鏡映し、魔女の勇者。
一年生の教室が並ぶ二階の廊下は、上級生のそれと比べて比較的穏やかな喧噪に包まれていた。
高校に入学して初めての学校祭という事もあるのか、それとも一年に満たない時間がどこかでブレーキを踏むのか、少なくとも階上から聞こえてくるような、怒声の如き勧誘をする生徒はほとんどおらず、たどたどしくも上品な雰囲気で時間が経過していった。
その中の一角で、日和はクラスの模擬店用にと用意されたバイザーとエプロンを外しながら、ほっと息を吐いた。
働きながら時計を何度も確認し、ようやく訪れた休憩時間だ。今か今かと待ち構えて、遂にその時がやって来る。
(よし、日向先輩達の休憩時間よりちょっと早い。変装姿が見られる……!)
他の生徒達に見つからぬよう、腰に隠れる場所でグッと拳を握り込む。あらかじめ日向達の休憩時間を訊いておき、自分の休憩をそのタイミングで捻じ込む事に全力を注いだのだ。
「ひかり! こっち準備終わったよ、行ける?」
「あ、日和ちゃん待って待って! もうちょっとで終わるから!」
持ち場を別の生徒へとバトンタッチした日和とは対称的に、ひかりは未だに替わりの生徒と交代出来ていないようだ。到着が遅れているのだろう。
「ちゃんと待ってるからいいよ、落ち着いてね」
わたわたと手元のパンへと冷蔵されていたソーセージを挟み込み続けるひかりに、日和は掌を向けながら言う。本音では一刻も早く日向の教室へ向かいたかったが、自分の都合で相手を急かす事はしたくなかった。
仕事に入ったクラスメイトの邪魔にならぬように、教室から出てドアの付近へともたれかかる。
半身だけ出して、ひかりへちゃんと待っている事をアピールしつつ周囲を見渡すと、丁度斜め向かい側に壁張りされた案内図を眺めている女性の後ろ姿が見えた。
女性は案内図を見て「んー?」だの「んー」と唸るばかりで、首を傾げたかと思うときょろきょろと辺りを眺め始めた。
そして、背後でじっとその様子を見ていた日和と目線が合うと軽く会釈してくる。
「あ、あのぉ……ごめんなさい、お聞きしたい事がありましてぇ……」
「はい、なんでしょう?」
近くに寄って来た女性は、日和から見ても更に小柄で、ひょっとしたら学生なのではと思う程であった。無論、高校生以下の……である。
けれど、その割に衣服類は落ち着いた柄のロングスカートにカーディガン、ハンドバッグという若奥様風の装いをしているので、一見すると年齢が不詳過ぎて混乱しそうになる。
「多分、二年生の教室だと思うんですけど……小野寺修二という教師が担任をしているクラスに心当たりはありませんかぁ……?」
「小野寺先生ですか? 分かりますけど……」
女性の口から日向達の担任教師の名前が出る事に驚く。
「本当?! 良かったぁ、私ったらこんな時に、夫の担任クラスが何処だったかド忘れしちゃって! 歳を取ると嫌になっちゃうよねぇ!」
(……夫?!)
安心したのか、急に口調が砕けると更に幼く見える女性にも驚いたが、その口から出た事実にも驚く。思わず口を閉じてしまった日和に、相手の女性は首を傾げて「どうかしたのかしら」と不思議そうな表情を浮かべた。
「あ、えっと、私の先輩のクラスが、小野寺先生のクラスで……この後、私達も向かうんですけど、良かったら一緒に向かいますか?」
案内するより早かろうと判断した日和の言葉に、女性はパッと顔を輝かせる。
「本当? それは凄く助かるよー! あ、私は小野寺晴香と言います、一応はここのOGなんだよ、宜しくねー!」
「あ、わ……ひゃ!」
日和の手を掴み、ぶんぶんと振ってくる晴香の笑顔を見て、日和は妙な既視感を覚える。けれど嫌な感覚ではない、むしろ慣れ親しんだものとよく似たものだ。
(なんだろう……この人。性格は全然違うのに、雰囲気が日向先輩に似てる……?)
