教育的指導
反対側のコートに立つ日向へと投げた質問は、二階の悠里達にもきっちりと届いていた。
『……日向先輩、もしかして……学校祭の準備期間も、練習してたん……ですか』
遠目からでは日向の表情までは詳細に確認出来ないが、あれは何となく笑っている気がする。悠里にはそう見えた。
そして、呆けたように口を開いた日和と同様、悠里もまたあんぐりと口を開けた。
「……はぁぁ?!」
学校祭準備期間の忙しさは、悠里達も身を以て知っている。日々の仕事に細々とした調整、その中でも日向の役割は人一倍過酷だった筈だ。
「つ、蕾ちゃん、日向の奴……いつ練習してとか分かる……?」
引き攣った顔のまま、雅が蕾へとなるべく優しい声色で問い掛けると、蕾は「んー」と人差し指を口元に添えて天井を見た。
「えっとね、ごはんたべて、つぼみとあそんで、つぼみがおふろはいると、もういなかったよー」
「蕾ちゃん、お風呂はいつも何時頃にごふぁぁあ!」
重ねて質問を飛ばそうとした雅の顔が急激に下方向へと吸い寄せられる。唯が肘で雅の後頭部を強打したのだ。
「あんたは幼女になんて質問をしてんのよ! このド変態ロリコン!」
「違ぇだろそうじゃねぇだろ! お前分かっててやってるだろ?!」
後頭部を抑えつつ顔を上げた雅を見ながら、唯は『ちっ……』と舌打ちをする。
蕾の隣に居た悠里が、雅の後を引き継いで蕾の肩に手を置いて尋ねた。
「そ、それで、蕾ちゃん。蕾ちゃんがお風呂入る時間って、いつも何時なの?」
「んーとね、しちじ」
「七時……って、それから練習してるの……?」
呆然と呟く悠里の視界の端で、唯が眉間に皺を寄せて悠里へ向き直った。
「だけじゃないでしょ、あの進捗表。多分練習から戻って、あれやってたんじゃない?」
「あり得るな。あいつ授業中に他の事するタイプじゃねぇし、席が近い俺も恵那もそんな光景見てねぇ。放課後の準備時間で書いてる気もするが、そんなに沢山の時間は取れてねぇ筈だ」
三者共に呆れ果てた顔をしていると、蕾が更に爆弾を投下した。
「あとね、つぼみがおきたら、おにーちゃんいっつもびっしょりでかえってくるよー。らんにんぐだってー」
「……馬鹿だ馬鹿だとは思ってたけど」
「あぁ、俺も分かってたようで、分かってなかった。あいつが何か一つ決めた時の、執念深さを……」
盛大な溜息を唯と雅が同時に漏らした時、コートの方から再びガァン! と何かが壁に当たる音がして、視線をコートへと向ける。
そこには、体勢を崩して屈みこんでいる日和と、肩の具合を確かめるように右腕を回す日向が居た。
「つまり、日向君は、多忙な時期にも関わらず、日和ちゃんとの試合を全力でする為に、結構な無茶をして」
一語一句、区切るようにして静かに語る悠里の横顔は確かに微笑んでいた。
けれど、その微笑みは決して相手に安らぎを齎すものではなく、底知れぬ重圧を放っている。
「風邪を引いてしまった、と。へぇぇ……」
言い切った後、悠里は俯いてプルプルと震えだす。思い出すのはあの日、担任相手に恥ずかしい嘘まで吐いて日向を強引に帰し、家で看病までして決意を新たに新垣家を出た瞬間の事だ。
(ちょぉぉぉ恥ずかしかったのに! あれはあれで良い想い出になったけど、なったけど!)
日向が何かに夢中になる事は悪い事ではないし、学校祭だって全力で色んな事に当たっていたのは理解している。
けれど、それならそうと何か一言あれば、もっと自分も手伝えた事がもっとあっただろう。
つまるところ、この顛末は日向が皆に対して遠慮していた、という事だけではなく、夢中になるとガンガン突き進んでしまう性格だった、という事実を浮き彫りにしてしまったのだ。
「これは……日向君に、よぉく聞かせないといけないみたいね……」
線を引いて壁を作り、一歩後退りしているだけなら、手を引いて引っ張ってやればいい。
だが、まるで無邪気な子供のように目の前の事に夢中になるのなら、時には教育的指導が必要になる。
その証拠に、コートの中でプレーしている日向は実に楽しそうに、活き活きと身体を動かしている。
その横顔を見ていると、先程までの焦りだとか疎外感なんてものは吹き飛んでしまった。
「唯、成瀬君。これ終わったら、徹底的に追及しましょう」
何を、とは悠里は言わなかったが、その先に続く言葉を唯と雅は聞かずとも分かる。
「同感だ。あの、やけに清々しい面を凹ませてやらんと気が済まん」
「まぁ、ああいう無邪気な新垣君も可愛いし、カッコいいけどねぇ……それとこれとは、話は別だよねぇ」
膝に肘を当て、両手で顎を支えながら日向を見る唯が、意地の悪そうに犬歯を剥き出しにする。
三人は示し合わせたように、コートを見据えて息を吸った。
「日和ちゃーん! 頑張れー! そんな人、ぶっ飛ばしちゃえー!」
「やれ、日和ちゃん! その余裕ぶっこいた表情を泣かせてやれ!」
「あたし達の心配を返せぇ!」
「え、え、えー!?」
突然、兄の応援が止まった事に一人おろおろする蕾を他所に、三人は『試合中はお静かに』のマナーごと蹴破る勢いでコートに立つ日和へと声援を送った。
◆
「だ、大不評なんだけど俺!?」
突然のブーイングに、日向は二階を見据えて口を開いた。コートの対面を見てみると、日和も同じくぽかんとした表情で二階を見上げている。
「ちょ、ちょっと皆! もうちょっと静かにしてよ! 試合中なんだから!」
『うるせー! 卑怯もんは黙ってやられてろ! 可愛い子が勝つのが正義なんだよ!』
「超正々堂々やってるのに!?」
弁解を試みるものの、三人の声は止まらない。試合を続行していいものか迷った日向は結城の方を見た。
「……まぁ、身内だけの試合だし、公式じゃないし。都市対抗とかクラブ対抗でも、こんぐらいの声援はおばちゃん達、普通にしちゃうし。大体お前の自業自得だし。あっちがいいってんならいいんじゃない?」
そう言って結城が指差す方向には日和が居て、気付けば日和は既に二階ではなく、日向を真っ直ぐに見ていた。
「構いませんよ、私にとっては声援のようですし。どうやら皆さん、日向先輩に思う所があるのは御一緒のようですので。……ふふ、あっははっ!」
止まらないブーイングに堪え切れず笑った日和が、ラケットを構え直した。
その瞳に、既に困惑も動揺も見られない。ただ、倒すべき相手として日向を見ている。
「よくも一方的にやってくれましたね。ここから先は、日向先輩にも少々痛い目を見て貰います」
良くも悪くも、一途。
余談ですが、練習に時間を割いた分、蕾の可愛がり方は凝縮されています(作者脳内)