言葉を呟き続けていた。隣では日向もまた、日和程では無いにしろタオルを顔に被せ、表情が見えないようにしながら時折背中を丸くして震えていた。

 その二人を、三人の生温かい視線が包み込んでいる。

 結論から言うと、二人の会話は全てではなくとも、何となくこんな事を話してるよね? と分かるぐらいには周囲に丸聞こえだったらしい。

 試合の終盤という事もあり、静まり返った館内では流石に声が響くのだ。そもそも、試合中にあんな長話をしていれば、誰だって何かあったのかと耳を欹てるというもの。

 威勢よく啖呵を切った日和も、男らしく日和に喝を入れた日向も、直後にその事実に気付き、自分達が観衆の面前で何をしていたのかを思い出すと分かり易く狼狽した。

 その影響か、お互いにメンタルがぐにゃぐにゃで挑む事になった最終局面は、ふわっふわな日和のサーブを日向がフレームショットかと思う程の見事なエラーで返し、それを更に日和がホームランで打ち上げて終了という、その場に居た全員がポカンと口を開けてしまう大惨事に終わった。


「うん、二人とも、熱中しちゃったんだよね。気持ち入り過ぎて、完全に二人の世界に入っちゃったんだよね……」


「あぁぁぁ……違うんです、違うんです、あれは……」


 頬に手を当てて頷く悠里に日和は泣きそうな顔でしがみつくが、何故か頭を撫でられてしまう。


「結城さんがめっちゃ困ってたのは見てて面白かった」


「……もう暫くは、ここに近寄らない事にする」


 いい笑顔で報告を行う雅と視線を合わせないように、日向は壁を見ながら呟いた。

 そこから離れた位置で、蕾は隣で腕を組んで事を見守る唯の服を掴んで引っ張る。


「ゆいちゃん、おにーちゃんたち、なんでかおあかいの?」


「しっ……駄目よ蕾ちゃん。あれはね、若さ故の過ちっていうの。一歩間違えれば黒歴史って名前がついて、後世まで語り継がれる事になる、人の歴史なのよ……」


「そうだいだねー」


「難しい言葉知ってるわね。そう、壮大なの。真に誤解無き人類へと至る為に必要な、あれやそれやなの……ま、それはそれとして。はーいはい、終わったんならさっさと着替えて来てよ二人とも! もう十分もそんな事してんだから、いい加減切り替えて!」


 パンパンと手を鳴らす唯に囃し立てられて、日向と日和は揃って項垂れながらも頷いてみせたのだった。

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