だからだろうか、普段はそこまで人に親身にならない自分が、相手の案内を買って出るような真似をしたのは。
相手の迫力に気圧されながらも頭の中でそんな事を考えていた日和は、ひかりから声を掛けられるまで晴香を眺めてしきりに首を傾げていた。
クラスメイトと交替出来たひかりと合流し、晴香を交えて三人で階段を上がる。
二年生のクラスは一年生とは比べ物にならない程にあちらこちらで客引きの声が響いており、本当に同じ学校祭なのかと疑問を挟みたくなる程だ。
「うっわー二年生って元気いいね! 私達も来年はこんな風になるのかな!」
「知らない! でも三年生はもっと凄いらしいから、きっとそうなんじゃない?!」
周囲の喧騒に負けじと、日和とひかりは気持ち大きめの声で話し合う。
一方で晴香は、その光景を眩しそうに見ながらにこにこと楽しそうに笑っていた。
「ふふ、いいよねぇ、この雰囲気。皆が自由に楽しくやってるのが、凄く伝わるよー」
「晴香さんの時も、こんな感じだったんですか?」
「んー、多分? 私はあんまり、参加してなかったから、よく分からないんだぁ」
「そうなんですか、なんだか凄く率先してやりそうな感じなのに……」
明るく人懐っこい性格の彼女なら、周りからもさぞ慕われていたのであろう事が伺えたので、日和にとって晴香の返答は意外なものだった。
けれど、人は見掛けによらない所もあるので、そんなものかな、ぐらいにも思ったのだった。
やがて人混みを掻き分けると見知った顔がドアの前で佇む場所に来る。
日和達を最初に迎えたのは魔女っ子姿の沙希だった。
「あれ、後輩ちゃんだ。いらっしゃいませー! 入る?」
「鹿島先輩、こんにちは。えっと……」
二人分の席を、と口にしようとして、同伴している晴香の事を思い出す。
「こちらの方も御一緒かな? というかその方がありがたいんだよね、今ちょっと混んでて」
沙希が教室の中を指差すのでそちらを見ると、確かに席はほとんど埋まっており、奥の一角だけしか空席が無いようだった。
どうしようかと晴香へ視線を向けると、晴香は特に嫌がる素振りを見せずに笑顔で頷いた。
「私は全然大丈夫よ、むしろ若い子達の中にお邪魔しちゃっていいのかなぁって」
「あ、えっと、私達も大丈夫……だよね?」
「うん、私も全然気にしないよー!」
日和がひかりの方を向いて確認すると、ひかりも平気だと言うように頷き返してくれる。
「それじゃ、三名様ごあんなーい! あ、ちなみに奥の空いてる席にはマスコットキャラが居るから、存分に構っててあげてね」
「マスコット……あ」
沙希の案内を受けて日和が教室を覗き込むと、奥の座席には机に向かって何やら一生懸命に鉛筆を動かす見慣れた少女の姿があった。
入口から教室へと入ると、シルキー姿の悠里が出迎えてくれる。
「いらっしゃい、日和ちゃん。それと、ひかりちゃんね!」
「芹沢先輩、こんにちは。うわぁ……可愛い、なんですかその衣装……!」
「えっへへ……うちのクラスの被服係が気合入れてくれてね、ウェイトレス役はこの衣装なの……恥ずかしいよね、ほんとう……」
「とんでもないです、すっごく似合ってますよ!」
日和が首を振りながら頷くという忙しい動作をして見せると、隣のひかりも同じようにこくこくと頷く。
普段から美人な先輩だとは思っていたのだが、こうして非日常な衣装を身に纏うと更にその容姿が際立っていた。
艶があり長く腰元まで届く髪の毛も、その頭に載せられたヘアバンドも、悠里の魅力を存分に引き立ててくれている。あまりにも似合い過ぎていて、日和は女性として少し嫉妬してしまう程だった。
「っていうか、芹沢先輩って何を着ても似合いますよね」
「そそそそんな事無いよ?! 私、家の中だと偶にシャツとスウェットだし!」
存外にラフだな、と思いつつも日和は悠里のスウェット姿を頭の中で想像してみた。
例えば寝起きで寝癖が起きている状態の悠里にスウェット、それはそれで普段とは違う無防備な姿で、男性ならばコロッと心を奪われる所があるのではないかと思う。
(……やっぱり、何着ても似合う。私も、もうちょっと身長欲しかったな)
うん、と日和は一人で納得し、頷いた。
「あ、それと、そちらの方も御一緒でいいのかな? 日和ちゃんの知り合い?」
「えっと、この人は……」
どうしたらいいだろうかと日和が逡巡している間、晴香は物珍しそうに教室を見渡して歓声を上げていた。何度か視線を送ってみたが、晴香の瞳は周囲に対する好奇心に満ち溢れていて、全く日和の視線に気付かない。
「多分、大丈夫だと思います、はい」
悠里の案内でひかりと晴香と三人で席に着く。ひかりと晴香は蕾の正面へ、そして日和は蕾の隣へと。
椅子が引かれる音に気付いて、はっとなった蕾が顔を上げると、そこには手元を覗き込んでくる日和の顔があった。
「あー! ひよりちゃんだ!」
「つっつ、こんにちは。やっぱり此処に来てたんだね」
小さくぱたぱたと手を振ってくる日和と掌を合わせ、蕾が『にへら』っと口を綻ばせる。
そして正面に座る二人を見て、首を傾げた。
「あ、やっぱり私はまだ覚えられてないかぁ。ファミレスとコートで会ってるけど、あんまりお話してないもんね。牧瀬ひかりです、日和ちゃんの、お友達。蕾ちゃん、宜しくね!」
「ひかりちゃん! ……こっちのおねえさんは?」
ひかりの名前を刻み込むように復唱した蕾は、更に視線を隣へ移し、頬に手を当てて微笑んでいる晴香を見る。
「あぁ、えっとこの人は……日向先輩のクラスの……つまり、ここのクラスの先生の、奥さんだって」
日和が蕾に説明すると、蕾ではなく周囲が一気にどよめく。男子は殺気立ち、女子は好奇心に目を輝かせ、一瞬にしてクラスの視線のおよそ半分が晴香へと注がれた。
「け、拳王の嫁さんだと……」
男子生徒を代表したかのような言葉で、秀平が慄く。女性の身体をまじまじと見るのは失礼に当たると思ったのか、足元から頭部までを一瞬で観察し、その後はじっと晴香の表情を見ている。
「び、美人だ………」「小さくて可愛いー!」「知ってるぜ俺、拳王も家では奥さんに頭上がらないって」
「幼な妻の噂は本当だったのか……」「あの人だけは俺達の味方だと思っていた」「結婚してる時点で最初から分かり合えない運命だったんだよ」
ひそひそとクラスメイト(主に男子陣)が囁き合う中、当の晴香は意に介さずといった風に目の前の蕾へと視線を注いでいる。優しく、懐かしむような感情に瞳が揺れている。
「私は、小野寺晴香、といいます。は、る、か」
「は、る、か……」
「そう、好きに呼んでくれて大丈夫だからねぇ。あなたのお名前を教えてくれるかなー?」
「あ、あらがき、つぼみです。つ、ぼ、み!」
晴香を真似て名前を一語一句はっきりと発音する蕾に、晴香を含めてその場に居た三人がくすくすと笑う。そして蕾と顔見知りのやり取りをしていた日和へと、疑問を投げかけた。
「この子は一人で座ってたけど、ここのクラスの関係者なの?」
「はい、このクラスに居る先輩の妹さんで、お兄さんが何処かに居ると思うのですが」
「そっかぁ……ふふ、仲良し兄妹なんだねぇ。どの方がお兄ちゃんなのかしら?」
言いながらきょろきょろと周囲を窺うが、晴香の視界からは衝立の向こうにいる日向の姿は見えない。
先程から日和も隙あらば教室を見渡しているのだが、一向に現れる気配が無いのだ。
しかし、日向が蕾を放ってどこかに出掛ける筈も無いので、手洗いにでも行っているのかと、そう考えていた日和へ悠里が笑いながら声を掛ける。
「もしかして、日向君探してる? ちょっと待っててね」
「うえっ?! あ、いや、そういう訳では……」
分かり易く動揺する日和を尻目に、悠里は傍にある衝立の奥へと消えていった。
それから程無くして、黒いマントとシルクハット調の帽子を手に携えた日向が悠里と共に衝立の奥から姿を現した。
「あぁ日和、いらっしゃい! 御免ね、ちょっと立て込んでて……蕾の相手してくれてたんだ、ありがとう」
「こんにちは、日向先輩。マント、良い感じじゃないですか!」
「あんまり見られると恥ずかしいんだけど……でも、雅のよりは随分マシかな。衣装係に感謝しないとね。見てみる?」
含み笑いをする日向の表情が気になり、日和は一度席を立って衝立の奥を覗く。
そこには、前述の何とも言えない姿になった雅が黙々と鉄板と向かい合っていた。
「うわぁ……」
「せめて罵声でもいいから感想が欲しかった。普通に引かれると普通に傷付く」
恨みがましい視線を向けてくる雅を遮るように、日和は顔を引っ込める。隣で様子を窺っていた日向から「どう?」と言われて、日和は静かに首を横に振った。
「まぁ、雅だからこそ似合うという話だよね……」
「妙に違和感が無いんですが、果たしてこれは似合ってると言えるのですかね……ちょっと私には判断付きません……」
げんなりとした日和を見て、日向が苦笑いを零す。そして、近くの机に置いてある透明なプラスチック容器を三つほど手に取ると、日和へと差し出した。中に入っているのはお好み焼きだ。
「それより日和、お腹空いてない?」
「え? えっと、はい。ちょっとだけ空いてます……けど」
「なら、丁度良かった。こっちももうすぐ休憩だから、良かったら、これを蕾と一緒に食べててくれないかな」
「いいですけど、って三つもですか?」
手渡された容器を受け取ると、掌にじんわりと温かい熱と、ほのかなソースの香りがする。
「うん、蕾がそんなに沢山食べるか分からないから、出来れば日和の分から少しだけ分けてあげてくれると嬉しい……後は、牧瀬さんと一緒に居る人の分。俺がやれればいいんだけど、もうちょっとだけ焼いておきたくて……」
時計を見ると正午を少し過ぎた所で、まだピークの時間帯は暫く続く。
日向の後方には机に積まれた容器が十個以上はあったのだけど、混雑具合を考えると確かにストックは沢山あった方がいいのだろう。
「分かりました。つっつのお昼ご飯は私にお任せ下さい。それより、後で皆で一緒に回る約束、忘れないで下さいね!」
日和が日向と悠里を交互に見ると、二人とも揃って頷く。
その背後から、雅が「俺もな」と顔だけを出してすぐに戻る。
続けざま、日和の背後から人影が忍び寄ると、日和を後ろから抱き締めるように覆い被さり、耳元に「ふぅっ」と息を吹きかけた。
「はうあっ!」
驚いて日和が後ろを振り向くと、見慣れぬ女子の姿があった。
正確には、顔には覚えがあるのだが、何か決定的に違和感のある人が居たのだ。
「……何するんですか! ……って、えっと。恵那……先輩ですか?」
「はうあっ! だって! はうあー! あははは! 日和ちゃん、不意打ちに弱いよねぇ」
「恵那先輩ですね……」
お腹を抱えて笑う姿を見て、日和は相手が唯である確信を持つ。
いつもは結んでポニーテールにしている髪型が全て下ろされ、更に悠里と同じエプロンドレスの衣装を着ている為、元気さよりも清楚さが前面に出ている。のだが、仕草が全てを台無しにしていた。
「こら、あたしの事も忘れないでよ。一人だけハブられて置いてかれたら、末代まで祟ってやるかんね!」
「つーぼーみーもー! つぼみも、おいてっちゃいやだよー!」
片手を腰に当て、もう片方の手を胸元にぽんぽんと叩き付ける唯と、その後ろで座席に座っている蕾も唯の真似をしているのか、拳を握って自分の胸をドンドンと叩きながら自己主張を始めた。
「ふふっ……賑やかだねぇ、この子達。いっつもこんな感じなの?」
「私も、あまり御一緒した事は無いんですけど、きっとこんな感じなんだと思います」
傍でその光景を見ていた晴香が隣に座るひかりへと問い掛けると、ひかりは笑いながら頷いた。
ふと、その声に気付いた日向が晴香の方へ振り向くと、自分を見詰める晴香と目が合った。
「君が、蕾ちゃんのお兄ちゃん?」
問い掛けられるも、一瞬だけ晴香の顔に驚き、言葉を失った。
「……あなたは」
いつかの公園の記憶を思い出す。
それはあの日、自分を暴き、そして救い、取り戻させたあの魔女の面影を彷彿とさせた。
予想通り、予想より時間が掛かってようやく学校祭で書きたかった本題に入ります……。
じっくり書き過ぎじゃないですかね……。(自戒)
二月一日が過ぎてました、書籍が発売されております!
各方面から購入報告や、嬉しい感想が沢山届いていたり……本当に、感無量です。
巻頭カラーの蕾の笑顔がヤバい破壊力なので、特設ページにてご覧下さい!